1話
優香さんと出会ったのは、入学して間もなく高校時代から付き合っていた彼女に振られた日だった。
僕は午前の講義を意気揚々とサボって、当彼女との待ち合わせに向かっていた。その日は数週間前から決めていたデートの日。
いまでは彼女のなんだかよそよそしい態度や、気まずそうな雰囲気の意味が分かる。でも当時の僕は、馬鹿なことに久しぶりに会える彼女の照れ隠しだと思っていた。
「あのね、健吾くん……私ほかに好きな人ができたの。だから別れてほしいの」
昼ごはんでも食べよう、なんて小洒落たカフェに入って、飲み物を頼んだらこれだ。ちょっと地味めな彼女の着ている服の袖からは、新しいリストカット跡が見え隠れしていて、僕のいない間に彼女は少し変わっていたようだった。
僕の思考は停止していて、彼女の言葉もほとんど耳に入らないし、夢でも見ているような気分だ。
「私の好きなひとね、健吾くんとは違ってすごく安心させてくれるの。ずっと一緒にいてくれる。結婚も考えてくれる」
久しぶりに会えるから、なんて浮かれて買った彼女へのネックレスは、今でも部屋の隅に転がっているだろう。
あろうことに彼女は今にも別れようとしている彼氏に向かって、他の男と彼氏を比べて褒めている。とうとう頭がパンクした僕はただただ乾いた笑いをこぼしながら首を縦にふる、首振り人形になってしまった。
「またね、健吾くん」
けっきょく僕は何も言えず、数秒前まで彼氏だった僕にこれから付き合うであろう男の惚気を盛大に撒き散らして、たらふく昼飯を食べて帰って行った。
会う前は会ってなくてもただ幸せな気持ちだったのに、あってから僕はどん底の闇に落ちてしまった。ポケットに隠していたプレゼント包装が施されているネックレスを見て、ただただ虚無感に苛まれる。
今までの彼女と別れた理由思い出す。
「他に好きな人が……」
「健吾くんを恋人だと思えないの」
「付き合うまでが一番楽しかった」
頭がぐらぐら痛んで、僕は大きくため息を吐いた。街に並ぶ桜の木が、景色を薄桃に染めているのがいやに腹立つ。
僕はそんなに男として魅力はないんだろうか。なんで付き合っている女性を満足させられない?いつも浮気されて恋愛が終わる。
「僕、女の人と付き合わない方がいいよな……」
向いてないならやめちまえ、っていうのが僕の自堕落な父親の口癖だった。
当時はなんでも向いてなくても行動すればいいと思っていた。現実は違った。自分に向かないことをすると、人を傷つけたり自分が傷つくこともあることを知った。きっと、僕には恋愛が向いていないんだ。
「恋愛すんの、やめよ」
公園のベンチで呆然と座り込んでいると、携帯が震えた。サークルの飲み会の誘いだった。
もちろん僕は二つ返事で了承した。メンバーとか、終電だとか、次の日の一限の講義だとかは頭になかった。いま一番優先すべきは、元カノのことを忘れることだった。
そして彼女と別れたこの日、サークルの飲み会で僕は優香さんを初めて認識した。彼女もまた、初めて僕を認識したんだろうと思う。
「先輩!どう思います?」
僕がビールのジョッキを叩きつけるようにテーブルに置いて先輩に絡むと、先輩は苦笑いをしながら僕をなだめた。サークルの飲み会は賑やかで、笑い声や料理を荒々しく食べる音で、広めの個室は騒がしい。
「お前に魅力がないわけじゃないと思うぞ?ただその子の見る目がなかっただけだ」
「そうだぞ、健吾。大学に入ったばっかりなんだし、新しい子探せ!飲んで忘れろよ!」
「あ……ありがとうございます……」
常套句のようだけど慰められてるだけで嬉しくて、僕は少し涙目になってしまった。視界がいやにぼやけたので、強く目をこすってから一気にビールをあおぐ。アルコールの強いにおいが鼻をついた。
そうだ、僕の青春はまだ始まったばかりなんだ。振られる時期がまだ早くてよかったと思おう。そうしよう。ポジティブな思考に切り替えはじめたとき、ふと、先輩は目の前にいた女性に話しかけた。
「そうだ、女子にでも聞けばいいんじゃないか?なあ、御園」
「え?わたしですか?」
御園と呼ばれた女の子、もとい優香さんはキョトンとしてから、ぱっちりした目を僕に向けた。なんとも端正な顔立ちをしていて、薄目の化粧がよく似合っていた。優香さんは少し考え込んでから、僕たちに、にっこり笑いかける。
「女の子は皆すぐどっかにいっちゃいますから、ちゃんと捕まえてないとだめですよ?」
その微笑み方はなんとも悪魔を連想させるような妖しいもので、僕は背筋がぞわりとした。先輩方も、優香さんに深入りするのは良くないと思ったらしく、それ以上話は広げずにその場は終わった。
心優しい先輩方によって励まされた僕の恋愛に対する関心は、初対面である優香さんによって綺麗に打ち消され、僕は今後恋愛をしないことを心に決めたのだった。