2ー4 何が彼女をここまで追いつめているのだろう
シフはカーテンを引き、珈琲を淹れる。先日の旅ではルシール秘蔵の珈琲豆を使わせてもらったが、自宅ではインスタントコーヒーをよく飲む。近所の喫茶店の品だ。あそこのマスターは趣味人で新しいブレンドの開発に情熱を注いでいる。実験台にされるシフは安く買わせて貰う。
ルシールに飲ませる珈琲にはミルクを多目に、貴重な角砂糖を奮発して二つ。
シフの分はブラックにブランデーを小さじ一杯。強い香気が立ち上る。
「洒落た飲み方するのね」ルシールがよろよろと上体を起こす。
「最近はこれが美味いな。飲ませてやった方が良いか?」
「大丈夫だよ、おいしい」ルシールが珈琲を両手で受け取り一口啜る。
それを眺めてシフも口に含む「ゆっくり飲めよ」
「どれくらい寝てたのかな」
「10日ほどだな」
「そんなに」それから自分の格好を眺める。アイシャが持ってきてくれた寝間着を着ている。
「へっへっへ、色々見させて貰ったぜ」
ルシールは少し頬を染めて「ま、仕方ないのかな」
「嘘だよ、主にアイシャが色々やってくれた。俺たちは少ししか見てない」
「結局見たんでしょ」
「ま、見ないと世話ができないからな」
「そりゃそうね」
「スィラージが興奮して大変だったよ」
「最低」
「先っちょだけ、先っちょうだけだから! とか言ってたよ」
ルシールが苦笑する「マジ最低だ」眼に力が戻ってきた。
「まあ嘘だから安心しろ。着替えとか、身体を拭いたり、邪念だらけのお前らには見せられんって、アレクサンドリアに帰るまではガボルアが殆どやってくれたよ。さすが信頼と実績の年長者。帰ってからはアイシャがやってくれた」ガボルアとは旅の同行者だったギルド一番の凄腕ガード(護衛)の名で、寡黙酒好き36歳妻子持ち。
「……そう、さすがガボさん。頼りになる」
二人の啜る音だけが室内に響く。
「そういやピラミッドパワーって知ってるか?」シフはまたいきなり話題をふる。
「何それ」
「知らんのか。ピラミッドの中心に生モノを置くと腐りにくいとか、怪我がすぐ治るとか、そういう不思議な現象のことだよ」
「へえ、あまり聞いたことないけど」
「鉄パイプで作った簡易ピラミッドでも効果があるらしい」
「ホントに? 嘘くさいなあ」
「マジだって。あのラーメ〇マンもピラミッドパワーで傷を癒したらしい」
「ふうん……で、それが?」
「それだけだが」オチも何も無い。
「何それ」ルシールが苦笑する。
シフはコロコロ話題を変える「ところで今日の晩飯はアイシャが用意してくれた焼き鳥なんだが」
「うん」
「いや、御飯のおかずに焼き鳥だぜ? ちょ待てよ、と思うわけだよ」
「良いんじゃないの? 美味しそうだよ」
「用意してもらっといて文句は言わんが、焼き鳥とかおでんとか、酒の肴だろ」
「はあ」ルシールはなんとも言えない顔。
「焼き鳥食べる、御飯食べる。うっ重たい助けてー、ってなるだろ」
「うふ」
「スィラージは、焼き鳥丼なるものを食べながら深夜アニメ見るんだってよ。奴が朝飯あまり喰わない時は前夜お楽しみタイム」
「あっは、ホントどうでもいいことばかり話す男……あれ?」何故か涙がポロリとひとつ溢れた。
雑踏の賑わいが遠くなる。
くだらない話をしているだけだが、何故か流れた一筋の涙を、シフは静かに見守る。
「おかしいな」ルシールが慌てて拭う。
一度零れると後から後から湧いてくる。
「あれあれ? どうして、ぐっ」彼女は突然の衝動に肩を震わせる。嗚咽を抑えきれない。
シフは立ち上がり、ルシールの頭をそっと抱き寄せる「大変だったな」子供を慰めるように頭を撫でた。
「やめてガラじゃない」彼女はじたばた離れようとする。弱った体には力が無い。
「いいや離さん。お前はもうウチのメンバーだ」
「お願いやめて、また迷惑かけるから」涙と鼻水でボロボロの顔が悲痛に歪む。
「そしたら慰謝料貰うから気にするな」
「そんなの払いきれない」
「そしたら身体で払って貰うから気にするな」
「あんた最低! マジ最低!」彼女が溢れる涙をシフのシャツに押し付ける。
シフはまた頭を撫でる。
やがて、泣き疲れたルシールが眠りに落ちたのでまた寝かせる。よく寝る女だ。
シフのシャツはすっかり濡れてしまった。
1時間ほどしてルシールが目を覚ました。シフはスィラージに借りたライトノベルを読んでいた。ルシールが気まずそうにそっぽを向く。
「しっかり食べないと元気になれないぞ」
焼き鳥をバラシて一つだけ食べさせる。
「ゆっくり噛めよ」
「ありがとう」存外素直に食べる。
シフはそれから重湯に塩とザーターを振って飲ませる「それじゃあ聞かせて貰おうか。何があったんだ? 別れてカダの王都を目指してたと思っていたが」
「聞かない方が良いと思うけど。前も言ったよね」
「聞きたいんだよ俺は」
ルシールが言葉を探す。
「俺と再会した時のことは憶えているか?」
「なんとなくなら」
「カダ湖北岸ダブネルから北西へ、ナイルの船着場に続く途中の野営地だ。お前を拾ったのは」
ルシールが頷く。
「深夜、俺が外に出なかったら絶対に見つけられなかっただろうな。奇跡としか言いようがない。さすがに運命を感じたよ俺は」
シフは黙ってルシールの言葉を待つ。
「……うん、わかった。話すよ。でも明日で良いかな」
シフは頷くしかない。まだ彼女は衰弱しており、まともに立てる状態ではない。着替えに食事にトイレ、まだ助けが必要だ。
これらを終えて横になりすぐ眠りに落ちた彼女の様子を一時間ほど見て、シフも寝床に入った。
その翌朝早く、小さな物音にシフが目を覚ますと隣の寝台が空になっていた。
「またか! あの女は全く!」跳ね起きて外に出る。
戸口を出て数歩のところにルシールが蹲っていた。朝日が小さな背中を照らし出す。わたわた逃げようとする。髪が乱れてバラリと流れる。
「お前いい加減にしろよな」シフはルシールの肩を掴む。
「も、もう大丈夫だからこのまま行かせて」
何が彼女をここまで追いつめているのだろう。シフは悲しくなってきた。
シフは嫌がる彼女を連れ戻し、寝台に無理やり寝かせた「この嘘つき女、約束は守れよ」頭を抱えてそのまま口付けする。
ルシールが驚いてもがく。
シフは、そのままルシールの手を掴み、空いた手で控えめな胸を押さえた。感じるのは確かなぬくもりと柔らかさ。至近で視線をぶつける。
数十秒後、やっとルシールが力を抜いた。
シフは身体を離して言った。
「昨日話すと言ったのにこれか。もう催促したりはしないから、頼むから、頼むから先ずは身体を治してくれよ」
「ごめん」ルシールが頬を染めて俯いた。
「頼むぜホント」また逃げるかもしれず油断はできない。