[27] その後1
いつも、この時間にお隣さんは帰ってくる。
学校の終わった夕方、僕がアルバイトに出かける時間。
その時間が近づくと、僕はいつも落ち着かない、そわそわした気持ちになる。
そして、エレベーターが到着する音が聞こえるのに合わせ、僕は部屋のドアを開けた。
「あ」
「あっ」
目の前にいたのは、僕が待ち望んでいた笑顔。
引っ越してきてから、何度となく顔を合わせているが、未だにこの笑顔を前にすると、僕は嬉しさを隠し切れなくなってしまう。
「こんにちは、雪斗さん。これからアルバイトですか?」
「うん、そうなんだ」
嬉しさを隠し切れなくなり、自分でも頬が緩むのを自覚する。
白いワンピースに身を包んだ神楽さんは、いつ見ても、眩しいくらいに綺麗な存在だった。
「神楽さんは、学校帰り?」
「……むー」
僕の問いかけに、しかし、神楽さんが不満そうに眉を顰めて、見上げてきた。
「ど、どうしたの?」
「呼び方、元に戻ってしまいました」
拗ねたようにそんなことを言って、神楽さんが詰め寄ってくる。
――あれから、一週間ほどが経った。
僕は宣言通り、もう一度、神楽さんとの関係をやり直すため、仮初の関係が始まる前に二人の時間を戻そうとした。
呼び方もその一つだ。僕はあの時、神楽さんの下の名前なんて、知らなかったのだから。
しかし、神楽さんは不満が残っているようで、
「どうしてなんですか?」
「それは、この間も言ったけど」
僕は頬を指で掻きながら、改めて、自分の考えを神楽さんに告げた。
「あの時のことに、甘えたくないから。僕はもう一度、自分の意志で、名前で呼べるようになりたいから」
時間は巻き戻らない。
でも僕は、あの時の出来事に胡坐をかきたくなかった。
僕は、僕の意志で、神楽さんとの関係を一つずつ、構築していきたかった。
だから、もう一度、最初からやり直したい。それが滑稽なことでも、無意味なことでも、僕には必要なことだと思うから。
「だから、もうちょっとだけ、待っててください」
「……うー、そう言われてしまうと、なにも言えなくなっちゃいます」
困ったように眉を八の字にして、神楽さんは唇を尖らせる。
「でも、あんまり待たせないでくださいね? 私、待ち切れなくなっちゃいますから」
「……善処します」
今の僕には、そう答えるのが精いっぱい。
けれど、待たせないようにしたいって、僕も思う。関係を前に進めていきたいのは、僕だって同じなのだから。
「あ、雪斗さん。アルバイトの後、お時間ありますか?」
「うん、バイトの後なら、大丈夫だけど」
首を傾げた僕に、神楽さんは嬉しそうな顔をして、鞄からとあるものを持ち出した。
「実は、レンちゃんにお願いして、これを貸してもらったんです」
それは、いつぞやの、僕の鞄から発見された、可愛い女の子たちがパッケージされているもので――
サクラの持っていた、いわゆるエロゲだった。
「…………。どうしてエロゲを?」
「この間、インストールに失敗したので、ドライブを買ったんです。それで、改めてインストールしてみようかと」
真顔でそんなことを言ってくる。
いや、僕が聞きたいのはそういうことではなく、どうして神楽さんがそれを持っているのか、ということだった。
「……レン先輩が貸してくれたの、それ?」
「はい。正確には、レンちゃんの妹さんから、です。窓口のレンちゃんを説得するのに、一週間かかりました」
それはそうだろう。
あの真面目人間のレン先輩が、友人にエロゲをすすんで貸与するとは思えない。
「レンちゃんは、最後まで反対していたんですけれど、自分で買うと言ったら、渋々貸してくれることになりまして」
最後の砦は、そうやって陥落させられたらしい。
仲間が増えて、喜んでいるサクラの姿が目に浮かんだ。
そんなことも露知らず、といった様子で、神楽さんは純粋に楽しそうな笑顔を向けてくる。
「これを雪斗さんと一緒にやってみたいんです」
「……いや、ちょっと待って」
僕はその前に横たわる、一つの勘違いを正すことにした。
「前も言ったけど、それ、別に僕の趣味っていうわけじゃ……」
「そうなのですか? 雪斗さんは、こういうの、お嫌いですか?」
そう言われると、正直なところ、言葉に窮してしまうのも事実だった。
「……興味が、なくはないけど」
「はい。私もちょっと、どんなものなのか、ちょっぴり興味があります」
パッケージで口元を隠しながら、神楽さんがそんなことを言ってくる。
「なので、一緒にいかがですか?」
映画でも一緒にどう? 的なノリでそんなことを言われる。
付き合ってすぐに、部屋で一緒にエロゲをするカップルって、どうなのだろうか。
なにかいろいろと致命的な失敗をしそうで、尻込みしてしまう。それに、一緒にやった、なんて言ったら、レン先輩になにを言われるかわかったものじゃない。
「……そのことは、また後で相談しよう。これから、バイトなので」
「あ、そうでしたね。お引き留めしてすみません」
僕の逃げの言い訳を素直に受け取った神楽さんは、小さく手を振りながら、微笑んでくれた。
「いってらっしゃい、雪斗さん」
「いってきます、神楽さん」
こうして――
僕たちの関係は、ほんの少しだけ、そして、ちょっぴり斜めな方向に、進み始めたのだ。




