影の門を越えて
庁舎・報告の間
《フィル=ノワ》の庁舎に戻ったナオとミュアは、重々しい石壁に囲まれた「報告の間」へと通された。
そこは、かすかな魔光が灯る静寂な空間。石柱の間には紋章を刻んだ布が垂れ、中央には黒曜石の円卓が置かれていた。
その円卓を囲むのは、異なる種族から選ばれた五名の評議員――“評議の五柱”である。
猫耳の長老ミスラ、鬼族の戦士長ガルド、羽をたたんだ夜妖の語り部エナ、岩肌のような皮膚を持つ地底族の工匠ドルム、そして仮面の文官ルイス。
それぞれがナオたちを見据えるまなざしには、警戒と期待がない交ぜになっていた。
ナオは静かに一歩を踏み出し、深く一礼して報告を始めた。
「探索隊三名、全員無事に回収済み。うち一名は軽傷、もう一名は魔素過敏症状を呈していました。
47階層にて“門”のような現象、およびそれを守護する魔物と遭遇し、これを撃破。
戦闘記録と魔素痕跡、ならびに回収者の証言を以て、証拠といたします」
評議の間に張り詰めた沈黙が落ちた。
その静寂を破ったのは、鬼族のガルドだった。
「……たったふたりでそこまでやったってのか?
人間のくせに、なかなかやるじゃねぇか。化け物め」
「失礼ですね」
ミュアがぷくりと頬を膨らませて言い返した。
「ナオは“化け物”なんかじゃありません。ただ、誠実に動いただけです」
ナオはその横顔に小さく笑みを浮かべた。
そのとき、長老ミスラがゆっくりと目を細め、柔らかな声で口を開いた。
「人間であることを隠さず、力も知恵も使い、仲間を信じて結果を出した……それが“この街のやり方”と相容れるかは、まだ分からない。
……だが、確かにこの一つ目の試練は――合格だ」
■住民記録への一筆
ミスラが傍らの文机から、古びた巻物を取り出した。
それは《試練の記録》と呼ばれる文書。
この街に名を刻む者の、誓いと証明である。
真紅の羽根筆がインクを含み、ミスラの手で静かに書き記されていく。
カミシロ・ナオ ― 試練①《探索任務》:完遂
その文字が紙に刻まれると同時に、巻物から淡い光が立ちのぼる。
ナオの中で、なにかが確かに“変わった”。
異界の旅人から、“街に認められた候補者”へ。
その境界が、今まさに超えられたのだった。
―初めての歓迎
報告を終えて庁舎を出ると、夕刻の《フィル=ノワ》の街には、小さなざわめきが広がっていた。
街路には光苔の灯りが灯され始め、温かな色合いが石畳を照らしていた。
その中を、子どもたちが駆けてくる。
「おかえりー! ほんとに帰ってきたー!」
「ねぇ、ナオ兄って呼んでもいい!?」
「おっきな魔物倒したんだって!?」
ナオの腕に、小さな手が次々と触れる。
ミュアの妹も、ぴょんと跳ねて彼の腹に抱きついてきた。
「ナオ兄、ナオ兄~!」
「え、あ、うん……?」と戸惑いながらも、ナオは彼女の頭をそっと撫でた。
その笑顔が、なによりも街の者たちの緊張をほどいた。
(もふもふ...だ)
やがて、広場へと辿り着く。
そこには、控えめながら温かな焚き火と、即席の食卓が設けられていた。
獣人たちは香ばしく焼いた狩猟肉を、夜妖たちは紫の果実酒と淡い月色の果実を、鬼族の子らは鉱石の粉で作った“菓子石”を並べていた。
それぞれの種族が、それぞれのやり方で、ふたりの帰還を迎えようとしていた。
ミュアがぽつりと呟いた。
「……ここまで“誰かが街の真ん中で火を囲む”なんて、私、初めて見た」
「そうなの?」
ナオは問い返す。
「うん。種族間の距離って、昔から“仕方ない”ものだと思ってた。
言葉も違うし、寿命も、価値観も違う。
でも……こうして焚き火を囲む姿を見ると、それだけで、何かが変わるかもしれないって思えたの」
その言葉に、ナオはゆっくりと広場を見渡した。
焚き火の向こう。
夜妖の術士セレナが、まだ疲れの残る体で小さく微笑んだ。
「……この光景だけで、あなたがここに来た意味が、少し分かった気がします」
ナオは静かに頷いた。
(確かに、自分一人ではどうにもならないことも多い。
けれど、“違うもの”が力を合わせたときにだけ見える景色が、確かにある)
焚き火がはぜる音が、静かな夜空に溶けていった。
―心の記録
ナオは、手のひらに熱を感じていた。
それは火の温もりではなく、人々の想いと、ここに刻まれた一歩の重みだった。
「……次の試練か......」
思わずこぼれた言葉に、ミュアが微笑んで頷く。
「うん。でも、あたしも一緒に行くよ」
「……頼りにしてる」
遠く、星の見えない空に、煙がゆっくりと昇っていった。
―終幕ナレーション
かくして――
ナオは《影の都フィル=ノワ》で最初の試練を乗り越えた。
試練の名を記録に残し、初めて“住人としての一歩”を踏み出したのだ。
だが、その歩みの先には――あと6つの試練と、まだ名も知らぬ“門”の謎が待っていた。
それは、人と魔、多種族が共に歩むための、まだ始まったばかりの物語である。