第七十五・五話(ローリスside)
「……良し!」
オークのけたたましい足音が遠ざかり、ローリスは身を捩って樽の中から出ようとした。
「……! いけねっ!」
が、少し顔を覗かせたところですぐにまた底の方へ引っ込まざるを得なくなった。新たに巡回にやって来たオークが二体、それぞれ松明を掲げて向こうから歩いてきたからだ。
「(勘弁してくれ、禄に進めやしねェ)」
樽の底で膝を抱える形で蹲りながら、ローリスは胸の内でボヤいた。
さっきからずっとこうだ。地下の古井戸から砦に入り込み、マルヴァスと二手に別れたまでは良いものの、地上の警備体制は想像以上に厳重で見つからないようにするだけでも精一杯という有様である。
これではメルエットを捜すどころでは無い。
「(面倒臭ェ、いっそもう飛び出して正面突破してやろうか!?)」
こうして樽に潜んでオーク共をやり過ごすだけに終始していては、メルエットの救出は叶わない。こうしている間にも刻一刻とメルエットの身は危険に晒されているのだ。あの裏切り者のオーク共がメルエットに何をしでかすか、ローリスの脳裏に最悪の予想が次々と浮かんでは濃厚な苦さと共に胸奥に堆積してゆく。
しかし、既のところで彼はその衝動を抑えた。マルヴァスから言い含められた事が理性をギリギリのところで繋ぎ止めているのだ。
「(我慢だ、我慢……! お嬢様の安全の為にも、俺達の存在を知られる訳にはいかねェ。お嬢様は必ず助け出す! それが、俺を騎士に取り立ててくれたイーグルアイズ閣下への恩返しなんだ……!)」
イーグルアイズから騎士の位階を授けられた時の喜びは、人生において最も輝かしい記憶となってローリスの心に息づいている。勿論、騎士と言っても国から認められた王国騎士ではなく、一領主の裁量で任命された地方騎士に過ぎない。しかし、ローリスにとってそんな些事はどうでも良かった。どちらであっても、自分が憧れた騎士には違いないのだ。
メルエット護衛の任を授けられたと同時に下賜された大槌、《トレング》はその象徴である。それを携えて両親の墓前へ赴き、長年の望みが叶ったと地下に眠る父と母へ報告を果たした時、ローリスは初めて自由になれた気がした。何重にも積み上げられていた重荷を取り払い、過去を断ち切って未来へ向かって歩き出せる心持ちになったのだ。ローリスにとって《トレング》は掛け替えのない相棒となり、なくてはならない心の拠り所となった。
だからこの潜入にも当然持ってきた。置いてこい、と難色を示すマルヴァスを無視して。
奴の言い分も分からないではないが、こればかりは譲れない。
その《トレング》は、現在自分の入っている樽の後ろに隠してある。誰から見ても目立つ得物である事は百も承知だったが、ローリスは邪魔だと感じてはいない。《トレング》に注ぐ想いは最早信仰にも近いものだ。
この《トレング》と共に、自分は任務を全うする。メルエットを護り切る。ローリスは強い想いで自分にそう課している。
そして、メルエットと一緒に居たあの二人も。
「(……そうそう、あのガキも忘れちゃならねェ)」
ナオルという名前の“渡り人”。自分と数奇な因縁で結ばれた、いけ好かないクソガキ。
偉そうに説教を垂れ、愛用していた剣を折り、妙な魔法でこっちの手首を斬り落とそうとしたヤツ。今思い返しても腸が煮えくり返る程に忌々しい。
だが同時にヤツは、竜から落下した自分を助けた恩人であり、今やこの旅の同行者でもある。
ローリスの胸に溜まるナオルへの感情は、一言では言い表せない複雑なものへと変化していた。
それに、いつも一緒に居たあのサーシャという女のガキが死んだとも聴いている。
あの女も、奴隷のゴブリンも、自分は殺そうとした。それなのに、自分はあの二人に救われた。《棕櫚の翼》との戦いでナオルと一緒に干し草の荷車を押していた姿が、ローリスの瞼の裏に焼き付いて消えない。
もうサーシャはいない。恥をかかされた恨みをぶつける事も、助けられた恩を返す事も、二度と出来ない。
今も生きているのは自分とナオル、そしてあのコバというゴブリンだけだ。
