第七十三話
ヨルガンへの弟子入り、引いては彼らへの協力を表明した後、僕はヨルガンに伴われて彼の部屋へと連れて行かれた。
すぐにメルエットさんとコバのところへ戻るつもりだった僕は内心で舌打ちをしたが、文句を口に出す事はせず素直に従った。取り敢えず策の第一歩は踏み出したんだ。このままヨルガンの観察に努めるのも悪くない。
ヨルガンの部屋は、砦内の汚い様相からは想像も出来ないほど綺麗に整えられていた。奥のベッドも、中央のテーブルも、床の敷物も、ついでに端の本棚も、全てがひと目で高級品だと分かる。部屋を囲むボロボロの壁と比べて何ともアンバランスで、ちぐはぐな印象を受けた。
奇異の目で部屋を見回す僕に構わず、ヨルガンはテーブルに置かれていたボトルとグラスを手に取る。ボトルを傾けて中の赤みがかった飲料をグラス一杯に注ぐと、一息にそれを飲み干して、僕を方を振り向いた。
「あなたも飲みますか? ソラス王国から取り寄せた赤ワインです」
僕は一考もせずに首を振る。
「結構です。僕、お酒は飲めませんから」
「それは勿体ない。ソラスのワインは質が良いと昔から評判ですのに。おまけに今は内乱の所為で生産量も落ちてますから、これ一本だけでも極めて貴重なのですよ」
クックック、とあの嫌らしい笑みを復活させて、ヨルガンはボトルを下げた。
僕はぐっ、と肚に力を込めて尋ねた。
「それでヨルガンさん、どうして僕を此処に連れて来たんですか? まさかお酒を振る舞うためだけじゃないでしょう? それとも、そんなに暇なんですか?」
「まぁまぁ、そう急く事もありますまい」
試しに煽ってみたものの、ヨルガンはあっさりそれを受け流した。
流石に、何度もこんな安い挑発には乗ってくれないかな……?
「あなたは私の弟子になったんです。弟子と語らいの場を設けて、何も不都合は無いでしょう?」
「それなら早く魔法のひとつでも教えてほしいものですね。僕だって暇じゃないので」
「そうでしょうねぇ。あなたには、メルエット殿とあのコバというゴブリンを監督する役目が新たに与えられましたものねぇ。それも、あのオークの大将から」
ヨルガンの口調に皮肉が交じる。顔には苦笑いが広がっていった。
「此処の指揮権は彼が持っているのでしょう? なら彼の命令は、あなたの求めより優先される。間違っていませんよね?」
そこをすかさず突いてみる。
だが、ヨルガンはそこでふっと口元を緩めた。
「どうもあなたは私に対して誤解があるようです。もう少し打ち解けませんか、ナオル殿?」
「誤解なんて、何もありません。僕はただ、あなたから魔法を教わるだけです。その見返りに“渡り人”の力が欲しいと言うなら、黙って協力しましょう」
「魔法を使いこなせるようになって、どうなさいます? 《棕櫚の翼》を討ちますか?」
「……後の事は追々考えますよ。それより、あなたこそ“渡り人”の力をどう利用するおつもりなんですか?」
「無論、この国の為に使わせて頂く」
ヨルガンの顔が引き締まった。
「このダナン王国は、間違った道に突き進もうとしています。我が主は深くそれを憂慮なさっておられる。それで正道を正さんと密かに働きかけておられるのですよ」
「……盗賊やオークと手を組んで、ですか?」
「ええ。使えるものは何でも使わなければ。手段を問うていられる場合ではありません。“ヒメル山の戦い”、そしてマグ・トレド襲撃。竜の怒りは、やがてこの世界全土に波及するでしょう。私には、それを止める義務がありますので」
「だとしても、随分と形振り構わないんですね。余程重大な計画があるみたいだ」
「ご明察。そうです、風雲の大計ですよ」
ヨルガンが空になったグラスに再びワインを注ぐ。それを目先に掲げ、ゆらゆらと揺らしながら恍惚とした表情で眺める。
「長く寝かせたワインが抜群の風味を醸し出すように、計画というものも雌伏の時が長ければ長い程、達成した際の喜びと効果が増すのです」
「…………」
用意周到に何年も準備を進めてきたと、そう言っているのだろう。
僕は、思い切って訊いてみた。
「それで、あなたの計画っていうのは?」
酔いの回った目を据えて、ヨルガンは僕を見た。
「教えてもよろしいが、その前にやって頂く事があります」
「……何ですか?」
ヨルガンはベッド脇の小棚から一枚の紙と羽ペンを取り出すと、それを僕に突き付けてきた。
「これは?」
「契約書です。決して裏切らないという、その証を立てて頂きます」
僕はその契約書をまじまじと見た。
仰々しく小難しい文体で主文が綴られた後に色々と小難しい条項が箇条書きになっている、日本でも良く見るような形式の書面だった。ただ一つ違うのは、下の欄に大きな魔法陣が描かれている点である。
「これは所謂“魔導スクロール”と呼ばれる物でしてね。サインした者に条文通りの魔力の枷を嵌める代物です」
「魔力の、枷!?」
つまりこれにサインしたら、僕は……!?
