試練②ー霧の底を往く
──48階、再訪。
再び足を踏み入れた《霧群の洞(カザの深井戸)》は、以前よりもさらに深い霧に包まれていた。
薄明かりの中で、岩壁に染みついた魔素がゆらゆらと揺らめき、洞窟全体が呼吸しているかのように感じられる。
「……前より重い、空気が」
ミュアが呟きながら、手で周囲の霧を払い、足元を慎重に探った。
空気に含まれる魔素の濃度が明らかに上がっており、肌に当たる感触が、刺すように鋭い。
ナオは歩みを止め、静かに呼吸を整えると、深く息を吸い込んだ。
「この先が“封門”か……。気配が、揺れてる。まるで呼吸みたいだ」
ふたりは言葉少なに頷き合い、岩肌に手を添えながら斜面を進んでいく。
足場は湿っており、所々に苔状の魔素結晶が生えていた。
慎重に体重を分散させつつ、ナオは《命視》を発動。周囲の魔素の流れが見えるようになり、霧の帳に隠れていた異変の筋が露わになっていく。
「ミュア、右手の通路だ。水流が逆転してる。多分……そこが中心に繋がってる」
ミュアは頷き、右手の狭い斜路へと先導した。
霧に紛れたその通路は、天井が低く、時折頭を屈めながら進む。
■通路描写ー封門の兆し
進んだ先の斜路は、自然に形成されたようでいて、どこか人工的な気配があった。
岩壁には整った削り跡が走っており、明らかに人の手、あるいは“何かの手”によって加工された痕跡がある。
等間隔で刻まれた溝、均一な傾斜。
魔素の流れも、明らかにこの空間の“内側”へと吸い込まれていた。
ナオは指先で壁面を撫でると、冷えた石の奥から、言語化できない“圧力”のようなものを感じ取った。
(これは……閉じるために作られた構造だ。何かを守るんじゃなく、外に出さないための“封”)
やがて、霧が幾分晴れた瞬間。
ふたりの前に、それは姿を現した。
巨大な石門。
高さは三メートル近く、幅もそれに匹敵する大きさ。
灰色の石材に複雑な線が刻まれており、円環、尖角、曲線が何層にも重なって不思議な文様を描き出している。
中央部には、他の模様とは明らかに異なる“印”が、わずかに浮かび上がっていた。
それは目のようにも見え、輪のようにも見える。
「……これが、霊封の扉?」
ミュアが一歩前へ出ようとしたその瞬間、ナオが素早く彼女の腕を引いて制止した。
「待って。これ……“反応してる”。俺の魔素に」
ナオがそう告げたとたん、扉の表面が淡い光を帯び始めた。
石材の溝の一部が薄く輝き、光がゆっくりと門全体を這うように走る。
まるで、来訪者の素性を“識別”しているかのようだった。
「まるで……扉が君を知ってるみたい」
ミュアが目を見開いて言う。
ナオは眉をひそめながら、静かに答えた。
「たぶん、これはこの世界の技術じゃない。
……もしかしたら、“俺のいた世界”と、何か関係がある」
扉は完全には開かない。
しかし光は文様をたどって、一定の“再構築”を始めた。
文字とも式とも取れる文様が、音もなく組み直されていく。
ナオは背負っていた記録用の道具を取り出し、《空巻ノ書》の巻末にある記号群と照合しながら、扉の文様を丹念に記録していった。
「……“干渉を拒絶する境界”……“封を護る者”……これは何かの警告だ」
そのときだった。
扉の奥から、ごくかすかな“気配”が漏れた。
冷たい、感情を持たぬ“視線”。
ナオの背筋に、氷のようなものが走る。
「ナオ……扉の向こう、何かいる」
ミュアの声がわずかに震えていた。
ナオは深く頷き、視線を門へと戻す。
「……ああ。だが、今は深入りしない。
今回は“確認”が目的だ。これ以上は危険だ」
記録を終えたナオは、筆を収め、ミュアに目配せする。
そして彼女の手をそっと引き、ゆっくりと斜路を引き返した。
ー探索結果まとめ
・封門の存在、視認・記録
・封印文様、部分的解読(“境界”“護り”“外界”などの語句を確認)
・扉はナオの魔素に反応を示し、識別行動を取る
・内部から異質な気配を検知、視線に類する知覚的接触あり
・文様の再構築、別世界由来の可能性
帰路の斜面を下りながら、ナオは黙って歩いていた。
ミュアも無言だったが、ただならぬ緊張が空気に残っている。
霧が濃くなるにつれ、ナオの思考は次第に“来訪者”としての自分の存在に向かっていく。
(あの扉の奥にあるものは……何だ? もしあれが、俺のいた世界と繋がっているなら……)
魔素に濡れた壁を伝いながら、ナオはふと立ち止まった。
この世界に“呼ばれた”理由。
それが、あの門と無関係とは思えなかった。
「ナオ……?」
ミュアが振り返り、問いかける。
ナオはわずかに笑い、軽く首を振った。
「いや、大丈夫。考えごとしてただけ」
彼は再び歩き出す。
霧の中を行くふたりの影は、やがて深井戸の入口へと戻り、静かにその姿を闇の中へ消していった。
──この場所の扉が開かれるのは、そう遠くない未来のこと──




