第一話 紅茶
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サローマ帝国皇帝シャイロハーンと、ブランカ公国の聖女リリアベルの婚約発表舞踏会は、たいへん盛り上がった。
深夜になっても王宮のホールからは人が去らず、熱気が満ちている。
そんな中、リリアベルはシャイロハーンの計らいで、一足早く退出させてもらうことになった。
「こんなに遅くまでつきあわせてすまない。気疲れしただろう」
「いいえ。とても楽しかったですわ」
「そう言ってもらえると嬉しい。だが、今夜はゆっくり休め。また明日……とはいってももう今日だが、夕方には使いを送る」
「はい。お待ちしております」
すっと持ち上げられた右手の指先に、小さな口づけが落とされる。
「……っ」
聖女として、これまで幾度か男性からこういった挨拶はされたことがあったのに、まるで初めてのように鼓動が大きくなった。
「おやすみ、リリ」
「おやすみなさいませ」
口から心臓が飛び出してきそうになりながら、なんとかほほえみを浮かべたのだった。
シャイロハーンが手配してくれた馬車で、メロウ男爵家へ帰ってきた。
先に帰宅していた妹のララローズが、珍しく出迎えてくれる。
「お帰りなさい、お姉さま」
上目づかいでかわいらしく見つめてくる彼女を取り巻くオーラは、煙のようにくすぶっている。
複雑な想いを抱えているのが見て取れたが、あえて指摘するのはよくない。誰しも心を読まれるのは嬉しくないものだ。
素知らぬふりをして、こちらも笑顔で答えた。
「ただいま。まだ寝ていなかったのね」
「もちろん。お姉さまを待っていたのよ。おめでたい今夜くらい語り明かしたいと思って」
「あら、そうなの」
「お茶菓子を用意させたわ。どうぞわたしの部屋にいらして」
子供のようなはしゃぎ声を上げて、腕を引っ張ってくる。
使用人たちはそんなララローズを見て相好を崩した。
誰もが『我が家のお嬢様が世界で一番かわいい』と心の中で叫んでいる。
ちなみに、二年前まで修道院で育った長女のリリアベルは、彼らの『我が家のお嬢様』には含まれない。
「早く、早く」
無邪気に急かされれば、断るのは難しい。
(たしかに、二人でゆっくりと話すのは最後かもしれないわ)
シャイロハーンからは、なるべく早くに帝国へ来てほしいと望まれている。彼と共に行ってしまえば、当面帰国は難しいだろう。
そもそも両親からもあまり存在が歓迎されていないリリアベルが、帰国したとしてメロウ男爵家に受け入れてもらえるとは限らない。
(そのときはブランカ修道院へ帰ることになるのかも。そうしたら、ララローズとは会う機会もないわね)
せっかくの誘いだ。
リリアベルは疲れをおして、妹の部屋へ向かうことにした。
ララローズの部屋は、彼女のストロベリーブロンドの髪と似た薄紅色の調度が並び、花やキラキラした小物、ぬいぐるみなどが可憐に飾られていた。
「遠慮しないで座ってね。今わたしがお茶を淹れるから」
茶器へ手を伸ばすと、不慣れな手つきで摑む。普段はメイドがすべてやってくれるため、自分で茶など滅多にいれないのだった。
(きっと、わたくしに気づかってくれているのね)
とりわけて仲のよい姉妹ではなかったが、彼女なりの精一杯のはなむけと受け取ると、純粋に嬉しかった。
「冷めないうちにどうぞ」
「ありがとう」
ふと、カップを差し出す彼女のオーラが気になる。
(橙色……)
興奮、緊張といった気持ちの昂りを示す色だ。
「もしかして、お茶を淹れるのは初めて?」
思い至って尋ねてみるが、ララローズはきょとんとした。
「え、なぜ?」
「ううん、ごめんなさい、なんでもないわ」
どうやら違ったようで、口をつぐむ。
しかし、ララローズはなにか引っ掛かったらしく、しつこく食いついてきた。
「わたしの作法がお姉さまの気に障ったのかしら? いつも通りに、いたって普通にお茶を淹れたつもりだったけれど、無作法だった? もしもわたしの振る舞いが淑女としておかしかったのなら、教えくれると助かるわ。さすがお姉さまは聖女ね、なんでも知っているから、わたし、尊敬しちゃうわ」
奇妙なほどぺらぺらと畳みかけてくるから、リリアベルは気圧されてしまった。
なにも言えなくなって、首を横に振る。
「全然おかしくなかったわ。ありがとう、いただきます」
場を収めるため、カップに口をつけた。
知らない花の香りがふわっと立ち昇る。沈丁花と夜来香を足して二で割ったような、濃い甘い香りがして――、味は妙に酸味がきいている……。
「これは、なんの……お茶、な、の……?」
なぜだろう。うまく舌が動かない。
顔を上げるが、目前にたたずむ妹の輪郭が二重に見える。
(なにかしら……目が回る)
紅茶のカップが、鉛の塊のように重く感じた。堪えられなくなって腕を下ろすが、そのまま膝の上に転がしてしまい、熱い茶がこぼれる。
(熱い……はず、なのに……)
痺れて感覚を失ったのか、熱さを感じない。濡れて貼りつく気持ち悪ささえもわからない。
重力に逆らえず、首ががくりと落ちた。そのままソファーへくずおれて――リリアベルの意識はそこで途絶えた。