第七話
「ふぅ……さっぱりしたな」
中庭にある離れの建物。そこがこの宿に置かれた唯一の入浴場だった。
早めに湯浴みを切り上げた僕は、シラさんが渡してくれた大きめの古布で髪を拭きながら部屋へと戻る。
この世界でも入浴の習慣はあるんだな。もっとも風呂と言っても、ドラム缶くらいの大きな木桶の下に石窯を設けただけの小さな代物だったし、石鹸もシャンプーも無いし、湯加減もぬるめで丁度いいとは言えなかったけど。
ベッドに身を投げ出して、天井へと目をやりながら、僕はぼんやりとさっきの夕食時の事を考える。
魚のムニエルと、ライ麦で作った黒パンと、しなびたレタスとキャベツに小さなトマトを添えただけのサラダ。それが今日の献立だった。
ムニエルを「奮発した」と言っていたし、やはりここの食糧事情はあまり豊かとは言えないのだろう。
食後にサーシャが「大事なお客様に特別サービスよ♪」と言って出してくれたお茶をお代わりしたら、全員から珍獣でも見るような目を向けられた。お茶も高級品扱いになっていたとは思っていなかったのだ。
「戦争、か……」
マルヴァスさんの言っていた『傷跡』というのは、何も荒れ果てた大地や打ち捨てられた屍達の事だけでは無かった。
もう何回も感じている事だが、頭では分かっているつもりでも、こうして現実を突き付けられるまで中々本当には気付けない事ばかりだ。
自分がいかに現代日本の恵まれた環境で育ったか、こういう時に身に沁みる。
「……そうだ!」
ベッドから身を起こし、またまた感傷的になりかけた思考を切り替える。
「本当に僕が魔法を使えるのか、ちょっと試してみるか」
僕はベッドから降りて、部屋の中央へと立った。
両手を前に突き出し、目を閉じて意識を集中させる。
(……“火”、炎だ。僕の手の平から、でっかい炎の塊が発射される……。考えろ……イメージしろ……!)
頭の中でそう繰り返していると、やがて闇の中からポツリ、と小さな光点が現れた。
それは徐々に大きくなり、メラメラと燃え盛る火の玉となって僕の正面に固定される。
……今だっっ!
「全てを焼き尽くせ!! “ファイアボール”!!!」
……。
…………。
………………。
「……ぷっ! あっはっはっは!!」
腹の底からおかしさがこみ上げてきて、耐えきれずに僕は大声で笑った。
バカバカしい。中二病全開もいいところだ。
僕の手の平からは、勿論火の玉なんて出て来てない。仰々しく呪文を唱えて、返ってきたのは痛々しい静寂だけだ。
あまりにも間抜け過ぎる。誰も見ていなくてよかっ――
「なに? “ふぁいあぼうる”って」
「――!!!??」
心臓が口から飛び出るかと思った。見開いた目のまま、ギギギという擬音すら聞こえてきそうな程ゆっくりと、恐る恐る背後を振り返る。
サーシャがぽかんとした顔でそこに立っていた。
「……どうして、ここに?」
「えっと、後で話そうって言ったじゃない? 今日の仕事も一段落したからこうして来たんだけど……」
「あ、ああ……。そうだったね……」
あっけらかんとしているサーシャに対し、僕の方は物凄くぎこちない。顔が真夏に暖炉の傍で座っているかのように熱い。全身から吹き出る汗は、風呂から上がった直後だから湧いて出ているのではないだろう。お湯ぬるめだったし。
「大丈夫? 顔真っ赤だけど。もしかしてお風呂でのぼせちゃった? そんなに熱くなかったと思うんだけど」
「だだだ、だいじょうぶ。だけど、ほてったからだもさましたいし、そとにでない?」
「?? なんか、話し方もヘンだよ? 本当に平気?」
「へーきへーき。ほほほら、いいいいこいこいこ……!」
