第六十五話
しばらくは、誰一人動く事も出来なかった。
僕も、コバも、メルエットさんも、先程まで吊橋があった場所を呆然と眺めていた。
すっかりがらんどうとなったその空間は、直前までワームが暴れていた事など嘘であるかのように静寂を取り戻していた。闇を揺蕩えた奈落の口が存在そのものを抹消してしまったかのように、そこに飲み込まれたワームの声も息遣いも、もう聴こえてこない。
「や……やっつけたの……?」
やがてメルエットさんが、吊橋の残骸を見ながら絞り出すように言った。
コバがその声に応えるように崖の方へ慎重に近づき、恐る恐る下の方を覗き込む。
「大分、深いようでございますですね。此処から落ちれば、さしものワームと言えど一溜りも無いでしょう」
その言葉を聴き、僕もメルエットさんも大きく息を吐いた。
「た、助かった……!」
「ええ、そうね。一時はどうなるかと…………」
どちらともなく、お互い顔を見合わせる。そして、ふと気付いた。
目と鼻の先にある彼女の顔。強気な目が、そこに添えられた細いまつ毛が、すっきりした鼻梁が、形の良い唇が、この薄暗い中でもくっきりと見えた。
僕達は、抱き合うような形で地面に座り込んでいたのだ。
現実感を取り戻した僕達は、慌てて身を離した。メルエットさんは僕からさっと顔を逸し、恥じらうように衣服の前を合わせている。
「ご、ごめんなさい……!」
「いや、僕こそ、ごめん……!」
一体何に謝ってるのかも分からないまま、二人して詫びの言葉を口にする。
僕も彼女の方を見られなくなり、地面へと目を落とす。顔も身体も熱い。
「ははは、取り敢えず急場は凌いだね……うっ!?」
一安心して気が抜けたからだろうか、意識から外れていた左肩の傷の痛みが再び染み透るように戻ってきた。
「ナオル様!? 大丈夫でございますですか!?」
「……!? 痛むの?」
目聡く気付いたコバとメルエットさんが心配してくれる。僕は二人に心配掛けまいと笑みで取り繕った。
「ああ、少しだけね。あんなに激しく動けば仕方無いよ。しばらく時間が経てば治まるさ、はは……」
「それならよろしゅうございますが……」
コバは心配そうにしながらも取り敢えず納得してくれたようだ。
しかし、メルエットさんはそうじゃなかった。
怖い顔をしながら僕に歩み寄ってくると、
「見せて」
「え?」
「え? じゃないわよ。傷を見せてって言ってるの」
「そんな……良いよ。平気だって」
「ダメ! 見せなさい!」
有無を言わさず、メルエットさんは強引に僕の上衣をめくろうとする。
「ちょ、ちょっと!? 折角処置してもらったのに、布を剥がしちゃ意味無くなるじゃんか!?」
「また巻いてあげるわよ! つべこべ言わずに見せないってば!」
さっきまでの恥じらいは何処へやら。絶対に逃さないと言わんばかりに、メルエットさんは僕の左右を両脚で跨ぎ、覆い被さるようにシャツに手をかける。
僕は半ば観念し、せめてペンダントが邪魔にならないようにと、彼女の手が伸びてくる前に首から外して手に握り込んだ。
メルエットさんはまるで興味が無いようで、ペンダントには目もくれずに左肩の布に手を掛ける。
そして、予想に反して慎重な手付きでそれを外す。
「……っ!?」
はっ、と息を呑んだ顔。僕の不安を掻き立てるには十分だった。
「ど、どうしたの……!?」
「ひどい……!」
「酷い!? 酷いって何が!?」
訊かずとも明白だったが、そう口にせずにはいられなかった。
「だ、大丈夫よナオル殿! 私が――」
そこまで言って、メルエットさんが再びはっとした顔で目を上げる。
同時に、僕も背後に立つ気配を感じた。
それが誰かを確かめるより先に、背後の暗がりから太い脚が突き出される。
「がっ――!?」
メルエットさんはそいつの蹴りをまともに浴びて、たまらず後ろに突き飛ばされ地面へと突っ伏す。
「メルエットさんっ!?」
倒れた彼女に駆け寄ろうとしたが、それより先に胸ぐらを掴まれる。
「ぐっ……!?」
そのまま、力任せに上へと引っ張り上げられ、僕の身体はつま先立ちになり、更には宙に浮いた。
苦痛のあまり、思わずペンダントを手放してしまう。
「っ……!?」
足元に落ちたそれを取ろうと手を伸ばすが、届く筈も無い。
僕は苛立ちに任せて相手の手首を掴んで引き剥がそうとしたけど、びくともしなかった。
それも当然だ。
メルエットさんを蹴飛ばし、僕を捕まえた相手。そいつは、人間では無かったのだから。
有に二メートルは超える体躯、丸太のように太い腕、緑色の肌、白く濁った目、下顎から突き出た牙。
「オ、オーク……!? どうして……!?」
見渡してみると、奥の暗闇ではいくつもの白い点が鈍い光を放っている。何体ものオークが、いつの間にか僕達に迫ってきていたのだ。
「ナオル様を離しなされ!!」
コバが、健気にも僕を捕まえているオークの足に組み付く。しかし、やはりゴブリンが力で敵う相手では無かった。
オークはせせら笑いつつ、足を持ち上げた。ただそれだけで、コバの身体は木の葉のように振り払われる。
メルエットさんと同様に地面に叩きつけられたコバが「ううっ……!」と苦悶の声を漏らす。
「やぁやぁ、やっと見つけましたよ」
粘つくような声と共に、誰かが暗闇から顔を覗かせた。
「あなたは……!」
その姿には見覚えがあった。灰色の縮れた髪、青白く痩せこけた頬、そして梟のような目。
この人は、モントリオーネ卿の側近の……!
「“オルガン”、さん……!」
「“ヨルガン”です」
短く訂正すると同時に、彼の手が僕の腹に触れる。
そして――
「がはっ!!?」
ズン! と、いう衝撃が叩き付けられ、僕の意識は一気に闇へと落ちた――――。




