第九十二話
「良し、こんなもんで良いだろう」
ナオルの手当てを終え、マルヴァスが立ち上がる。そんな彼を、メルエットが不安気に見上げた。
「マルヴァス殿、ナオル殿は大丈夫なんでしょうか?」
「心配するなメリー。見た目は派手だが、傷自体は浅い。精々身体を洗う時に沁みるくらいだろうさ」
「しかし……!」
メルエットは言いかけた言葉を途中で切り、唇をギュッと引き結んで自分の膝の上に乗るナオルの顔に視線を落とす。一見すると安らかな寝顔で呼吸も安定しているが、袖が裂けて顕になった右腕の怪我が痛々しい。ナオルが使った強大な魔法の反動なのか、二の腕から指先まであちこちに切れ込みが入ってズタズタになってしまっているのだ。
自分達が助かった代償だと考えると、メルエットの心はどうしようもなく自責の念で満たされてしまう。
「ナオル様、申し訳ございませんです! コバめの力が足りないばかりに、ナオル様に斯様な御苦労を……!」
コバなど、先程からずっと地面に俯伏しながらナオルに対し侘び続けている。メルエットはぼんやりと、余人を憚らずに咽び泣くゴブリンを見やる。彼の洟を啜る音が耳に入ってくるが、不思議と不快感は沸かなかった。
自分も、コバと同じ気持ちだったからだ。
マルヴァスやローリスは勿論、ナオルにも頼りっぱなしである現状。彼らが佑けてくれなければ、何ひとつ成せないちっぽけな自分。自らの無力さを責めるべきは、自分の方だ。
恥も外聞も気にせずに泣いているコバが、まるで自分の心を代弁してくれているかのような気がしていた。
「むしろこれくらいで済んだのが驚きだ。あのワームを仕留めた魔法の対価というのがな」
そう言って、マルヴァスは泉に浮かぶワームの死骸に目を移す。もう二度と起き上がる事の無いネルニアーク鉱山の主の周りを、スファンキル達が青白い光を手向けのように垂らしつつゆっくりと旋回している。
「ったく、末恐ろしいガキだぜ。“渡り人”ってのはどいつもこいつもこんな風なのか?」
薄気味悪いものでも見るように、ローリスが恐る恐るナオルの顔を覗き込む。あどけなささえ感じる程、無防備な寝顔だった。
「虫も殺せねェようなツラしやがって。とてもあのワームを討ち取ったヤツとは思えねェな」
「事実だぞ、ローリス。現にお前も一度ナオルに負けてるじゃないか」
「うるせッ! あの時は油断してたんだ!」
マルヴァスの誂い口調に食って掛かるローリス。普段通りのやり取りが出来る程、この二人は余裕を取り戻していた。
「ったく……! それよりお嬢様、そろそろ此処を離れた方がよろしいかと思いやすぜ」
ローリスは注意深く辺りを見渡す。ナオルの生み出した例の竜巻みたいな炎は既に鎮火しており、炎があった場所には真っ黒に焦げた大地とワームが身体を引きずった後、そして燃えカスになった葉っぱや枝が散乱するばかりであった。
それらを確認しながらマルヴァスも頷く。
「そうだな。幸いな事に森には延焼しなかったが、あれだけの火柱だ。オーク達が居た砦からも見えただろう。グズグズしていると連中の斥候が姿を現すぞ」
「ですが、ナオル殿が眠ったままです」
メルエットは困惑を隠そうともせず、哀願するようにマルヴァス達を見上げる。
「叩き起こしやしょうぜ。第一、お嬢様の膝を枕にするなんて不逞ェ野郎だ!」
メルエットの膝枕で穏やかな寝息を立てるナオルを憎々しげに見下ろしつつ、若干顔を赤くしながらローリスが憤慨する。
「なんだ? 羨ましいのか?」
「そうは言ってねェよ!!?」
マルヴァスから投げかけられた不名誉極まるトンデモ疑惑を、噛み付かんばかりに即座に否定するローリス。怒りで顔の赤みが益々増した。
「分かった分かった、そういう事にしといてやるから顔近付けんな。むさ苦しくてたまらん」
「ぐぎぎ……! マルヴァス、この野郎……っ!」
「よろしいのですローリス殿。これは私がしたくてしている事ですから」
