第八十四話
「あれは、ワーム!!?」
メルエットさんが手で口元を覆う。目には信じられないものを見たという驚きが走っている。僕も同じ思いだった。胸の痛みも、呪いの魔法陣の存在をも忘れて、再び現れた凶悪な巨獣に目が釘付けになる。
「なんでアイツが!? あの谷底に落ちて、死んだ筈じゃ!?」
良く覚えている。坑道の先にあった闇だけが広がる果てしなく深い谷に、あのワームは自分の溶解液で溶かして切った吊橋諸共飲み込まれていった筈だ。ワームの呻き声と、散らばった木片が擦れ合いながら落ちてゆく音だけがいつまでも尾を引いて、地面に墜落したと思しき音はついに聴こえず終いだった。誰がどう考えても、落ちたら助からない程の深さだったのに!
それとも何か? 僕達と同じく、アイツも魔法を使ったというのか!? 地面に激突する前に魔法で自分を浮かせ、それで助かったと?
確かめようもない事だった。理由が何であれ、たった今目と鼻の先に飛び出してきたあのワームの姿は、紛れもない現実なのだ!
――グオオオオ!
ワームは僅かに首をもたげてから一声吠えると、身体全体を鞭のようにしならせ、俄に勃発したこの予想外な事態に呆気にとられて咄嗟の反応が出来ないでいるオークの小集団に頭から突っ込んだ。
レブだけは、辛うじて身を投げ出すように横っ飛びに飛び退いてその一撃を躱したが、残りの部下達は哀れにも軒並み弾き飛ばされ、デタラメに地面の上を転がった。まるで鉄球に蹴散らされるボーリングピンだ。
レブ率いるオークの精鋭達を事も無げに撃破したワームが、のそりとその巨大な首を持ち上げる。その視線の向かう先は、言うまでもなく僕達だ。
「逃げろお前ら! 俺がアイツを引きつける!!」
言うが早いか、止める間も無くマルヴァスさんが剣を構えて飛び出した。風のように疾走し、ワームへ肉薄する。
「マルヴァスさんっ!!」
僕の呼びかけが虚しく響く。
マルヴァスさんの姿を認めたワームが、おもむろにその巨大な尾を持ち上げる。自分目掛けて真っ直ぐ駆けてくる彼が間合いに入ったのを見計らい、容赦なく叩き潰さんとそれを振り下ろした。
尾が地面を激しく叩き、勢い良く土埃が舞い上がる。
しかし、既にマルヴァスさんはそこには居ない。
「こっちだ! 腐れミミズめ!!」
ワームの側面からマルヴァスさんの声が上がる。既に彼は剣を収め、片膝を地面に立てた状態で弓に矢をつがえていた。直進すると見せかけてワームの攻撃を誘い、寸前で身体を急旋回させて死角に回り込んだのだ。思わぬ場所からの声に反応して振り返ろうとするワーム。
その首筋に、マルヴァスさんの放った矢が突き刺さる。
――ガァァァ!!?