「(ムカつくことこの上ないが、アイツらも助けてやらねェとな。見殺しにしたんじゃ、“鉄火のローリス”の名折れだ)」
借りを作ったままじゃいられない。メルエットだけを救出してナオルとコバは放置、なんてやったらあまりにも寝覚めが悪い。
「(それに…………)」
ローリスの思考が先日のオーク達との戦いに戻る。
乱入してきたワームの所為で崖から落とされたメルエットとナオル(ついでにコバ)。投げ出され崖下へと消え行くメルエットの姿を見た時、ローリスの心は絶望感に支配された。
どうにか命からがら戦場を後にしたものの、生き残った事に対する喜びなんて湧く筈も無い。
使命を果たせず、イーグルアイズの恩を返せなかった。
仲間の護衛兵達も、皆死んでしまった。
ブリズ・ベアを討ち取った際、屈託のない笑顔で自分を称賛してくれた彼ら。焚き火を囲み、共に酒を酌み交わしながら歓談した彼ら。戦争が終わって以降荒みきっていた自分が、あんなに心を許せたのは実に久方ぶりだった。
彼らと笑い合える日も、もう決して来ない。
自分はまた喪ったのだ。
考えたのはそれだけだ。これ以上生きてどうなるというのか。
ローリスは死ぬつもりだった。マルヴァスの提案で去ってゆくオーク共を密かに追跡し、この砦を突き止めた時、すぐさま突貫して最期の意趣返しをしてやろうと考えた。
せめて一匹でも多くのオークを道連れにして、僅かながらでもこの無念を晴らしてやろうと。
ところが、そこで思いも寄らない展開になった。
なんとメルエットが、オーク共の捕虜となって連行されてきたのだ。メルエットだけでなく、ナオルもコバも一緒だった。
ローリスは自分の目を疑ったが、同時に希望も取り戻した。まだ使命は潰えていない。メルエットを必ず救い出す。
だが何故、メルエット達は生き残れたのか?あの崖は、どう考えても転落したら助からない高さだった。にも関わらず、何故?
「(あのガキが、お嬢様を救ってくれたのかも知れねェ)」
“渡り人”は、常人が及びもつかない強力な魔法を意のままに使いこなすと言う。実際に、自分もナオルが魔法を使おうとした場面を目撃している。
サーシャの宿で待ち伏せを仕掛け、ナオルの首を絞めて殺そうとした時、アイツは必死にもがいて自分の手首を掴んだ。
瞬間、掴まれた箇所に灼けるような熱と鋭い痛みが走った。慌てて手を離して難を逃れたが、自分の手首には一筋の赤い線のような跡が残っていた。
もしあのまま掴まれ続けていれば、恐らく自分の手首は切断されていただろう。
「(アイツが魔法を使うってのは本当らしい。その力で、お嬢様が助かったのだとしたら?)」
ローリスの胸に希望の火を灯したのは、またしてもあのガキという事になる。素直に感謝してやるのは甚だ癪だ。
アイツから受けた恩は、必ず熨斗付けて突っ返す。その為にも、アイツを此処で死なせてはならない。
「(…………オークの気配が途絶えた! 今度こそ行けるか!?)」
考え事をしながらも神経を研ぎ澄ませ、周囲の気配を怠らず探っていたローリスは、ふとオーク共の足音が消えている事に気付いた。
良し、と思って樽から出ようとした時、それは起こった。
――ボォォォォ!!!
激しく何かが燃え上がる音と、夜を焦がす赤い色。幾束もの篝火を集めたような火が、目の前にそびえる砦の内壁の向こう側で燃え盛っている。
「な、なんだァ!?」
思わず声を上げる。異常事態が起きたのは明らかだ。まさかマルヴァスの野郎が下手こいたのか!?
もうそうならマズい。侵入を知られた以上、もうグズグズしてはいられない。立ち塞がるオーク共を端からなぎ倒し、メルエットの元へ辿り着くまでだ!
ローリスは樽から飛び出し、後ろに隠してある《トレング》を掴んだ。
そして振り返った時、彼は信じられないものを目にした。
「――ッ!? あれは!!」
爆発が起きた方向を驚愕の表情で見上げるオークの一団と、彼らに囲まれている鎖で縛られた赤髪の若い女性。
捜し求めていたメルエットが、そこに居た。
それを認めた瞬間――
「う、おおおおおおおおおッッッ!!!!!」
ローリスの中で、何かが弾けた。
いよいよ第二章も終盤。ナオル達の運命や如何に?




