目醒めた血脈
手裏剣が喉元を貫いた瞬間、異形の魔物は呻くような低い声を漏らし、そのままぐらりと揺れ、背中から崩れ落ちた。岩のように硬そうだった皮膚は、一点の急所を突かれたことで、その巨体の支えを失ったのだろう。
どさりと重い音が響いた。石畳の床に染みる黒い体液と、ぴくりとも動かないその死体。ナオは呼吸も忘れてしばらく動けずにいた。
(……倒した……のか?)
信じがたい現実だった。動いたのは自分の体だ。投げたのも自分の手裏剣。だが、どう考えても「初めてやった」とは思えない正確さと速度、そして致命性。恐怖と驚きと、ほんのわずかな達成感が入り混じり、胸の内をかき乱す。
心臓の鼓動が、耳の奥で大きく鳴っていた。喉が乾き、手のひらがじんわりと汗ばんでいる。けれど、どこか体の奥が熱を帯び、目の奥に鋭い感覚が残っていた。まるで、自分の中に眠っていた“何か”が目覚めたかのように。
その時だった。
再び、あの声が脳内に響いた。今度はより明瞭に、機械のように無機質な音色で。
──ステータス確認。ウィンドウ展開。
「え……?」
その瞬間、視界の右端に青白い光が差し込んだ。ナオは瞬きを繰り返す。光は次第に形を取り、やがて宙に浮かぶ半透明の板状の“画面”となって固定された。それはまるで、ゲームで見慣れたステータス画面そのものだった。
《STATUS WINDOW》
【名前】カミシロ・ナオ
【年齢】17
【種族】人間(転生者)
【称号】忍の継承者/異界の来訪者
【レベル】1
【HP】120/120
【MP】80/80
【体力】B(人間平均比1.2倍)
【知力】B
【敏捷】A+(最適化補正)
【技能スロット】開放済(忍術系統)
【特性】
・《潜伏適応》:暗所・迷彩時、存在感を30%減少
・《身体記憶:忍》:訓練により得た技能を自動最適化
・《武器親和》:初見武器でも50%の性能で使用可能
ナオは目を見開いた。指先が震える。自分の“情報”が、まるでデータのようにまとめられ、浮かび上がっていた。
「……なんだこれ……ゲームみたいだ……」
そう呟いた直後、音声ガイダンスが続く。耳に届く声はあまりにも冷たく、感情の欠片もなかった。
──称号【忍の継承者】、起動条件を満たしました。
──スキル《影移し》《手裏剣術》《無音歩行》を初期解放。
──特性《身体記憶:忍》により、現実世界での訓練成果を補正反映。
ナオは、その場に膝をついた。胸の鼓動が速い。現実感がどんどん遠のいていく。
(スキル? 影移し……手裏剣術……無音歩行……)
見覚えのある名前だった。祖父から聞かされた“忍術”の数々。昔話のように語られていたが、ナオは密かにそれらを学んできた。誰にも言わず、遊び半分で真似していたものもあった。だが、それらがここでは“スキル”として明文化されていた。
「……俺が、現実でやってきたことが……スキルになってる……?」
信じがたい思いだった。だが、それと同時に妙な納得感もあった。
自分が何者であるかを、誰よりも曖昧に感じていた現世の生活。成績は中の下、運動も並、友達との距離も適度なもの──決して目立たず、誰かに強く求められることもなかった。
でも今、ここで初めて「自分である意味」が可視化されたような気がした。
忍の継承者。異界の来訪者。転生者──。
いずれも、現実世界では意味を成さない言葉だった。だが、この場所では違う。これらの称号が、力となり、スキルとなり、生きるための術になる。
ナオはゆっくりと立ち上がった。まだ手は震えている。心臓もバクバクと暴れている。だが、その中心には不思議な“静けさ”も芽生えていた。
(これが……この世界のルールなんだ)
納得した瞬間、怖さは消えなかったが、冷静さが少し戻ってきた。足元に転がる魔物の体は、じわじわと黒い霧となって消えていく。残ったのは一枚の黒い石板のようなもの。そっと拾い上げると、そこにはまたもや文字が浮かび上がった。
《ドロップアイテム:獣皮の欠片/魔素断片》
(ドロップ……まさか、魔物を倒すと“アイテム”が出るのか?)