僕は返事も待たず、足早に部屋を飛び出す。これ以上、この場所に留まりたくなかった。
「あ! ちょっと待ってよ! もう!」
驚き、拗ねたようなサーシャの声が背中を追いかけてくる。すぐに足音もそれに続いた。
僕は一切歩みを緩めず、逃げるように階段を降り、一階の中庭へと続く扉を開けたのだった。
◆◆◆◆◆
「ふ〜、夜風が気持ちいいね」
「そうだね、風呂上がりで火照った身体を冷ますのに丁度いいかも」
夜空を仰ぎながらサーシャが大きく伸びをする。僕も適当に相槌を打ちながら、同じように顔を天に向けた。
綺麗な夜空だ。あちこちに点在する星々の瞬きが、儚げなランプの明かりを援護するかのように地上を照らす。人工光が充実し、深夜でも明るい現代社会の都会では到底拝めない景色だろう。
激しい羞恥心で炉に入れられた鉄のようになっていた僕の身体も、涼しげな風に当てられて少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「で、さっきの“ふぁいあぼうる”って何?」
「……頼むから蒸し返さないでください」
もう半泣きだ。さっき出来たばかりの黒歴史を、サーシャは遠慮なく掘り返してくる。
「もしかして、魔法? キミ、あ〜〜っと……」
「ナオルだよ、僕の名前はナオル。そういえば自己紹介、まだだったね」
「ありがとう。ナオルって、実は魔法使えたの?」
「違うよ。物は試しとばかりにやってみただけ。魔法で火を起こせたら色々と便利かな〜、って」
「ふーん、あたしは魔法なんてちっとも分からないや。使える人なら何人か見たことあるけど」
「そうなの? 僕も詳しくは知らないんだけど、魔法ってどんなのだった?」
「どんなのって言われても困るけど、そうね……。ナオルがやろうとしていたように手とか杖とかから小さな火を生み出したり、物を浮かせたり、膜? みたいなものを身体の周りに張ってたり、そんな感じかな?」
「それだけ? もっとこう、あたり一面を火の海にしたりとか、津波を起こしたりとか、雷を連続で降らせたり、とかは?」
「なにそれ? そんなの、人間に出来るワケないでしょ。竜や神様じゃないんだから」
そうなのか……。ほんの少し、ちょっとだけ心の中でがっくり来た。
魔法といっても、漫画やゲームで見るようなド派手な魔法はここでは存在していないみたいだ。
勿論、魔王顔負けの大魔導師になった自分の姿とか夢想していたんじゃないけど。……いや、本当に。
「あ、でも……」
ふと、サーシャは何かに気付いたように、顎に人差し指を添えて目を上空へと向ける。
「おとぎ話に出てくる“渡り人”なら、そういう魔法を使っていたっけな」
「そうなんだ? 僕、実はその“渡り人”の伝説ってのはあまり詳しく知らないんだよね。良ければ教えてくれないかな?」
「ん〜、あたしも昔、小さかった頃に父さんから子守唄代わりにって聴かされたくらいだから、あんま詳しくはないよ?」
サーシャはそう断ると、大きく息を吸った。
「雲の上より来たる 神に喚ばれし天津人 魔の理に通じ 民の望みを映す 乱るる大地に降り立ち 蔓延る邪を討ちこれを定めん」
すらすらと暗誦するサーシャを見て、僕は驚きに包まれた。
「それ、詩だよね? 全部暗記しているの?」
「うん、何回も繰り返し聴かされたから自然にね、覚えちゃったの」
「その、雲の上から来た天津人って言うのが……」
「そっ、“渡り人”の事。彼らは神様の命令でやって来た、神の国の人達だって言ってるの。戦乱で荒れ果てたこの世界に来て、強大な魔法の力で悪い人達を全部やっつけちゃう。まさに救世主だよ」
「救世主……」
