[26] 雨のち晴れ
マンションの外に飛び出したものの、既に瑠衣さんの姿はどこにもなかった。
そして、まるで神様が上からタイミングを見計らっていたかのように、バケツを引っくり返したかのような大雨が降り注いできた。
「くそっ、雨が……!」
傘なんて持ってない。
しかし、それは瑠衣さんも同じことだろう。
ゲリラ豪雨もかくや、というほどの大雨で、一瞬でずぶ濡れになりながら、僕は闇雲に走り出した。
「瑠衣さーん!」
声すらかき消されてしまうような大雨の中、僕は必死にその姿を探す。
しかし、この大雨で、瑠衣さんどころか、他の人影すらほとんど見つけられなかった。
「どこに行ったんだ……!?」
よく考えたら、僕は瑠衣さんのことをなにも知らない。
実家がどこなのか、どんな場所が好きなのか、どういうことが苦手なのか、なにをすると悲しむのか、そして――
どんなことで、笑うのか。
いつだって、瑠衣さんは笑っていた気がする。
特別なことがなくても、楽しそうにしていた。
だからこそ、僕は気づかないフリをしてしまったんだ。
――その笑顔は、勘違いという、砂上にあるものなんだっていうことに。
その時、僕は足元に転がっていたものに気づいた。
「……? これ……?」
雨に濡れたそれを、そっと拾い上げる。
それは、一緒に行ったペットショップで貰った、紙のポイントカードだった。
スタンプが押してあり、それが十個溜まると、一回タダになるというやつだ。
『また、一緒に行きましょうね?』
と嬉しそうに笑っていた瑠衣さんは、会計の時にもらったこのポイントカードを大切そうに鞄へ入れていた。
間違いない。これは、瑠衣さんの持っていたポイントカードだ。
僕はそれを胸ポケットに差し込むと、再び走り出した。
どこにいるのかわからない。でも、もしかしたら。
そう思い、僕はただ、ひたすらに走り続ける。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!」
運動不足がたたり、足と肺が悲鳴を上げてきた。
それを無理やり無視しながら、ようやくたどり着いたのは、
「あ……」
僕と瑠衣さんが、初めてのデートで待ち合わせした、駅前のモニュメントの前だった。
大雨の中、傘も差さず、瑠衣さんはぼんやりと佇んでいた。
まるで、行き場を失ってしまった、迷子の子供のように。
突然の大雨だったからか、駅前に人はほとんどいなかった。
僕と瑠衣さんは、そんな空間で、しばらく無言で向かい合っていたが、
「……ごめんなさい、雪斗さん」
ぽつりと、雨音にかき消されそうな声で、瑠衣さんがそう告げてきた。
「私、勘違いしちゃってたみたいで……困っちゃいますよね? 一人で舞い上がっちゃって」
「そんなこと……!」
僕がなにかを言おうとするのを遮るように、瑠衣さんはゆるゆると首を振ってきた。
「昔から、親にも言われるんです。お前は思い込みが激しいところがあるって。おっちょこちょいで、人の話をよく聞かない子だって」
自嘲気味な笑いを口元に浮かべながら、瑠衣さんは小さく肩をすくめる。
「自分でも、そう思う時がよくあります。ダメなんです、私。特に、好きなこととか、嬉しいこととかあると、すぐに浮かれちゃって。猪みたいに、周りを見ないで、直進しちゃうんです」
雨に濡れた両手を、瑠衣さんは弱々しく握り締め、そして、ゆっくりと頭を下げた。
「本当にごめんなさい……私、雪斗さんにご迷惑をかけちゃいました……なんてお詫びすればいいか……」
「……そんなこと、ないっ」
雨に濡れた、瑠衣さんの長い髪を見ながら、僕はただ、今言わなければいけないことを口にする。
「そんなこと、絶対にない!」
「雪斗さん……?」
困惑した表情を向けてくる瑠衣さん。当然だろう。そして、そんな顔をさせているのは、全部僕が悪い。
だからこそ、これは、僕がやらなきゃいけないことなんだ。
「僕の滑舌が悪かったのが、きっかけだったかもしれない。言葉が正しく伝わらなかっただけだったのかもしれない。でも、それでも」
そう、それでも。これだけは、絶対に、間違いない。
