第六十九話
どくん、と心臓が大きく跳ねた。ヨルガンの梟のような目が、全てを見透かすかのように光った。
違う、と言おうとして唇を開いたけど、そこからはか細い息が漏れるだけで言葉は出てこない。
恐怖を覚えて後ろに下がろうとしても、僕の足は床に縫い付けられたかのように動かない。まるであの目に魅入られてしまったかのようだ。蛇に睨まれた蛙とはこういう状態を言うのだろうか。
ヨルガンのやせ細った手が僕の胸に伸びる。そのまま心臓を鷲掴みにされそうな錯覚。
なすすべなく身を固くしていると、ヨルガンの手は僕の身体には触れず、その直前で止まって僕の顔を指差した。
「あなた、覚えていませんか? 過日の夜、モントリオーネ様のお館の庭での出来事を」
「えっ……? モントリオーネ卿の…………あっ!?」
記憶の糸を手繰って、はたと思い当たった。
「紫の、靄……!」
マルヴァスさんに剣の稽古を付けてもらっている最中での事だ。
異様な気配を感じてその先を辿ると、闇をたたえた廊下の奥に紫色の靄が漂っていたのが見えた。
ただそれだけの出来事だったのだが、僕だけでなくマルヴァスさんも不穏な気を感じ取っていたし、不可解で不気味な現象であった事に変わりはない。
それでも、実害を被った訳ではないと半ば無理矢理自分を安心させ、今日まで記憶の彼方に押しやっていたんだ。
だが、それがこうしてヨルガンの口から語られるという事は…………
「……あの靄は、あなたの仕業だったんですか?」
恐る恐る僕が問うと、ヨルガンは「くっくっく」と喉で笑った。それが答えだ。
「やはり見えていたんですねぇ? そうです、あの靄は私が魔力を使って作り出したものですよ。ちょっとした実験の為にね」
「実験……?」
「あの靄は、体内に魔力を保有する者にしか見えないんですよ。あのマルヴァスという青年は気配こそ感じても、靄は見えなかったようですね。ですが、あなたは違う」
「…………」
「“渡り人”は皆、魔法の扱いに長ける。見た目は殆ど変わらなくとも、我々のようなこの世界の人間とは根本的に異なる生き物なんでしょうねぇ。そしてあなたも、魔力を有し魔法を使う才能がある」
「………………」
「最初にあなたを見た時、よもやと思いました。ですから私は、あなたが“そう”であるかどうか確認しようと思ったのです。まず第一の試験はクリア。で、次はあの盗賊達です」
「……やっぱり、彼らを操っていたのはあなたなんですね? まさか、僕が“渡り人”かどうかを確かめる為だけにあんな襲撃を……?」
「いえいえ、第一の目的は先程あなたが仰った通り、メルエット嬢の王都行きの阻止ですよ。あなたに興味を持っているのはあくまで私であって、主ではございませんから」
「…………」
この人、モントリオーネ卿とは別の意図を持って動いているのか?
「ですが、流石は武威に優れたマグ・トレドの兵士達。盗賊程度ではまるで相手になりませんでしたね。まぁ、オーク達の準備が整うまで、あなた方一行をあの地形に足止めするくらいの時間稼ぎにはなりましたが」
「もしかして、盗賊の首領にあんな魔法を掛けていたのも……」
「ええ、私ですよ。モントリオーネ様の懐刀、カリガ随一の魔道士でございますゆえ。必要な時に必要な殺生が出来なければ話になりません」
盗賊の首領を内側から食い破ったあの血の槍。それをやったのもこの人か。
他者を自分の都合の良いように利用して、用済みになったら容赦なく始末する。
改めて、恐ろしい人物だと僕は思った。
ヨルガンは髪を掻き上げる仕草をすると、人を見下すような嫌らしい笑みを浮かべて舐め回すように僕を見た。
「私はね、何もあなたが魔法の力を存分に発揮して、盗賊やオークを華麗に蹴散らす光景が見られるとは期待していなかったのですよ。いくら才能があるとは言え、今のあなたは磨かれる前の原石に等しい。ですが生死の境に追い込めば、僅かながらでも能力の開花に繋がるだろうと思っていました。結果的に、中々面白い寸劇を見せていただきましたよ。メルエット嬢を護って戦うあなたの姿は、泥臭くも美しいものでした。特にあの、オーク兵の腕を斬り飛ばした瞬間など、私の血も沸き立つ思いでしたね」
「………………」
一応は同盟者だろうに、オークの首領を前にしてよくも言えたものである。
ちらりと目を盗むようにしてレブの様子を窺うと、彼は眉一つ動かさずに腕を組んで僕達の会話を眺めている。ヨルガンの言葉に腹を立てているようには見えない。
「盗賊とオークでは格が違うと言いますか、いかに精強を誇るマグ・トレド兵でも、逃げ場のない地形でしかも多勢に無勢とくれば万事休す。私も『こんなものか』と思い、戦場を後にしようとしていました。……ええ、私は当初、あなたもメルエット嬢も生かしておくつもりは無かったのですよ。だってそうでしょう? あれくらいの窮地も切り抜けられないなら、“渡り人”の価値も所詮そこまで。竜の襲撃から生き延びたとしても、結局は運が良かっただけという役立たずでしかないのですから。現にあなたは、あの土壇場でも魔法を使えなかった」
ヨルガンの語調に勢いが増す。興奮を抑えきれないというように僕の周りをぐるぐると歩き回り、鼻息荒く指を突き立てる。
「ですが、予想外の事態が起こった」
「…………ワームの、出現ですか?」
精一杯の虚勢を張ってそう答える。
ヨルガンの顔が益々邪悪に、そして嬉しそうに歪んだ。
「あのワームはね、元々はネルニアーク鉱山から産出される胆礬を狙ってこの地に現れたのですよ。あなたも坑道内を彷徨ってる間に目にしたのではないですか? 壁や天井のあちこちから覗く、青白く光る石を」
「……確かに、ありました」
確かに見た。ワームと鉱夫達が戦ったと思しきあのドーム状の空間で、夜空に瞬く星々みたいに散りばめられていた青白い光を。
「それが胆礬です。ワームはあれを喰らい、体内で溶かし蓄える事で溶解液を吐く事が出来るのです。ネルニアーク鉱山は銅の宝庫。自然、胆礬も豊富に含まれます。ワームにとってはまさに楽園だったでしょう。奴にはわざわざ地表に出る理由は無かった。棲家を侵す侵入者相手ならまだしも、山道の上で繰り広げられているあなた方とオークの戦いに乱入する必要性など皆無だったんですよ」
「じゃあ、なぜ…………」
と、言いかけた僕を抑え込むように、ヨルガンの顔が間近に迫ってきた。
梟のような目が、勝ち誇るように細められる。
「あなたです。あなたが、あのワームを呼んだからですよ、ナオル殿――――」




