試練②――幕間
――霧の階層を抜け、《フィル=ノワ》の街に帰還したナオは、報告を前にひとり街外れの展望岩へ向かっていた。
静かな風が吹く。草葉の擦れる音が耳に届き、遥か下には魔光灯に照らされた街並みが、呼吸するようにゆらめいている。
ナオは岩に腰掛け、深く息を吐いた。だが、心の中は穏やかではない。
『……あの封門。あの文様。「境界」「護り」「外界」』』
浮かび上がった言葉たちが、脳裏にこだまのように響く。
そしてそれは、遠い記憶の奥底からある声を引き出した。
『常日頃から怠らぬように。』
『私たちは、護る者なのだから。』
父と母の声。
幼い頃、何度も繰り返し耳にしたその言葉。
厳しくも穏やかな声音。だがその奥には、決して揺るがぬ意志のようなものが宿っていた。
当時は意味など分かるはずもなかった。
早朝の訓練、呼吸の整え方、型の習得、護符の扱い、決められた作法と規則。
それらはまるで「修道」のようであり、幼いナオにとっては息苦しさと疑問の連続だった。
「なぜ、こんなことをしなければならないのか」
そう思ったことは、一度や二度ではない。
だが、疑問に思うことすら、どこか許されない空気があった。
家の地下室には誰も近づかせなかった。
そこには古びた紙の護符、読めない文字列、錆びた鍵、そして奇妙な石柱があった。
ある日、好奇心に駆られて忍び込んだとき、ナオはその空間に立ち込める何かに、ただ圧倒され、逃げるように階段を駆け上がった。
父に見つかったとき、彼はナオが忍び込めた事を驚き目を見張った。
『この家は、本来ずっと保つべき場所を護ってきた。何も言わずにな…』
ただ静かに、寂しそうに言った。何かを悟ったように......。
あのときの父の背中。
わずかに震えていた肩。
今なら分かる。
あの家には“任”があった。
それは人知れず、時代の変遷と共に薄れていった何か。
母は病弱だったが、祈るように護符を綴っていた。
夜、ナオの寝顔を覗き込みながら、そっとその手を額に当てていた。
あれは単なる母の愛情ではなく、“術”だったのかもしれない。
「いつか、その日が来る」
両親も、祖父も、そう言っていた。
「その日って、なんだよ」と投げた問いに、誰も明確な答えはくれなかった。
だが、あの《封門》の反応。
ナオの魔素にだけ“識別”するように応じたその反応が、今、確信へと変わりつつある。
(うちは、“門を護る家系”だった。……たぶん、そうだ)
それが何の門かも、なぜこの世界と繋がっているのかも、まだ解らない。
だが偶然ではない。
ナオがこの《異界》に現れたこと、それ自体が必然であったかのような──そんな気がしてならなかった。
風がそよぎ、展望岩の先に広がる《フィル=ノワ》の街に視線をやる。
そこには、少しずつではあるが、多種族が寄り添い始めた“現在”がある。
「護る者──か」
ナオはゆっくりと呟く。
それは今までの人生で、背負わされてきた重さへの疑問が、少しだけ“意味”に変わる瞬間だった。
そのとき、草葉を踏む足音が背後から届いた。
「ナオ?」
ミュアだった。
少し離れた岩の陰から、心配そうに顔をのぞかせている。
「報告、行かなくていいの?」
ナオは目を伏せ、すぐに小さな笑みを浮かべて彼女に返した。
「うん、行こう。ちゃんと話さないとね。
あの扉が何だったのか、全部は分からなくても、感じたことを」
ミュアは頷き、ナオの隣に立った。
夜の風に乗って、焚き火の香りがほのかに漂ってくる。
《護る者》としての意味、それを知る旅は、ようやく始まったばかりだ。