「僕の伝えたかったことは、ちゃんと、正しく伝わっていたから」
「え……?」
息を呑んだ瑠衣さんに、僕は、改めて向き直った。
言わなきゃいけないことがある。
伝えなきゃいけないことがある。
それは今、ここで、僕がやらなきゃいけないことだから。
「だから、瑠衣さん――ううん、神楽さん」
そして、僕は、あの時からやり直す。
そうしなきゃ、僕は、僕たちは、前に進むことができないから。
「もう一度、ここから、始めませんか?」
「ここ……から?」
「そう」
おかしな勘違いがあって、妙な関係が続いてしまった。
でも、その前から、僕とお隣のお姉さんとの関係は始まっていて。
ずっと、顔を合わせて、少しだけ話すだけの関係で。
でもいつからか、それじゃ満足できなくなっていた自分がいた。
「僕と神楽さんは、ただのお隣さん。たまに顔を合わせて、お喋りして、でもお互いのことはよく知らなくて」
それだけでも、十分幸せだった。
それだけでも、十分楽しかった。
けど、それでも。きっと、僕の本心は、もうずっと前から、もっともっと先へと進もうとしていたんだ。
「でも、僕は。僕は――」
もう、噛んではいけない。
聞き間違いでも、言い間違いでもなく、ただ、目の前の人に想いを伝えるために。
僕はただ、真っ直ぐな気持ちを、絶対に言い間違えないように、口にした。
「――好きです」
僕の中にあるのは、ただ、それだけのことで。
そのシンプルで、間違いようのない気持ちを、僕はただ、目の前の女の子にぶつけた。
「僕は、神楽さんのことが、ちゅ――す、好き、です!」
目の前に立つ女の子は、雨の中、ただ双眸を見開いていて。
その子が、もう聞き間違えなんてしないように、僕は何度も、何度でも、この想いを口にする。
「いつだったからなのかわからないけど、あなたのことが、好きになってました。言い間違いでもなくて、ただ、ただ、あなたのことが好きです」
そう、だから――
この言葉を、しっかりと、目の前の女性に伝えなければいけないのだ。
「だから――僕と、付き合ってもらえまちぇんか!」
――噛んだ。
頭の中が真っ白になった僕の前で、神楽さんは、小さく肩を震わせた。
笑われてしまったのかと絶望したが、どうやら、様子が少し違っていた。
「……う……えぐ……っ」
僕が顔を上げると、神楽さんは、両手で涙を拭っていた。
涙とも雨ともつかないくらい、次々と溢れてくる涙を一生懸命拭いながら、神楽さんがこんなことを言ってくる。
「わ、私……自分だけだと……不安になって……!」
「え……?」
その意外な告白に、今度は僕の方が動きを止めることになった。
嫌われたって、蔑まれたって仕方がない――そう思っていた僕に、神楽さんの想いが強く突き刺さってくる。
「私の聞き間違いだって……レンちゃんに言われて……っ、私だけが……雪斗さんのこと……好きなんじゃないかって……っ」
子供のように泣きじゃくりながら、神楽さんが真っ赤な瞳を僕に向けてきた。
「だから……だから……私のことなんて……雪斗さんは好きじゃないんだって……そう、思って……っ」
いつの間にか、雨が止んでいた。
あれだけ降っていたのが嘘のように、雲の間からからりと晴れ上がった青空が、顔を覗かせてくる。
強い光が僕たちを照らすように降り注ぎ、ずぶ濡れになっている二人を包み込む。
「……そんなこと、ないよ。あるわけない」
絶対に、そんなこと、あるはずがない。
明確な理由があるわけでも、根拠があるわけでもない。
けど、これだけは確かだという気持ちが、想いが、僕の中にある。
だから――
「改めて」
僕は神楽さんに向き直り、背筋を伸ばし、顎を引いて、この言葉をもう一度発した。
「僕と――付き合ってもらえまちゅか?」
――噛んだ。
それでも、僕はもう慌てず、騒がず、神楽さんの目を真っ直ぐに見つめる。
神楽さんも、笑わず、泣かず、ただただ嬉しそうに頬を緩ませると、小さく頷いた。
「――はい、喜んで」
そう、そんな二人の、二回目の始まりは――
空に大きく綺麗な虹の橋がかかった、ある日の午後のことだった。