「私への裏切り、より正確に言うなら“私に対し攻撃を加える等の暴力行為に出た時”、このスクロールに込められた魔法が発動し、あなたの生命を奪います」
「……まるで奴隷契約書ですね。僕に、これにサインしろと?」
唇が引き攣りそうになるのを堪えて、精一杯の強がりで笑みを浮かべる。
対して、ヨルガンの顔に浮いた笑いは余裕に富んでいた。
「別に嫌なら書かなくても構いませんよ。私も無理強いは好みませんから」
どの口がそれを言うのか。
「しかしその場合、あなたの扱いは元に戻ります。弟子の話も、メルエット殿らの処遇の話も白紙です。当然でしょう? 戦で得た降人を用いるには、それ相応の保険をかけて然るべきですから。なんなら、これもレブに伺いを立てますか? 恐らく、彼もこの件に関しては私に賛同すると思いますがね」
最早ヨルガンの顔は、勝ちを確信したそれだ。
僕は、肚を括った。
「……分かりました、羽ペンを貸して下さい」
ためらいを捨てて、手を差し出す。元々、こっちの立場は圧倒的に不利なのだ。この上にひとつふたつ制約が設けられても大して違いは無い。
「ほう? 本当に署名する気ですか?」
「ええ、書きますよ。それで信用を得られるというならね。ヨルガンさん、あなたの懸念は正しいです。僕の態度を見てもお分かりでしょう? 正直言って僕は、理不尽に襲撃してきて、力づくで従わせようとするあなた達に対して怒っています。心の底からあなた達に屈した訳ではありません」
「そうでしょうとも。むしろ、はっきりそう言って頂けるだけ好感触ですよ。下手に諂いを見せて来た方がむしろ私は軽蔑しますし、決して警戒は解かなかったでしょう」
「しかしそれでも、僕はあなた達に協力すると言ったんです。自分の言葉の責任くらい、取りますよ」
「良い心がけです。それでこそ我が弟子に相応しい」
ヨルガンは羽ペンにインクを浸すと、スクロールと一緒に僕に差し向けた。
僕は、黙ってそれを受け取る。
深く息を吸って、中央のテーブルにスクロールを置き、羽ペンを近づける。
「………………」
手が震える。呼吸は乱れ、汗が浮く。
スクロールに描かれた魔法陣。これは、あの盗賊の首領が死ぬ間際に、彼の身体に浮かんだものと同じだ。つまり、彼もこれにサインした。それで制約に抵触し、スクロールの呪いが発動して、殺されたんだ。
ゴクリ、と生唾を飲み込む。脳裏に、身体の内側から血の杭で突き破られて死んでゆく自分の姿が映し出される。
下手をすれば、僕も彼の二の舞になるんだ。嫌だ。死ぬのは嫌だ。
「(……頑張れ、僕! メルエットさんとコバを助けるんだろ!)」
臆病風に吹かれそうになる自分を必死に鞭打って、僕は羽ペンを動かしてゆく。
もう少しで、ペン先がスクロールの署名欄に触れようとした時だ。
「…………え?」
不意に、ヨルガンが敷いてあったスクロールを抜き取った。
「やはり、やめておきましょう。レブの言った通り、あなたは私の弟子になったのです。弟子を呪いで縛る事は無い」
毒気の抜けた表情で、ヨルガンはスクロールを巻くとそれを僕から遠ざけた。
「…………」
彼の豹変ぶりに戸惑って、僕が何も言えないでいると、ヨルガンは今度は胸ポケットから何かを取り出す。
「そう言えば、これはあなたの物でしたよね? 試したお詫びと言ってはなんですが、お返ししますよ」
「あっ……!!?」
ペンダントだ! ヨルガンが持っていたのか!
「か、返して下さいっ!!」
僕は引ったくるように、ヨルガンの手からペンダントをもぎ取った。
……後から思い直して見れば、この時は本気で軽率だった。
大切なペンダントを目の前に出されて、他の事は考えられなくなった。
飢えた餓鬼のように、ペンダントに飛び付いた。
それこそが、悪意に満ちたヨルガンの罠だと気付きもせずに。
「…………っ!?」
ペンダントのロケット部分が赤い光を放つ。次の瞬間、その光はチェーンを伝って僕の手へと伝播する。
「うわっ!?」
慌ててペンダントを離すが、もう遅い。
赤い光は、僕の手から腕へ、蛇が高速で巻き付いてくるかのように素早く上ってくる。
瞬く間に肩に達し、そして――
胸へと至る。
「あっ!!? ぐっ!!? ガァァァ!!!」
強烈な苦痛が全身を駆け巡る。胸の赤い光は、その禍々しい輝きを更に増して形を変えてゆく。
「はっ!! はっ!! ううっ!!? わぁぁぁ!!!」
両腕で胸を掻き抱くように蹲る。形状の変化した赤い光。その形はまさしく、あのスクロールに描かれた魔法陣――!
最後に、一際強い光を放ち、魔法陣が消える。同時に、痛みも嘘のように治まった。
「はあっ!! はあっ! はあ……! はぁ……! はぁ…………!」
荒い呼吸がだんだんと落ち着いてくる。すると、考える余裕もまた戻ってきた。
今のは、間違いないなく…………。
「…………っ!!」
僕は顔を上げ、ヨルガンをきつく睨む。
「これで、契約成立です。この先、末永く共に在りましょう、我が弟子――」
そう言って心の底から愉快そうに嗤うヨルガンは、悪魔以外の何者にも見えなかった。