第七十五話
ヨルガンは両手を合わせ、左右の指を組み始めた。何となく漫画で忍者がよくやるような仕草に似ている。
「これは“火”の印。先程と同じ、炎を出現させて撃ち出す魔法印です」
ヨルガンが組んだ手を僕に示す。出来上がった『印』は、人差し指から小指までをそれぞれ約四十五度の角度で網目状に交差させて、手の甲をこちらに向けた形をしていた。なるほど、確かに見ようによっては燃え上がる火を象徴しているように見えなくもない……かも知れない。
「はっ!」
ヨルガンの掛け声と共に組まれた『印』が赤く発光して、先程の魔法陣と同様に炎の塊を発射した。だが、明らかにそれは魔法陣から生まれた炎に比べて一回り小さい。
「――!?」
今度も狙いは正確で、火球は吸い込まれるように別の案山子に当たった。しかしながら、塊が弾けて周囲に火花が飛び散り藁を焼いたものの、先程のように激しく燃え上がるまでには至らなかった。
「……魔法印から生まれる魔法の方が、弱い?」
「如何にも」
ヨルガンが我が意を得たりとばかりに頷く。
「魔法印、もしくは『印契』と呼び表されますが、ご覧の通り魔法陣に比べて容易に魔法を発現させられる手法となっております。その代わり、魔法の威力は魔法陣のそれに及びません」
「要は、魔法陣の簡易版が魔法印……その『印契』なんですか?」
「厳密には違いますが、まあその認識で構いません。これならば、あなたも今すぐに使えるでしょう」
わざわざ術式を描かなければならない魔法陣よりも、手で決まった形を作れば良い印契の方が実際使い勝手が良いのかも知れない。たとえ威力が劣っても、インスタントに急場で使用出来るという利点は大きい。
「……やってみます」
僕はヨルガンに倣って、先程彼が見せたような火の印契を組もうとした。
え〜っと、確か最初は祈るように両手を組んで、それから……
「両手の指がそれぞれ重なるように。左手が下、右手が上です」
隣から訂正してくるヨルガン。
「親指を立てて。伸ばした人差し指の先と高さを合わせなさい」
いちいちうるさいな……と、僕は内心でイライラした。
この男は、こっちの世界に飛ばされてきて初めて心の底から“憎い”と感じた人間だ。《棕櫚の翼》が抗いがたい災害なら、ヨルガンはドロドロした悪意の象徴といったところである。
『相手にも立場がある。出来る限り相手の身になって考えを巡らせてみるんだ』
兄さんの教えも、こいつ相手では守れそうもない。自分勝手に他者の生命や思い出を弄ぶこいつの事なんて、理解したくもない。
今、渋々こいつに従っているのも、いずれ隙を見つけてメルエットさんとコバを連れて逃げ出す為だ。たとえ呪いを掛けられようと、心まで隷属させられはしない。
いつか決着をつける。この男に、自分のしてきた事の報いを必ず受けさせてやる。
「違います、こうです。ほら」
ヨルガンの手が僕の歪んだ結びかけの印に伸びてきた。
「っ!?」
憎悪と苛立ちで思わず彼の顔を睨んだ僕は、そこではっとした。
「そう、こんな感じで左右の人差し指と親指が水平になるように。良いですよ、形になってきました」
僕を指導するヨルガンの顔は。
初めて見る、毒気の抜けた無邪気な表情を浮かべていた。
まるで、純粋に魔法の教授を楽しんでいるかのように。
「…………!」
僕はすぐに顔を背けた。
たった今見たものを、記憶から消し去りたい。
陰謀や政治から離れた人間が見せる、悪意が削ぎ落とされた生の顔。
“人間”の持つ“善性”。
ヨルガンにそれがあるなんて、認めたくない。
「良し、こんなものでしょう。さあ、魔法を撃ってみなさい」
言われて、自分の組んだ手を見る。綺麗に整った火の印契が出来上がっていた。
これで、魔法を…………。
僕は結んだ印契を目の前に掲げる。照準を藁の案山子に合わせて微調整する。
あの案山子を、ヨルガンに見立てて魔法を撃ってやろうか。
「余計な邪念は捨てて、火が燃え上がる情景のみを心に描きなさい」
……ダメらしい。
ヨルガンは僕から距離を取りながら助言を続ける。
「火の粉が舞う様、薪の爆ぜる音、近付けた肌に感じる熱。それらで心を満たし、念じなさい。さすれば、印契はあなたの心に応えます」
火の粉……音……熱…………揺らぐ炎…………。
以前、火の魔法を使おうとして失敗した。サーシャに目撃され、別の意味で顔から火が出そうになったものだ。
あの時はやり方が分かっていなかった。だが、今度こそ……!
「……っ!」
集中を高め、一心不乱に念じる。『火よ、生まれろ』と。
するとどうだろう。ヨルガンの時と同じように、僕の手が赤く光り始めたではないか。
「(……成功した!?)」
思わず、心の中でガッツポーズをかまそうとした時…………
「――――!!?」
凄まじい衝撃が、正面から僕を襲った。
「うわあああああッッ!!?」
叫び声を上げながら後ろにぶっ飛ぶ。何が起きたのか分からず、受け身を取る事も出来ず、そのまま背中から地面に叩きつけられた。
「ぐっ……!? はっ……!? あ、うぐぐぐぐ…………!」
猛烈な痛みが背中から全身に伝わる。左肩の傷が開いたんじゃないかと思われるくらいに激しく疼いて、目には涙まで滲み出した。
自分で言うのもなんだけど、僕の身体もうボロボロなんじゃなかろうか?
「し、失敗した…………!?」
痛みに耐えながら、どうにか震える上体を起こしてうっすらと片目を開ける。
「え…………?」
ところが、そこに広がっていたのは思い切り予想を覆す光景。
「……素晴らしい。印契でこれ程の威力を叩き出すとは。やはり私の目に狂いは無い。“渡り人”の力は、本物です!」
興奮したヨルガンが、取り払っていた悪意のオーラを再び全身に纏って哄笑を上げる。
僕の放った魔法。目の前の状況がこれ以上無くその結果を表していた。
僕の立っていた地点から中庭の城壁にまで伸びる、重厚な炎の道。
途中に存在する物全てを飲み込み、激しく燃え盛って夜の闇を払う火の川。
竜が吐いた炎の再現かと見紛うばかりの景色が、そこには存在していた――――。
ようやく意図して魔法を使えるようになったナオルくん。
しかし戦力として活躍出来るようになるには、まだまだ課題は多そうです。




