第四話 心
戸の向こうで、アーサーが困惑した声を上げる。
「誰? ララローズではない?」
「ごめんなさい、違うんです。ここにはいません」
「その声……まさかリリアベルか?」
ドアノブがぐいっと回される。
リリアベルはそれを渾身の力で押さえ、足では脱いだ靴をドアの下へ押し込む。ダンス用の靴は爪先が硬いので、ドアストッパーとなって少しだけドアが開きにくくなるのだった。
「そうです。ララローズはいません。申し訳ありませんが、お帰りになって」
「いや、待ってくれ。状況がよくわからない」
「殿下はララローズとお約束されたのですか?」
「ああ、鍵をもらって来たのだが、部屋を間違えて渡されたようだな」
「いいえ、ここはたしかにララローズの部屋です。たまたまわたくししかいないだけで」
「なぜ?」
(なぜなのかしら?)
リリアベルこそ訊きたい。
淑女が自分の寝室の鍵を殿方に渡すなどとんでもないことだが、それ以上に謎なのはララローズがここにいないことだ。
(殿下と約束があるなら、どこへ行ってしまったの?)
しかも、逢引予定の隣室に姉を寝かせたままにしておくなど、理解不能だ。
「……まあいい。せっかく会えたのだから少し話をしよう」
「わ、わたくしは話すことがありません」
「聖女のくせにつれないことを言うなよ」
「聖女は関係ないと思います」
「ほんとお前のそういうところ、かわいくないぞ。少しはララローズを見習えよ」
「……申し訳ありません」
はっきりと言われると地味に傷つく。だが、自分の態度が悪いのは重々承知している。反論できず、下を向いた。
こちらが意気消沈したのがわかったのか、アーサーは語調を強くしてここぞとばかり畳みかけてくる。
「皇帝と婚約なんかして大きな気になっているんだろう。どうせすぐ、面白みの欠片もない本性に気づかれて捨てられるのがオチだ。陛下は聖女の肩書に騙されているだけに過ぎない」
「そんなことないわ!」
シャイロハーンの心を疑うなんて、それこそ失礼だ。リリアベルにしては語気を強くして反発する。
するとアーサーは、いっそう意固地になったようだ。
「どうだか。それに聖女といったってただの古臭い伝承だ。魔法が使えるわけでもなし、ちょっと痣があるくらいで、なんの役にも立たない」
「そんな……。わたくしを悪く言うならともかく、聖女を否定するのは聞き捨てなりません。きっと神がお怒りになります」
「知るものか。偉そうに言うが、お前だって国を捨てて出ていくんだろう? わたしを批難できる立場じゃない」
「いいえ、わたくしはどこにいてもブランカの平和を祈ります。修道院のマザーもおっしゃっていました。祈る場所は関係ありません、神はいつでも空から見守ってくださいますと」
だが、戸の向こうでは嘲笑じみた吐息が漏れる。
「都合がいいことだ。ますます聖女なんか信じられなくなった」
「おやめください。どんなにわたくしが祈りを捧げても、殿下がそのようなお考えでは届くものも届かなくなります。古来より、聖女は首長と心を共にして国の命運を守って参りました。わたくしたちは違う道を歩みますが、未来の大公と聖女として国を思う気持ちだけは同じにしなくてはならないのです」
必死に訴えかける。だがやはり、アーサーにはまるで響かないのだった。
「また説教か。もううんざりだ」
「殿下」
「固い話はやめろよ。それより、心を一つするのならもっといい方法があるだろう?」
「なん……ですの?」
嫌な予感がして、背筋が粟立った。
ドアノブを摑む手に力をこめる。
「男女が二人ですることと言ったら一つだ。ここを開けて」
おぞましい言葉に、喉が干上がるかと思った。
「あっあなたは……わたくしのことなんて嫌いでしょう?」
「好き嫌いは関係ない。それに、お前も見た目は悪くない。意外と着飾ったら、ララローズよりも好みだった」
(最低……!)
絶対に戸を開けられてはならない。
固い決意と共に、全身の体重をかけて戸に寄りかかった。
――と、そのときだった。
慌てたような足音が近づいてくる。追って、男女の声も聞こえた。
「あの部屋! 外から鍵がかけられている!!」
「まあ、誰がやったのかしら。まさか殿下がされたの!? お姉さまと二人きりで会うために?」
(陛下……? それに、ララローズ!?)
なぜシャイロハーンがここにいるのかわからないし、妹の台詞も意味不明だ。
「鍵を出せ!」
「我が家の鍵ではありませんわ。でも、隣の部屋から入れましてよ。踏み込みましょう」
(え、なんなの? どういうこと?)
混乱して、手から力が抜ける。
同じく戸の向こうで不測の事態に狼狽したアーサーが、力任せにノブをひねった。
「きゃあっ」
勢いよく戸が開き、反動でリリアベルはしりもちをつく。その上にかぶさるように、アーサーが降ってきた。
ほぼ同時に、寝室の扉を開けたシャイロハーンとララローズがなだれ込んでくる。
床に仰向けに倒れたリリアベルは、のしかかるアーサーの身体越しに、立ちすくむ二人と向き合った。
「なんて恥知らずなの! 二人はわたしたちに黙って、よりを戻していたのね!!」
ララローズの甲高い叫びが響き渡った。