「で、ですがお嬢様……! 伯爵閣下の御令嬢ともあろう方が……!」
「はいはい、もうそれくらいにしとけ。話が先に進まん」
「テメェが茶々を入れるからだろうがッッ!!」
ブリズ・ベアの吠え声のようなローリスの突っ込みを鮮やかに聞き流しつつ、マルヴァスは背中を向けてメルエットの前にしゃがみ込んだ。
「俺がナオルをおぶって行こう。メリー、乗せてくれ」
「……分かりました。コバ、手伝いなさい」
メルエットは穏やかな口調でコバに声をかける。コバは震え続けながらも静かに頷き、よろよろと立ち上がった。
そして、二人で協力しながら未だ目を覚まさないナオルの身体をマルヴァスの背に預ける。
「良し! それじゃ、早いとこカリガ領を抜けるとするかね」
「重くありませんか、マルヴァス殿?」
「全然平気だ。むしろ軽すぎて心配になるくらいだぞ、コイツ。こっちに渡って来る前にどんな食生活してたんだか」
「マルヴァス様、この弓と矢筒はコバめがお運び致しますです」
「助かる、ありがとうなコバ」
そして、一行は泉を離れ、北を目指して再び歩き出す。
メルエットは黙々と足を運びながら、ナオルと出会ってからの日々を思い返していた。
竜の飛来、マグ・トレドの炎上、王都への出立、モントリオーネ卿の陰謀、盗賊やオークの襲撃、ワームとの戦い。
少し前までの自分には、考えもつかなかったような大冒険だ。
ナオルとの出会いが、自分の人生を変えてしまった。
後悔は、無い。自分の非力を呪いたくはなっても、彼との邂逅を恨んだりはしない。
「(……この先も、きっと様々な危険が満ち溢れている。けど、なんとしても最後まで見届けたい……! 彼と出会って始まったこの旅が、どのような終着点に辿り着くのか。私だけじゃなく、此処に居る皆で、一緒に……!)」
マルヴァスに背負われたナオルの寝顔を眺めながら、メルエットは強くそう想うのだった。
「…………はい、全て後命令通りに」
オーク達の居城。棄てられて久しい廃砦の一室にしてはやけに小綺麗に整えられた部屋の中で、テーブルに置かれた水晶玉を前にブツブツと言葉を発する男が居る。
ヨルガンである。
布で吊り下げられた左手を、右手で労るように擦っている。オーク達の粗放な治療の所為で、まだ痛みと痺れが薄れない。
しかし内心を顔に出す事無く、仄かに白く光る水晶玉に向かって神妙な面持ちで報告を続ける。
「あのナオルという少年には、しかと例の『呪印』を施しました。これで今後、彼は竜族の接近を事前に察知出来ましょう」
ヨルガンがペンダントを介してナオルに仕掛けたのは、生命を奪う呪いでは無かった。あれは竜と、その眷属が近くに存在する事を報せるサインだ。ヨルガンは最初から、ナオルを呪いで縛るつもりは無かったのである。
「しかしながら、本当に彼を逃してもよろしかったので? 私の手元に置いておけば、オーク共やモントリオーネ卿の目を盗んで彼を貴方様の元まで送り届ける事も…………いえ、出過ぎた発言でした、お許しください」
水晶玉の向こうに映し出された相手に対し、敬虔な態度で頭を下げるヨルガン。ナオルの前で見せた態度からは想像も出来ない姿だった。
「先々まで見通しておられる御方に私めが意見出来る事など何もございますまい。我々『黒の民』は、二百年前よりずっと貴方様へ忠誠を捧げております。我々は貴方様の忠実なる下僕。どうぞご随意にお使い下さいまし」
水晶玉に映る人物が言葉を発する。それを聴いたヨルガンは、深く頷きながら口の端を吊り上げて笑う。
「ではそのように。仔細は後ほど追って御報告致します。良き報せを、御期待下さい」
そう言うと、ヨルガンはもう一度深々と頭を下げた。
「――宰相様」
これで第二章は終わりです。ここまでご覧下さってありがとうございました!
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