[07] ドキドキの初電話
――生まれて初めて、男の人をデートに誘ってしまいました。
「緊張しました……」
スマートフォンを握っている手に、薄らと汗が浮かんでいるのが、自分でもわかります。
大学の構内、食堂の脇にある小さなベンチで、雪斗さんに電話をしていました。
電話番号を勝手に調べてしまったことを、怒られてしまうかと思いましたが、雪斗さんは驚いただけで、なにも咎めてはきませんでした。
「やっぱり、優しい人です」
くすりと、スマートフォンを握り締めて、笑みがこぼれてしまいます。
男の人は、みんな怖い人なのだと、子供の頃から漠然と思っていました。
父も厳格な人でしたし、街中で怒鳴っている男の人を見かけると、それだけでびくりとしてしまいます。
でも、雪斗さんは違いました。
いつもお部屋の前で会うと、朗らかな笑顔で挨拶してくれます。
ちょっと照れたようにはにかみながら、私のつまらない話にいつも付き合ってくれます。
とても優しい人です。
男の方にも、こんなに優しい方がいるんだって、驚かされたほどでした。
その顔を思い出すだけで、なんだか笑顔がこぼれてきてしまいます。
これは、どうしてなんでしょうか?
そんなことをぼんやり考えていたところで、私の背中を涼やかな声が叩いてきました。
「瑠衣。電話、終わったの?」
「あ、レンちゃん」
大きな袋を手に、学食から出てきたのは、同じ大学の友達の、薬師寺レンちゃんです。
レンちゃんは、すらっと背の高い、モデルと言っても通じるくらい、格好いい人です。
「はい。レンちゃんに教わった通り、お隣の方をデートにお誘いしました!」
「……本当に実在するのね。その男」
呆れたような、驚いたような声で、レンちゃんはそんなことを言ってきます。
デートに誘えば、と言ったのは、レンちゃんの方なのに。
でも、そのアドバイスに従って、本当によかったです。
「その、だらしないくらいに嬉しそうな顔からして、お誘いは上手くいったんだ?」
「はいっ!」
えへへ、と口元の笑みが止まりません。
レンちゃんは呆れたように息をつきながら、笑顔の止まらない私に、こんなことを口にしてきました。
「ねえ、瑠衣。ネガティブオプションって知ってる?」
「ネガティブオプション、ですか? いいえ、知りません」
物知りで頭のいいレンちゃんは、持っていたブラックの缶コーヒーを片手で開けながら続けてきます。
「相手に商品を送りつけて、代金を後から請求する詐欺の手法よ。リンゴを貰ったんでしょ? もしかしたら、後でお金を請求されるかもしれないわよ?」
「お金ですか?」
確かに、リンゴはタダでいただいてしまいました。
雪斗さんのご実家から送られてきたのを、お裾分けしてくださったものです。
確かに、お金は請求なんてされていませんが――
「はい、別に構いませんよ? むしろ、なにかお返しをしないといけませんから」
「いや、そうじゃなくてね……」
レンちゃんは眉を顰めて、指をこめかみに当てながら、言葉を探すように唸る。
「それに、デートするんでしょ? 古典的だけど、デート商法っていう詐欺だってあるんだから」
「でも、デートにお誘いしたのは私ですよ?」
「それは、まあ、そうだけど……」
雪斗さんの話をしたところ、何故か妙に心配してくれています。
私が今まで、彼氏どころか、男友達すらいなかったことを知っているので、私が騙されているんじゃないかと思っているみたいです。
「なんか心配なのよね……瑠衣はちょっと、ぼーっとしたところがあるし」
「そうでしょうか?」
「ええ。そして、自覚がないところが問題なのよね」
まったく、と困ったようにレンちゃんが息をつきます。
レンちゃんはふと、いいことを思いついたとばかりに、ぽんと手を打つと、
「ちょっと、今度その男に会わせてよ」
「そ、それはダメです」
「なんでよ?」
ブラックの缶コーヒーを飲むレンちゃんに、私はおずおずとその理由を口にしました。
「だ、だって……レンちゃんはとっても綺麗ですから、雪斗さん、盗られちゃうかもしれません……」
「盗らないわよ!」
地団太を踏みながら、レンちゃんが周りの目も気にせず、叫んできます。
「そうじゃなくて、私がそいつの化けの皮を剥がしてあげるって言ってるの!」
「あ、そうだったんですね。安心しました……てっきり、レンちゃんも雪斗さんのこと、好きなのかと……」
「会ったこともない男を好きになるわけないでしょうが!」
レンちゃんはそう言いますが、雪斗さんは素敵な人ですから、お話を聞いただけで好きになっちゃうかもしれません。
レンちゃんはとっても可愛くて、綺麗で、明るくて、自慢の友達です。
男の人はみんな、レンちゃんのような子を好きになるんだと思います。
雪斗さんも、レンちゃんに会ったら、レンちゃんのことを好きになっちゃうかもしれません。
それはダメです。いくらレンちゃんでも、雪斗さんは譲ってあげません。
そんなことを考えている私に、レンちゃんは、子供を心配する母親のような目を向けてくると、
「まったく……本当に大丈夫なんでしょうね?」
「心配してくれて、ありがとうございます、レンちゃん」
レンちゃんは、とっても優しい人です。
なんだかんだ言いながらも、私のことを凄く心配してくれています。
「でも、大丈夫です。雪斗さんは、とってもとっても、素敵な方ですから」
「そう……」
レンちゃんは不安を残しつつも、頷いてくれました。
きっと、レンちゃんも雪斗さんを知れば、納得してくれるはずです。
でも、雪斗さんのことを知ったら、レンちゃんも、雪斗さんのことを好きになってしまうかもしれません。悩ましいところです。
そんな懊悩をしている私の前で、レンちゃんはなにやら考え込んでいるようでした。
「……きっと、瑠衣がなにも知らない子だから、そこに付け込んだ悪い奴なのね……あたしが、なんとかしないと……」
「? レンちゃん?」
私が声をかけると、レンちゃんはすぐにいつもの明るい笑顔を向けてくれました。
「なんでもない。とにかく、気をつけなさいよね?」
「はい。わかりました」
とは言っても、きっと、気をつけなきゃいけないのは、私が雪斗さんに粗相をしないかどうかくらいです。
ああ、想像するだけで、なんだか胸がドキドキしてきました。
「今日のデート、楽しみですっ」
午後の授業は、集中するのが難しそうです。