ワームが苦痛を訴えるように身を捩る。が、それも僅かな間だけで、すぐに姿勢を整えてマルヴァスさんを睨み据えた。黄色から赤へと変容する眼光。お怒りモードに突入だ。
いきり立ったワームが、今度はマルヴァスさんをひと飲みにせんと巨大な口を大開きにして迫る。鋭い牙に掛けられる前に、マルヴァスさんは辛くも紙一重でその噛み付きを避ける。が、逃げた先にワームの胴体が先回りしていた。マルヴァスさんの動きを封じんと、ワームは尾と胴体を輪のように巡らせて囲おうとしていたのだ。逃げ道を塞がれて戸惑うマルヴァスさんに、再度差し向けられる鋭い牙。
あわや今度こそ、と思われたその時、マルヴァスさんは寸前でワームの胴体に手を付き、足で蹴った。
するとどうした事だろうか、彼の身体は鉄棒で逆上がりを披露するかの如く、その場で綺麗な宙返りを見せたではないか。一瞬前までマルヴァスさんが居た場所で、ワームの牙がまたも虚しく空を切る。
マルヴァスさんはそのまま宙で身体を一回転させ、真下に入ってきたワームの頭を蹴って踏み台にし、更なる跳躍を見せた。胴体を飛び越えて囲いの外に出る直前、空中で弓を構えながら再度矢を放つ。逆さに向けられたことで当然矢筒の中の矢も零れ落ちていたのだが、なんとマルヴァスさんは落下途中の一本を掴んでそのまま使用したのだ。
全て流れるような一連の動き。いっそ曲芸と呼んでも構わない、恐ろしい程の技の冴えだった。
頭上に矢を受けたワームが、再び苦痛の声を上げる。が、やはり致命傷には程遠いようで、その動きに衰えは見られなかった。皮膚が厚すぎてかすり傷程度にしかなっていないのかも知れない。
しかしながら、ワームの注意は今や完全にマルヴァスさんに向けられている。オーク達は倒れ、西門はフリーとなっている。確かに、逃げるのなら今なのだが…………。
「……ねえ、あれを見て」
メルエットさんが、小競り合いを繰り返すマルヴァスさん達の反対側を指差す。
そこには何も積まれていない古い荷車が一台、無造作に放置されていた。四輪の造りになっており結構大きい。どうやら人力で動かすよりも、馬や牛に曳かせるタイプのものだろう。
「あの荷台なら、私達全員が乗れないかしら?」
「乗れるだろうけど、それがどうしたの?」
メルエットさんの意図が掴めず、僕は首を傾げる。
「マルヴァス殿が言っていたでしょう? あの西門の外は坂になっているって。あの荷車なら、勾配を下るに任せてそのまま逃げられるわ」
「ああ……!」
ポン、と手を打ちかけたが、すぐに重要な事に気付く。
「でも、そこには森が広がっているって話だったよ? 坂を下る途中で木々にぶつかったら危なくない? それに、マルヴァスさんはどうするの?」
「置いていく訳無いでしょう? 勿論、一緒に逃げるに決まってるわよ。門の所まで荷車を運んでからマルヴァス殿を呼び寄せて、皆で荷台に乗って坂を下って逃げるの。途中で木にぶつかったら、その時はその時よ」
あっさりとメルエットさんは言う。そんな無茶な……。
「走って逃げても、きっとあのワームからは逃げられない。やるなら、一気に距離を稼ぐ方法が必要よ」
「それは、そうだろうけど……!」
「腹を括りなさいよ、ナオル殿! マルヴァス殿の行動を無駄にしても良いの!?」
この叱咤で、僕もようやく覚悟を決めた。
「……分かった。ごめん、メルエットさんの言う通りだよ」
対案も思い浮かばないのに、尻込みしていられる状況じゃなかった。メルエットさんの目を見て頷きを返すと、逆に彼女は不安そうな顔になって訊いてきた。
「ねえ、それよりもその胸、大丈夫なの?」
「え……? ああ、これか」
言われて、ようやく僕の胸で未だ赤い光を保ち続けている魔法陣の存在を思い出した。ワームの出現でそれどころじゃなくなっていたというのもあるけど、痛みは既に感じなくなっている。嘔吐感がこみ上げてくる訳でも無いし、胸の奥で身体を突き破らんとする力が働いている様子も無い。一先ず、今すぐ僕が死ぬという事は無さそうだった。
「……多分、大丈夫。少なくとも、今の所は何とも無いよ」
「……そう、それなら良いわ」
僕の返事を聴いて、メルエットさんは無理やり魔法陣から意識を吹っ切るようにローリスさんの方に目を向けた。
「ローリス殿、あの荷車を門の外、坂の手前まで押せますか?」
「問題ありませんぜ。お嬢様達を乗せたままでも運べまさァ!」
「ではお願いします」
頼もしいローリスさんの返答に、メルエットさんが僅かに微笑む。
「では行きましょう! マルヴァス殿が時間を稼いで下さっている間に!」
メルエットさんの音頭に、僕達全員が頷きを返す。
そして荷車へ向けて走らんと、一斉に壁から飛び出した時だ。
「…………逃さぬ!!」
僕達はすぐに足を止めた。
レブが、怒りに燃えるオークの大将が、決してこの砦から逃してなるものかと決意と殺意を全身に漲らせて、僕達の前に立ちはだかっていたのだ――。