もう一度、さっきのウィンドウに意識を向けると、視界の左側に新しい項目が現れた。
【INVENTORY】
・獣皮の欠片 ×1
・魔素断片 ×1
・投擲用手裏剣 ×2(残数)
目を細める。これは単なるファンタジーではない。ゲームのような構造と、現実の感覚が混じり合った、恐ろしい異世界だ。
その時、奥の通路からまた何かの気配が近づいてくるのを感じた。足音は静かだが、確実にこちらに向かっている。
(……まだ来るのか?)
ナオは手裏剣を構えた。脈打つ心臓の音が再び高まり、体の緊張が極限まで高まっていく。
影の中から現れたのは、先ほどよりも一回り小柄な魔物。だがその動きは素早く、四肢の爪が鋭く光る。
(やるしかない!)
「はぁッ!」
ナオは前に出た。足音を消し、側面へと回り込む。影から影へと滑るように移動し、手裏剣を放つ。
シュッという音と共に、刃が空を切る──だが魔物はその軌道を読んでかわした。だが、ナオの動きは止まらない。
「影移しッ……!」
瞬間、ナオの姿がふっと揺らぎ、分身のようにぶれた。そして本体は背後へと回り込み、短剣を抜き放つ。
ズバッ──!
魔物の肩口に深く突き刺さる刃。悲鳴を上げて暴れる魔物を、ナオは勢いのまま押し倒した。返す刃で喉元をかすめ、血飛沫が弧を描く。
「っ、はぁ、はぁっ……!」
再び、沈黙。
倒した。
だが、ナオの中にはもう先ほどのような動揺はなかった。
(俺は、ここで──生きる)
その決意とともに、ナオは静かに次の通路へと足を踏み出した。
──視界が、赤に染まっていた。
火でもない、夕陽でもない。魔物の爪が空を裂いたときに舞った、血と恐怖の色だった。
(速い……!)
咄嗟に飛び退いても間に合わない。ナオの目の前、わずか数歩先にいた少女が声を上げた。
「危ないっ!」
その声を聞いた瞬間には、もう身体が動いていた。自分でも理解するより先に、ナオは少女──ミュアの腕を掴んで突き飛ばし、自らがその前に立っていた。
「下がってろ……!」
息を呑む。全身の血が沸き立つような錯覚。心臓が無秩序に打ち、喉の奥で呼吸が渦を巻いた。目の前にいるのは、刃のような爪と、無数の牙を持つ獣型の魔物。複数の眼が赤く輝き、殺意を浴びせてくる。
次の瞬間――声が、脳内に響いた。
──血統認証確認。条件達成。
──《継承コード:忍祖“神代”の血》、解放。
その言葉と同時に、脳に直接流れ込んでくる膨大な“情報”。
呼吸のリズム。足の置き方。殺気の気配の読み方。重心移動の妙。刃の持ち方、斬撃の角度、間合いの測定。どれもが生々しく、しかし懐かしい。まるで、何百回、何千回と反復練習を積み重ねてきたかのような“身体の記憶”だった。
(……これ……俺が知ってる……?)
