[04] 僕の彼女はお隣さん
ダイニングの小さなテーブルには、朝ごはんが用意されていた。
「いただきます」
「い、いただきましゅ」
神楽さんと向かい合わせで、手を合わせ、ご飯を食べ始める。
――一体、なんだろう。この状況は?
テーブルに並んでいるのは、トーストとスクランブルエッグ、コンソメスープに、昨日のリンゴを擦りおろしたものを乗せたヨーグルト。
卵もヨーグルトも、家にはなかったはずなので、おそらく神楽さんが自宅から持ってきたのだろう。
そして、目の前に座っているのは、モデルや女優と言っても通じるくらい、綺麗で可愛いお隣さん。
わけがわからないまま、僕はとりあえず、コンソメスープを口元で傾けた。
「あ、美味しい……」
「本当ですか? よかったですっ」
嬉しそうに、神楽さんが手を合わせる。
お世辞でなく、本当に美味しかった。
ただコンソメを使っただけではなく、小さく切った玉ねぎやベーコン――これも持参したのだろう――が入っていて、手が込んでいる。
「すみません。雪斗さんの朝ごはんが和食派か洋食派かわらかなかったので、とりあえず洋食にしてみたんですが……」
「朝は、いつもトーストだけだから、それは大丈夫なんですが……」
そう。問題は別のところにあって。
「というか、今更ですが、どうやって入ったんです……?」
「あ、すみません」
神楽さんは思い出したように手を合わせると、脇に置いていたポーチを手繰り寄せた。
「勝手に入るのは、とても気が引けたのですが、これ使って入らせていただきました」
「え……?」
神楽さんがポーチから取り出したのは、見覚えのある一本の鍵だった。
「これ、ぼ、僕の家の、合鍵……?」
「はい」
その手に握られていたのは、僕の部屋の番号がタグとしてついている、合鍵だった。
この鍵は、万一の時のために、常駐する管理人さんに預けているのだが――
「管理人さんにお願いしまして。家族なので、鍵を貸して欲しいって」
「か、家族……?」
頷いた神楽さんは、少しだけ恥ずかしそうにしながら、こう告げてきた。
「正確には、未来の、なのですけど……すみません。嘘をついてしまいました」
言って、ぺろり、と可愛らしく舌を出す。
もうその仕草だけで、全部を許すしか、僕に選択肢は残されていなかった。
そのまま、微妙な空気で食事が進む。
何故だか、神楽さんは妙に楽しそうだったが、僕の方は気が気ではなかった。
――この状況は、一体、なんなのだろう?
いろんな考えが頭の中を駆け巡る。
もしかして、なにかの詐欺だろうか。
それとも、罰ゲームの一環なのだろうか。
ぐるぐると負の思考が脳内を巡っている間に、あっという間に朝食の時間が終わりを告げようとしていた。
さすがに、この有耶無耶な状態を続けるわけにもいかない。
僕は意を決して、神楽さんに向き直った。
「ええと、それで、神楽さん」
「瑠衣です」
「え……?」
こちらの話を遮ってきた神楽さんは、トーストの最後の一欠を口に放り込む。
それをゆっくり咀嚼してから、すっと背筋を伸ばしてきた。
「――ちゃんとした自己紹介が、まだでしたよね」
居住まいを正すと、小さく顎を引き、神楽さんはこう名乗りを上げてきた。
「私、神楽瑠衣と申します。瑠衣って呼んでくださいね」
「瑠衣、さん……?」
「さんもいらないですよ? あと、敬語も禁止です」
「いや、そんなこと言われても」
意外な押しの強さを見せてくる神楽さんに戸惑っていると、
「ダメ、ですか……?」
「……う……」
生まれたばかりのチワワのような瞳で見上げられ、僕は思わず言葉を呑み込んでしまう。
疑問や疑念が思考を駆け抜けたが、結局のところ、僕は持っている選択肢なんて、大してなかった。
「……瑠衣さん、で、いい? 敬語は、しないように気をつけま……るから」
「わかりました。最初から全部は、欲張りでしたよね」
落としどころに納得した様子で、神楽さん――もとい、瑠衣さんが微笑む。
「瑠衣さんこそ、敬語だけど……」
「それはいいんです。私はこの方が楽なので」
言って、瑠衣さんはにっこり微笑んでくる。
なんだか不公平な気もするが、きっと、なにを言っても言い負けてしまう気がした。
「この近くにある、天京女子大学の一年生です。学科は心理応用学科、将来は心理学を利用した保育士さんになろう、と思っていました」
「いました……?」
過去形で語る瑠衣さんは、嬉しそうに頷きを返してくると、
「今は、その……雪斗さんのお嫁さんというのが、第一志望ですから」
「お、お嫁さん……」
予想していなかった答えが返ってくる。
恥ずかしそうに、それでいて嬉しそうに頬を染める瑠衣さんに、なにを返していいのかすらわからず、あわあわしていたところで、
「あ、いけない、もうこんな時間ですね」
壁掛け時計を見上げた瑠衣さんが、少しだけ慌てた様子で、食器を片付け始めた。
「行きましょう、雪斗さん。学校、遅刻してしまいますよ?」
言われて、窓から外を見る。
そこには、今の状況なんてどうでもよくなってくるくらい、見事な青空が広がっていた。