第七十四話
「足が遅いですよ。早く来なさい」
前を行くヨルガンが無情に僕を促す。
「分かって、ます…………」
僕は、まだ残る痺れと怪我の痛みに耐えながら、気力を振り絞って一生懸命足を前に動かした。
せめてもの抵抗に、顔を上げて憎悪を込めた視線を送ってやる。
「そう睨まないで下さいよ、これから長い付き合いになるんですから」
勿論、まるで効いている様子もなく、ヨルガンは余裕綽々と言った笑みを返してくるだけだ。
「(許さない……! 今に見ていろ……!)」
果てしない屈辱感と敗北感を噛み締めながら、僕は一層強くペンダントを握りしめた。そこに仕掛けられていた呪いの魔法陣は、既に消えている。
僕に呪縛を施すという効力を発揮して、本来の目的を果たしたのだから当然だ。
呪いの存在をちらつかせる事で最初にこちらに恐怖を与え、一旦は撤回して安堵させた直後、騙し討ちにする形で結局は楔を打ち込む。
何処までも悪意に満ちた、唾棄すべきやり方だ。しかも、人の思い出の品を餌にして。
僕自身のみならず、写真の中の兄さんと姉さんさえも利用されて穢されたのだ。
悲しくて、悔しくて、涙が出そうになる。それでも、泣くのは頑張って堪えた。
今、一番大切な事は何か、見失ってはならない。
「安心なさい。私に攻撃を仕掛けない限り、あなたに施した『呪印』は発動しません。何せ今後のあなたは、当方にとって貴重な戦力になるのですからね。あまり制限を設けて“渡り人”の能力を削いでも益が無い」
「……あなたに逆らえなくなったのには変わりがありません。おめでとうございます、今夜からはさぞや枕を高くして寝られるでしょうね」
「ええ、弟子に寝首を掻かれるような無様を晒すのは、なんとしても避けたいところですからねぇ」
精一杯の皮肉も難なく流される。完全に僕に対して優位に立ったからか、節々に現れる驕慢の色を最早隠そうともしていない。
その油断に付け入る隙はきっとある。焦らず、チャンスを待つんだ。
「……僕を何処に連れて行くつもりですか?」
「中庭です、師弟の契りも無事交わした事ですし、早速魔法のなんたるかを叩き込んで差し上げましょう」
「……随分、スパルタなんですね」
見るからにボロボロになっている弟子に容赦なく修行をさせようとか、この人鬼か。
……いや、鬼だな。間違いない。これまでの行いで一目瞭然だ。
「見所のある者程、可愛がりたくなる性分でしてねぇ。ましてや“渡り人”を鍛えるなんて初めての経験なものですから。私も少なからず気分が高揚しているのですよ」
ぺろり、と舌舐めずりする。余りにも気色悪くて背筋に寒気が走った。
嫌悪感が強すぎて吐き気までこみ上げるが、我慢するしか無い。ポジティブな方向に考えれば、魔法を使いこなせるようになるチャンスかも知れないんだ。
僕は、軋む身体に鞭打って歩き続けた。
流石に砦だけあって、中庭は練兵場という趣を呈していた。
藁と木で造った案山子や弓矢の射的等が規則正しく置かれていて、いかにも物々しい。何れもかなり使い込まれているらしく、案山子のあちこちに刀剣を叩きつけた跡が刻み込まれていたり、的の何個かには折れた矢が突き立ったままに残されていたりしていた。
「さて、それじゃあ始めますか」
星々の光をバックに、ヨルガンが僕に向けて鷹揚に両手を広げる。今夜も雲は無く、晴れた夜だ。
「ナオル殿、あなたは魔法というものについて、どれ程理解なさっていますか?」
「……正直に言えば、全然です。一体どういったものなのかさっぱり分かりません」
「メルエット殿らと崖から落ちた時はどうやって助かったのです? あの時に魔法を行使した筈でしょう?」
僕は少し迷ったが、これも正直に告げる事にした。
「確かに、あの時メルエットさんとコバを助けたいと強く願ったら、両手に魔法陣のようなものが現れました。それで、二人の身体を薄黄色の光の膜のようなものが包んで……。でも、そこで気絶してしまったのでそれ以上は分かりません」
「ほう……」
ヨルガンの目が光った。
「その魔法陣はあなたが描いたので?」
「いえ、なんか気付いたら掌の前に浮き出てきたっていうか……」
「ふむ……」
腕を組み、顎に手を当てながら興味深げに僕を見る。
「魔法陣の術式も描かず、“魔法印”も組まずに魔法を顕現させたか……。面白い、これが“渡り人”というものか。《始祖竜》様の加護をその身に宿すという話も、あながち的外れでは無いのかも知れんな……」
「《始祖竜》の加護?」
独り言のように呟くヨルガンの言葉にふと気を引かれるものがあり、僕は思わず尋ねた。
「今はもう失われて久しい、《竜始教》の原典にある古い言い伝えです。魔法というものは、この世に森羅万象を創り出した《始祖竜》様が振るわれた神秘の力の名残り。“渡り人”は、他の生物よりもそれに感応する性質が強く、故に強大な魔力を有し尋常にあらざる魔法を操る事が可能。これすなわち《始祖竜》様の祝福、かの竜神による加護である……とね」
「マグ・トレドで《竜始教》の司祭さんと会いましたしけど、そんな話は一言も出ませんでした」
「そうでしょうね。今でも市井を説いて回っている《竜始教》の聖職者の殆どは、そのように牙を抜かれた軟弱者です。先達どもが時代に合わせて教義を改変してきた結果、有意義で大切な教えまで捨ててきてしまった。そもそもが、天下に広く根を張っておきながら権威を築こうともせず、権力にも近付こうとしなかったのが言語道断の失敗……と、話が脱線しましたね」