いや、違う。知っているのではない。刻まれていたのだ。血と共に、体と共に、長く沈んでいたものが、ようやく今、目覚めた。
「……っ、影遁、抜刀一閃!」
言葉と同時に、地を蹴った。
身体が軽い。重力をすり抜けるように、滑るように駆け、気配を断ち、闇のなかへと溶ける。魔物が構えた瞬間には、すでにその背後に立っていた。
ナオの右手には、いつの間にか現れていた一本の黒刀。その刃が、無駄のない軌道で振り抜かれた。
シュゥン、と音がした。
それだけだった。
次の瞬間、魔物の巨体が呻きをあげて崩れ落ちる。断末魔の咆哮を上げる間もなく、黒い煙のようにその身が霧散していく。
静寂が訪れた。
「………今の……なに……?」
掠れた声が後ろから届いた。振り返ると、ミュアが地に座り込んだまま、呆然とナオを見上げていた。栗色の髪が乱れ、薄いマントの裾が土埃に汚れている。だが、その瞳は確かにナオだけを見つめていた。
(ああ、俺……)
現実に引き戻されるように、ナオは刀をおろし、肩で息を吐いた。手のひらが震えている。それは恐怖ではない――体の奥底からこみ上げる、熱のようなものだった。
「……わかんねぇよ。けど……たぶん、“忍者”ってやつ」
ナオはゆっくりと言葉を紡いだ。
「……昔の日本にいた、影で生きた戦士。俺の家に伝わる伝説みたいなもんだと思ってたけど……それが、今……」
言いながら、自分でも信じられなかった。けれども、身体の奥に残る残響が、その力が確かに本物であったことを訴えていた。
「……あの、えっと……」
ふいに、ミュアが小さく口を開いた。
「私、ミュアっていうの。……ここの、探索者の訓練チームにいたんだけど、ひとりになって……」
どこか不安そうな目で、ナオを見つめる。
「ありがとう。さっきは、本当に助けてくれて……君、名前、なんていうの?」
ナオはほんの少し驚いた顔をして、それから照れたように目をそらした。
「……神代ナオ。カミシロ・ナオって言う。元々は、たぶん……日本っていう国から来たんだと思う」
「ナオ、くん……」
「“くん”は別にいらないよ」
そう言って、小さく笑った。
どちらからともなく、互いの間にほんの少し、静かな風が通り抜けた。先ほどまでの殺伐とした空気が、わずかに和らいだようだった。
そのとき。
──ステータスウィンドウ更新。
再び青白いウィンドウが現れ、無機質なナビゲーション音声が続く。
■特性《忍祖の血脈》が覚醒しました。
・身体記憶の開示:隠された訓練成果を最大150%再現
・潜在技能《影渡り》《察知封殺》《一閃斬》を一時解放
・戦闘中、戦況に応じた【技能候補】を自動提案
「……スキル……」
ナオは小さく呟いた。まるでゲームのように、目の前の現実が「システム」として表示されるこの世界。だが、現実味がないとは思わなかった。むしろ、妙にしっくりくる。
(俺が、現実で“意味もわからず”訓練していたこと……全部、このためだったのか?)
たしかに、自分の家は代々「神代流」と呼ばれる武術を伝えていた。祖父が厳しかったのも、意味のわからない呼吸法や足さばきを教えたのも、全ては“この日のため”だったのかもしれない。
「ナオ……ありがとう。助けてくれて……」
ミュアが立ち上がり、ナオの腕をぎゅっと握った。手は震えていたが、その目にははっきりとした感謝が宿っていた。
ナオは少しだけ視線を逸らした。慣れていないのだ、こんなふうに誰かに“頼られる”のは。
「……いや、俺もびびってたし……でも、動けたのは……多分、ミュアがいたからだ」
「えっ……?」
「誰かを守りたいって思ったとき、勝手に体が……いや、“技”が反応したんだよ。きっと」
言葉にして初めて、ナオは自分が“変わった”のだと実感した。もう、ただの平凡な高校生じゃない。異世界のダンジョンで、血脈に眠る技を覚醒させた、“忍の継承者”になったのだ。
(俺は……ここで、どうする?)
答えはまだ出ない。だが、背後に誰かをかばい、技を振るい、生き残った今、歩き出すべき道は見えていた。
どこかから風が吹き込む。地下とは思えない、温かい風だった。
ナオはゆっくりと刀を鞘に収め、ミュアと並んで歩き出した。これが、彼の“本当の目覚め”――第一の覚醒だった。