第二話 留守
シャイロハーンのもとへ、メロウ男爵家に送った使いが戻ってきた。
「申し訳ございません。リリアベル様にはお会いできませんでした」
「なに」
訊けば、体調を崩して臥せっているという。
(昨晩無理をさせたせいか?)
深夜までつきあわせた罪悪感が押し寄せる。
(一両日中に出国したかったが、やはり事を急ぎすぎたかもしれない)
国には優秀な部下を数多く抱えているため、自分が留守にしてもしばらくはうまく回るはずだ。とはいえ、今回は休暇を兼ねてブランカ公国に長めに滞在している。ここでやるべき仕事は終えたので、できるだけ早く帰国の途につきたかった。
(これ以上無理はさせたくないし、彼女にも準備があるだろう。先に俺だけ帰り、あとから迎えをよこしたほうがいいか)
ひとまず見舞いの品を贈ろうと、執事に言って花と果物を用意させる。
再度使いを出す――つもりだったが、はたと思い至る。
(会いたい)
決して無理をさせるつもりはない。寝ているところを起こすつもりもない。
だが、自分は婚約者だ。病床の未来の妻を見舞うのは、咎められるものではないだろう。
彼女を残して先に帰国するならば、なおさらブランカ公国に滞在中少しでも会っておきたいと思った。
「やはり俺が行く。使いは出すな。向こうが委縮するといけない」
あらかじめ知らせれば、彼女はきっと無理をして起きて自分を待つだろう。
シャイロハーンは忍びでメロウ男爵家へと向かうことにした。
男爵家の応対に出たのは、意外にも妹のララローズだった。
「まあ、陛下。ようこそお越しくださいました」
まるでシャイロハーンの来訪を待ちかねていたとばかり、豪奢なドレスをまとい、髪も丁寧に巻いてリボンで飾り立てている。
(なんだこの匂いは……)
ララローズからは、ありとあらゆる香水を混ぜ合わせた香りがした。ひとつひとつはきっとよい香りなのだろうが、合わさるとたまらない。特に鼻の敏感なシャイロハーンにとっては、拷問に近かった。
ひょっとすると、舞踏会の席で「臭い」と告げたせいで、血迷って複数の香水を振りかけて出てきたのかもしれない。
さすがに女性に向かって二度も匂いを指摘するのは礼儀に反するため、口には出さないでおく。
「男爵夫妻はおられるか?」
「あいにく社交に出ておりますの。今夜は遅くなる予定です」
「そうか。では、これをリリアベル嬢に渡してもらえるか」
「会っていかれませんの?」
「体調が悪いところを無理させてはいけないし、妙齢の令嬢しかいない屋敷に上がるのは遠慮しよう」
彼女に会えないのは残念だが、仕方がない。
だが、背を向けようとしたシャイロハーンを、ララローズの甲高い声が引き止めた。
「お待ちくださいませ、ぜひお上がりくださいな。姉はさきほど起きて食事をとりましたし、大丈夫です。それに、姉に断りもせず陛下をお帰ししたら、あとでわたしがひどく叱られてしまいます」
(リリが叱る?)
おかしなことを言う。
妙な胸騒ぎがした。
「やはり邪魔させてもらえるか」
「ええ。もちろんです」
満面の笑みを浮かべるララローズが、不気味だった。
「足もとにお気をつけて」
ララローズは弾む足取りで階段を上っていく。
(なにかおかしい)
違和感に気づくものの、彼女のまとう複雑で濃厚な香りが思考を邪魔する。
「こちらです。……あら、お姉さまはどこへ行ったのかしら」
リリアベルの部屋だというそこは、扉が中途半端に開いていた。
ララローズは、ちょうど通りかかった使用人を呼び止める。
「ねえ、お姉さまを知らない?」
「お嬢さま! まあ、どちらにいらっしゃいましたの!?」
やたらと大仰な声が答えた。
(なんの猿芝居を始めたんだ?)
シャイロハーンは鼻白んで二人を観察する。
「わたしはさきほどまで下の居間で叔母様のお相手をしていたのよ。ほら、ついさっきお帰りになったでしょう?」
「どうりでお姿が見えないと。では、殿下とはお会いになれましたか?」
「殿下? なぜアーサー殿下が出てくるの?」
「先刻お見えになりましたから、てっきり恋人のお嬢さまとお約束だとばかり」
「知らないわ。まさか……殿下は、お姉さまと?」
(なんだって!?)
おぞましい言葉に、身の毛がよだつ。
(公子とリリが……?)
ララローズは悲劇のヒロインのごとく両手で頬を包み、耳障りな叫びを上げた。
「なんて裏切りでしょう!」
(彼女に限ってそんなわけがない)
だがおそらく、想像するのも吐き気がするような危機が彼女に迫っていると思われた。
「リリはどこだ!?」
腕に摑みかかって尋ねると、ララローズはまだ白々しく演技を続けた。
「わかりません。一緒に屋敷中を探しましょう!」
(一刻も早く見つけなければ)
胸がつぶれそうだ。
余裕をかなぐり捨て、シャイロハーンは走った。