ヨルガンはひとつ咳払いをすると、魔法についての説明を始めた。
「今申し上げたように、魔法とは元々《始祖竜》様のお力です。我々のような人間がその力の一端に触れるには、ある手順を踏まなければなりません」
「で、その手順って?」
「我々のような人間にとって最も馴染みやすいのは二つ。『魔法陣を描く』か『魔法印を組むか』、です」
「魔法陣? 魔法印?」
僕は訊き返した。魔法陣はともかく、魔法印というのは元の世界でも聴いた事が無い。
「魔法陣とは、その名の通り魔力を込めた印章です。これを描き出す事によって魔力を介し、現実の事象に干渉します。見てなさい」
そう言って、ヨルガンはおもむろに手を持ち上げると、目の前の空間に人差し指で紋様を描き始めた。指の動きに合わせて空中に光の線が現れ、その軌道をなぞってゆく。たちまちの内に幾何学模様が形成され、赤い色を帯び始める。
そして、そこから人の頭程の大きさの火の玉が現れたかと思うと、ヨルガンの眼前に立つ案山子目掛けてそれが発射された。
「わっ!?」
思わずのけぞる。火球は寸分違わず案山子に命中した。瞬間、案山子は大きな音を立てて炎上し、火柱が周囲を明るく照らした。
「凄い…………!」
今この時だけは憎悪も忘れて感嘆の声を上げる。これまで目にしてきた魔法が尽くえげつないものであっただけに、このような『正統派!』という感じがする魔法を見られた事に感動すら覚えていた。
「魔法陣は魔力と外界の、いわば仲介役です。描く魔法陣の形によって使える魔法も変わり、威力も変動します。術式が複雑であればあるほど、大きさが巨大になればなるほど、それに比例して行使出来る魔法も強力になると考えていいでしょう」
「わざわざ、自分で一から描かないといけないんですか?」
「その通り。故に術式を覚え、それを描けるようになるまでの修練が必須となります。如何に才能のある者でも、術式を知らなければ魔法も使えません。最も、あなたのような“渡り人”はその限りでは無いかも知れませんが」
ヨルガンが梟のような目を細めて僕をじっと見つめる。確かに、僕は魔法陣の詳しい紋様なんて知らないし、実際に描いた事も無い。崖から落ちた際だって、僕は自力であの魔法陣を描いた訳じゃない。メルエットさんとコバを救いたいと強く願ったら、あれが出現しただけだ。
「魔法陣っていうのは、今みたいに必ず指で描かないとダメなんですか?」
「いえいえ、必ずしも指を介する必要はありません。ペンを使って紙等に描き出しても、そこに魔力を込める事は可能です。ただし、一度魔法が発動すればその魔法陣は力を失い、二度と使えなくなりますがね」
「どの魔法陣も一回限りしか使えないんですか?」
「左様。魔法の種類によってはその場で即発動せず、任意の機会を捉えて行使する事も可能です。あなたのペンダントに仕込んだ『呪印』のように、相手が触れた時に初めて効力を発揮するものもありますしね」
「……………………」
ヨルガンの顔にニヤニヤ笑いが復活する。同時に、僕の胸のむかつきも。
腹立ちが収まらないので皮肉を浴びせてやる。
「もっと呪文を唱えたりとか、そういう風に使うものだと思ってましたよ、魔法って。わざわざ毎回自力で魔法陣を描かないといけないなんて不便ですね」
「そういうやり方もあります。エルフの間ではむしろそっちが主流のようですね。《始祖竜》様の神秘に触れる方法はひとつでは無いのです。ただし種族単位でそれぞれ適正があるようで、我々人間にとっては最も魔法の力を引き出せる媒介が魔法陣であるのですよ。……おお、そうそう、そう言えばもうひとつ預かり物があったのでした。これもあなたにお返ししますよ」
ヨルガンは懐に手を差し込んで、そこから一本の短剣を取り出した。
「あっ!?」
僕は思わず声を上げる。鞘に収まったそれは、取り上げられたままの《ウィリィロン》だった。
「受け取りなさい」
ヨルガンはそれを無造作に僕に放り投げる。
「……っ!」
反射的にキャッチしようとして、思い留まる。ペンダントの罠で呪いを掛けられたのはさっきもさっきだ。
逃げるように後ろに下がった僕の足元に《ウィリィロン》が落ちた。ガシャン! という落下音が、心なしか悲しげに聴こえた。
「酷いですねぇ〜、生死を預けた自分の得物をそのように扱うとは」
追い打ちをかけるかのようにヨルガンのくぐもった笑いが飛ぶ。
「そんなに恐れずとも、これ以上あなたの『呪印』を増やす気はありませんよ。言ったでしょう? あなたが戦力にならなくなったら困る、と」
「…………………」
僕は警戒を解かずに、恐る恐る《ウィリィロン》を拾い上げる。ヨルガンの言う通り、今度は何も起こらなかった。
「その剣、ドワーフが鍛えたものですね。“包呪剣”として知られた、中に魔力を内包する魔法剣。永続的に効力を発揮する魔法など、彼らだからこそ造れたのでしょう。仮に私が魔法陣を施そうとしても打ち消されるのが関の山です。それくらい、その短剣は優れた武器。今の臆病なあなたには勿体ない代物かも知れませんねぇ」
「……それで、人間が魔法を使うのに適した、もうひとつの方法って言うのは?」
感情を押し殺して、話の続きを促す。
「『魔法印』、ですね。こっちはより簡単ですよ」
そう言って、ヨルガンは今度は両手を組んで何やら始めた。