「でも、所詮お話の中だけの存在よ。もし本当だったら、十年前の時だって彼らが来てくれた筈だし」
「現れなかったの?」
「当たり前よ、来るわけがないわ。父さんも街の人達も、誰一人本気にはしていなかった」
サーシャの声音に、少しだけ怒りが滲む。十年前といえば彼女もまだ幼かっただろう。ひょっとしたら当時はおとぎ話の内容を信じていたのかも知れない。
「マルヴァスさんは、二百年以上前には“渡り人”は実在したって言っていたけど……」
「ありえないわ。確かにそれくらい前にも大きな戦争が大陸中で起きていたって聴いたことあるけど、“渡り人”が居たなんて誰も言っていなかったもの」
「そう、なんだ……」
あまりにもばっさり一刀両断にされたので、つい気分が落ち込みかけたが、すぐにこう思い直す。
サーシャ達のような庶民に伝わっている話と、国で管理している記録とで齟齬があるのかも知れない。今の話を鵜呑みにするのはナンセンスだ。
僕は深く追及するのはやめて、肝心な部分を訊き出す事にした。
「その“渡り人”達って、世界を救った後はどうなったの? 元の世界に帰っていった?」
「ん〜、どうなんだろ? あたしも気になって父さんに訊いたけど、父さんもそこまでは知らなかったみたいだし」
「じゃあ、彼らがどうやって神の国からこの世界に来たのかも?」
「知らないなぁ……。でもまぁ、神様がどうにかして送ってきたんでしょ。おとぎ話なんだから、そんな深く気にしなくて良いと思うわよ」
これは父親の方にも話を訊いてみる必要がありそうだ。
「サーシャのお父さんって、今はどうしてるの?」
「死んだわ、十年前の戦でね」
あまりにもしれっと、まるでなんでもない事のようにサーシャが言い放つ。
反対に、僕が言葉に詰まってしまった。
「あ……その、ごめん」
それでも何とかして謝罪の言葉をたどたどしく吐き出すと、間を空けずに朗らかな笑い声が返ってきた。
「気にしないで、とっくに吹っ切れてるわ。父はマグ・トレドを守って命を落としたんだから。あたしと母さんの誇りよ」
「お父さんは兵士だったの?」
「ううん、ただの平民だった。この宿を始めたのは父さんなの。籠城している内に戦える兵士が少なくなっていってね。成人を迎えた男は全員武器を持つように、ってお触れが来たの。それで父も招集されて、城壁の守りに就いて、敵の矢に当たってあえなく戦死」
「マルヴァスさんから戦いの様子は聴いたけど、やっぱり相当苦しかったみたいだね」
「そうね。あたしはその時まだ五つか六つだったから戦争というのがどういうものかあまり分かっていなかったんだけど、周りの大人達は皆殺気立ちながら動き回ってて、日々の食事も減っていって、城壁の外からは敵の声やら攻撃の音やらが轟いて、とにかく毎日が怖くてお腹を空かせていたってのは覚えているわ」
「一家揃って、街を捨てて逃げようと思ったことは?」
「無いわね。マグ・トレドはあたし達の街よ。あたしも、母さんも父さんも、皆ここで生まれ育った。他所で生きてゆくなんて考えられなかったから、攻め入ってくるヤツがいれば迎え撃つしかないの。当時のあたしにはまだそこまで分別は無かったけど、母さんと父さんはそう考えていた筈よ」
「だから、兵士として戦いにも参加した?」
「うん。出掛ける前の夜にね、父さんは優しくあたしを抱き締めてくれたの。それが、あたしが生きてる父さんを見た、最後の記憶。父さんの死後、宿を継いだ母さんは女手一つであたしを育ててくれた……」
そこで、僕達の会話は途切れる。サーシャはもう一度、おもむろに夜空を見上げた。そこに煌めく星々の中に、彼女の父親の星もあるんだろうか?
