第八十六話
印契から放たれた特大の火球が、まるでほうき星のように尾を引いてワームの頭に直撃した。
同時に襲ってくる、身体を押しつぶすかのような逆方向の力。飛行機が滑走路を走り出し、十分な速度を付けて離陸する時に感じる『G』を何倍にも強くしたような衝撃だった。背中や腰が荷台の囲いに思い切り押し付けられる。「ぐぇ!」という、潰れたカエルのような悲鳴が僅かに喉から溢れた。バキバキバキ! と、何かが折れるような音がしたが、これは僕の背骨とかじゃなく、囲いに使われている木の枠組みが出していると信じたい。
「うおっ!?」
「きゃっ!?」
ローリスさんやメルエットさんの声がする。直後に、ガクン!と荷車が大きく後ろに傾いだ。
そして、そのまま勢い良く斜面を走り出す。たちどころに遠ざかる景色の中で、頭部を火達磨にされたワームが恐慌に陥りながら火を消そうと滅茶苦茶に藻掻く姿と、その煽りを食って破壊され崩落する西門の様子が目に映った。ああなっては最早ワームも僕達を追い掛けるどころではあるまい。
魔法を撃った反動で荷車を押し出すという僕の目論見は当たった。後は野となれ山となれ。
「く……!」
荷車の速度はどんどん増し、それに比例して揺れも激しくなる。未舗装の山の森を走っているんだから当然だ。
頭でそれが分かっていても、反動の痛みと脱力感に支配された身体を僕はコントロール出来ない。大きめの石を車輪が跳ねたのか、荷車が上下に激しく揺れる。ついに尻が浮き、地面に滑り落ちる事を覚悟した時だった。
「ナオル!!」
背後からメルエットさんの声がして、僕の身体に手が回される。意識が朦朧としかけていたけれど、彼女の手だとすぐに分かった。振り落とされかけた僕を、メルエットさんが支えてくれているのだ。
「皆! 手伝って!!」
メルエットさんがマルヴァスさん達に向けて必死に呼びかける。すぐに僕の身体を掴む腕が増え、そのまま持ち上げられて荷台の中に引っ張り込まれた。
「よしっ……!」
この声はローリスさんだ。声に安堵を滲ませている。
「ナオル様ぁぁ……!」
コバだ。泣きそうになっている。安心させてあげたいけど、今は笑顔を作れそうにない。
「やったな、ナオル! 見事だったぜ!」
マルヴァスさんも嬉しそうだ。歯を見せて笑う彼の顔が、ぼやけた焦点の中で陽炎のように揺れた。
「ど、どうも……」
かろうじて僕はそう答える。少しずつ、意識が明瞭になってきた。くらくらする頭をどうにか持ち上げて、周囲の様子を確認しようとすると……
「うわっ!?」
鼻先を木の枝が掠める。
「頭を下げてろ! ぶつけるぞ!」
マルヴァスさんが僕の身体を抑えて伏せさせる。
「これ、何処まで降りていくんですか!?」
「ああ!? んなもん、坂が終わるまでだろ!!」
ローリスさんが囲いに背を付けながら吠える。言い終わらない内にガンッ! 、と強い衝撃が加わり、荷車が左に少し浮いた。
「うひゃぁっ!? 木! 木が! 今ぶつかりましたよね!?」
「ああ! 今のはやばかった!」
マルヴァスさんが注意深く首を巡らして周囲の状況を見渡している。僕も目だけを上げた。夜の闇に染められて黒い棒と貸した樹木が次々と背後に流れていく。遠いのもあれば、触れそうなほど近いのもある。いつ直撃するか分からない。ローリスさんの言う通り『坂が終わるまで』に激突しなければ良いが。
「こんなに速いと思いませんでした!!」
一度納得して、しかも自分で賽を投げたにも関わらず恐怖と後悔に駆られた僕が反射的に文句を零すと、メルエットさんがハイになったように答える。
「私もよ、ナオル! けど逆に考えて! これは好都合だって! このまま、ワームもオークも追ってこれない場所まで逃げ切りましょう!!」
「そう上手くいく!!?」
「いくように祈りなさい!! 地母神、【冥の女神様】に!!」
「また女神様か!! 本当にご利益あるんだろうね!!?」
「あるわよ!! 竜に焼かれた街が雨で一日で鎮火したでしょ!!? あれだって【雲の女神様】の御加護だったんだから!!!」
「でも!!」
「今更ごちゃごちゃ言わない!!」
「そろそろ黙れ! 舌を噛むぞ!!」
マルヴァスさんの叱声が飛び、半ば口喧嘩のように言い合っていた僕達はピタリと口を閉じた。コバが不安気に僕とメルエットさんを見比べている。この下り、何度目だ?
内心で溜め息を吐きつつ前方に意識を移した僕は、直後にそれを後悔した。
「嘘だろ……!?」
巨大な樹木が前方に鎮座していた。このまま直進すれば正面衝突間違いなしのコースだ。
これが自動車なら、即座に急ブレーキを踏む。あるいは、ハンドルを大きく切って迂回を図る。だが悲しいことに僕達の乗り物は、重力に身を任せて流されるだけのただの荷車だった。自力での操作など叶う筈も無い。
ならばさっきこの荷車を押し出したように魔法の反動で…………駄目だ、今この状態でそれをしても、僕が荷車からぶっ飛ばされて落ちるだけだ。魔法を撃ち込んであの木を焼いても、結果は同じ事。衝突する未来は避けられない。
「詰んだ……」
呆然と呟く。今度こそ万事休す。
「皆伏せろ!!!」
僕達に出来た事といえば、マルヴァスさんの指示通りに身を丸めて、メルエットさんの言う通りに祈りを捧げるだけ。
「(兄さん……! 姉さん……っ!)」
ペンダントを握り締め、最愛の人に祈る。僕にとっての神は、強いて言うならこの二人だった。
そして――
――ズガァァァァン!!!!!
祈りも虚しく、荷車は大木に直撃し、僕の身体は投げ出されて宙を舞った。
死ぬ…………。
全てを諦めた時、誰かに腕を掴まれたような気がした。それが誰かを見る事も無く、僕の意識は闇へと落ちた。