目覚めの底
視界はまだ霞んでいた。どこか遠くで、水がぽたりぽたりと滴る音が聞こえる。重たい瞼をこじ開けるようにゆっくりと開けた瞬間、ナオの目に飛び込んできたのは、煤けたように黒ずんだ天井──否、それは粗削りの岩の天井だった。
空気は異様に冷たく、かすかに鉄のような臭いが混じっている。背中に感じるのは、硬い石の感触。身体の下に敷かれた地面はまるで墓石のように冷え切っていた。
「……どこ、だよ……ここ……」
震える声が自然に漏れた。喉が乾いてうまく声が出ない。手足に力が入らず、身体を起こそうとしただけで腕に鋭い痛みが走る。見ると、制服の肘部分が破れ、擦りむいた皮膚から血が滲んでいた。
(たしか、教室にいた……黒い点が、浮かんで……)
断片的な記憶が浮かび上がる。放課後の教室、窓際の夕焼け、友達の雑談の声──そして、教室の隅に浮かんでいた、黒く渦巻く“点”。ふとした興味で指を伸ばし、触れた瞬間、意識が闇に呑まれたのだ。
その“闇”の続きが、今、ここなのか。
深く息を吸った瞬間、鼻腔を突いたのは、強烈な血の匂い。何かが腐ったような、獣の体臭にも似た、鋭く鼻をつく臭気だった。瞬間、全身の皮膚が粟立つ。
ゆっくりと、慎重に、首を回して周囲を見回す。すると──そこにいた。
石壁に沿ってうごめく影。複数の、それも“人”とは到底言いがたい、異形の姿。
牙を剥き出しにした巨大な口。異常に発達した四本の腕。目は真紅に燃え、皮膚は黒岩のように硬質。呼吸をするたびに喉が鳴り、低い唸り声を上げながら、こちらを見据えていた。
(な……なんだよ、あれ……)
常識が、脆く崩れていく。現実味を感じない景色に、意識が震える。息を殺し、動かずにいるしかなかった。しかし、一体の魔物が鼻を鳴らし、こちらに一歩、また一歩と近づいてきた。
――逃げなきゃ。
そう思った瞬間、足が震えて立てなかった。
絶望が頭を支配しかけた時、耳の奥、いや、心の奥底から低い電子音のような声が響いた。
『敵対存在、複数確認。条件一致――忍式戦闘術、起動』
「……え?」
自分の声が上ずる。その瞬間、身体の奥に何かが“灯った”。
視界が一瞬で鮮明になる。筋肉が勝手に反応を始め、ポケットの中から一枚の手裏剣がするりと滑り出た。あり得ない。そんなもの、今日の持ち物検査ではなかったはずなのに──。
だが、今のナオの指は迷いなくそれを握り、次の瞬間には構えていた。
一体の魔物が、吠えるように距離を詰める。
その喉元へ、一直線に手裏剣が飛ぶ。空気を裂く音。命中。硬質な咆哮と共に、魔物の巨体が壁に叩きつけられた。
恐怖のあまり動けないはずのナオの身体が、勝手に走り出す。石の床を蹴り、身を低くして物陰に滑り込む。呼吸が整う前に、二体目が迫る。
次は腰の後ろから、短刀のような刃が滑り出る。どこから現れたのかすらわからないそれを、ナオの手は自然と握ると、魔物の腹部へ斬撃を叩き込んだ。
──無意識の中の、明確な殺意。
(俺……こんな動き、できるはずないのに……!)
震える意識の奥で、さらに別の“声”がささやく。
『封印された血脈、起動完了。記憶解放段階――第一段階、完了』
封印? 血脈?
言葉の意味は理解できない。だが、どこか懐かしい感覚だった。祖父が幼いころ語ってくれた“忍びの伝承”のことを思い出す。何百年も続く神代の家系。封じられし技術。過去と繋がる血。
「まさか……あれ、本当だったのか……?」
息を整え、額の汗をぬぐう。先ほど倒した魔物の死体が黒い霧となって消えていくのを見て、改めてここが“現実”ではないことを実感する。
――ここは、どこなのか。
思考を巡らせようとしたその時、頭上の闇から、ぼとりと何かが落ちてきた。
それは小さな金属製のプレート。錆びた文字が刻まれている。
《ダンジョン第50階層》
「……五十階、だと……!?」
驚愕が胸を打つ。ダンジョン? ゲームの世界にしか存在しないはずのものが、今目の前にあるという現実。しかも、それは“ダンジョン五十階”──最深部と呼んでも過言ではない地獄だ。
その瞬間、ナオの背後で、何か巨大なものの咆哮が響いた。
無意識に身構える。
闘いは、始まったばかりだった。
お読みくださりありがとうございます。
RPGを1人でやるタイプの者でございます。
ふと、ダンジョンの入り口からではなく、途中に飛ばされてしまったら.....?
と浮かんで書いてる小説です。
お付き合いいただけますと幸いです。