「ナオルのご両親は?」
星夜から僕に目を戻し、彼女が尋ねてくる。
僕は、首のペンダントを手でいじりながら答えた。
「僕は……僕も、親を亡くしてるんだ。まだ物心つく前に、母さんをね。それからは、父さんと兄さんの三人家族」
「そうだったの……。あたしと似ているね。でも良いなぁ、兄弟が居るなんて。あたしは一人っ子だったからさ。お兄さんってどんな人?」
「優しい人だったよ。いつも僕を気にかけて、困った時は助けてくれた。勉強も運動も出来るのに、ちっともそれを鼻にかけない。父さんにとっても自慢の息子だった」
「そうなんだ! 勉強が出来るって凄い人なんだね! 今は何処に居るの? どんなお仕事をしているの? 何処かの役人とか、偉い学者さんとか?」
「……分からない。ある日急に、居なくなっちゃんだ。それ以来、父さんもずっとふさぎ込んでてさ。今は僕も近くに居ないから、一人きりなんだ」
「あ……そう、なの……」
なんと言って良いのか分からない、という風にバツの悪い顔をするサーシャ。それから、ほんの少し眉に険しさを込めて僕を見た。
「でもそれじゃあ、ナオルはどうして旅なんかしているの? お父さんがそんな状態なら、傍に居るべきなんじゃないの?」
「僕だって好きでここに居るんじゃないよ。ただ、少し……事情は言えないんだけど、こうして家から遠く離れた場所に来てしまったんだ。だから今、懸命に帰り道を探している。これは、帰るための旅なんだ!」
ちょっとムッとしてしまい、思わず語気が強まる。いじっていたペンダントのチャームを強く握ってサーシャを見返した。
彼女はそんな僕の言葉を静かに受け止めると、眉を緩めて三度天空に散りばめられた星々を見上げた。
「あたしね、この街が好きよ」
星に目を向けたまま、サーシャが言った。僕はただ、その横顔を見つめ続ける。
「良い事も嫌な事も、これまで沢山あったけど、あたしは自分が生まれたこの街が好き。だから、その素晴らしさをナオルやマルヴァスさんのような旅人にも分かって欲しいと思ってる」
「僕達は……三日くらい、ここに滞在する予定だけど」
「じゃあさ。明日、あたしがこの街を案内してあげる! ナオルに見せてあげたい場所が沢山あるの!」
「嬉しいけど、サーシャは宿の仕事があるんじゃないの?」
「大丈夫! どうせ他にお客さんも居ないし、おもてなしだって立派な仕事だよ! 母さんの許しだってもらうから気にしないで!」
「そっか。それじゃあ、お言葉に甘えてお願いしようかな」
「やった! 任せといて!」
苦笑いを浮かべつつ僕が頷くと、サーシャは心の底から嬉しそうに破顔した。
星の光で仄かに照らされたその顔は、薄汚れた衣装にそぐわないくらい、とても綺麗に見えた。
「そっ、そろそろ部屋に戻るよ。明日寝坊しないように早めに寝なきゃね」
さっきとは別の意味で気恥ずかしくなって、いたたまれなくなった僕はペンダントから手を離して踵を返そうとした。
「……ん? あれは……」
ふと、離れの風呂場の方に目を留める。薄暗くてはっきりとは見えないが、背の低い猫背の人間らしき影が、何かを抱えたまま風呂場の扉を開けようとしていた。
「どしたの? ……って、ああ」
僕の視線を追ったサーシャが得心したように言う。
「あれはここで雇っている手伝いの下男よ。風呂釜にくべる薪を補充しているところね。怪しいヤツじゃないから気にしないで」
「そんな人が居たんだ? 今まで見なかったけど」
「彼、恥ずかしがり屋なのよ。人の視線が気になるらしいわ。だから出来れば、そっとしておいてあげると向こうも助かると思うわよ」
「ふ〜ん、そうなんだ。まあ、サーシャがそう言うならわかったよ」
一言挨拶でもと思ったけど、どうやらサーシャはそれを望んでいないらしい。言外に「やめて」と訴えている気がした。
まぁ宿の関係者と言うならそれ程気にする事でも無いだろう。
僕は素直に忠告を聴き入れると、今度こそ寝るために自室へと向かうのだった。