第六十話
メルエットさんはずんずんと木々をかき分け、森の奥へと進んでいく。
僕とコバは彼女を見失うまいと必死に後を追った。
しかし分からない。スファンキルを見た途端、彼女の目の色が変わった。一体、あの虫がどうしたというのだろう?一刻も早く山麓まで辿り着かないといけないのに、こんな寄り道をしている場合なのだろうか?
「……っ!?」
不意に、前を行くメルエットさんが足を止めた。
僕達はほっと息を吐いて、足を緩めて彼女に歩み寄る。
「もう、メルエットさん。急に走り出しからびっくりしたじゃんか。せめて理由……を……」
抗議の文句が途中から尻すぼみになる。眼前に広がった光景に、思わず目を奪われた。
「わぁ……!」
そこは開けた場所になっていた。中央に綺麗な泉があり、その上を何匹ものスファンキルが飛び交っている。彼らが舞う度に青白い光が中空に尾を描き、煌めく粒子を周囲に振り撒いき、それが澄んだ水面に反射して見事な万華鏡を形作っていた。
美しい光景だった。日中でさえこれなのだから、もし夜にこれを目にする事が出来たら、どれだけ幻想的で情緒溢れる眺めになっただろうか。
「やった! 思った通り!」
メルエットさんがガッツポーズをするみたいに、両手の拳を胸の前で握り合わせた。
「スファンキルが居るなら水場も……って見込んでたけど、まさか本当に見つかるなんてね!」
「なるほど、だからか」
メルエットさんの横顔に浮かんだ快心の笑みを見ながら納得する。
「でも、それならそうと言ってくくれば良いのに……」
「悪かったわよ。スファンキルを見失ったら元も子もないから私も焦っちゃったのかも。けど、その甲斐はあったでしょ?」
得意気な顔を崩さずにメルエットさんが詫びの言葉を口にする。
全然悪びれているようには見えないが、彼女の言う事にも一理ある。水が尽きかけている時にこの発見は僥倖だ。
ただ、問題がひとつ残っている。
「この水、飲んでも大丈夫かな……?」
鉱山がある山に湧いている泉である。もちろん、この周辺は森だけど、それでも中に人体によろしくない成分が混じっている可能性は払拭出来ないのではなかろうか?
「心配し過ぎよ。鉱山とは言っても、山の全域が鉱脈で埋め尽くされている訳でも無いし」
半ば呆れつつ、メルエットさんが僕の懸念を否定する。
「それに、スファンキルは綺麗な水辺を好むの。彼らがここに集っているって事は、この泉の水が無害だって証拠よ」
「あ、そうなんだ?」
「そうよ。だから彼らが多く生息しているマグ・トレドの水は良質で美味なの。それを口に出来た幸運に感謝しなさい!」
「いや、そこは今関係無いし……」
しかし、そうか。“病を癒す妖精”とか呼ばれるだけあって、野生のスファンキルは水質の程度を推し計るのに便利な特性を持っているらしい。付けられた二つ名も、あながち迷信とばかり言えないのかも知れないな。
「ナオル様、メルエット様がご推察なさった通りでございますです。この水は飲料に耐えうるかと」
「あっ、コバ」
気付くと、いつの間にかコバが泉のほとりにしゃがみ込み、その水を試飲していた。相変わらず行動が早い。
「ゴブリンの癖に私より先に飲むなんて気に入らないわね。でもまあ、率先して毒見役を買って出た点は評価してあげるわ」
メルエットさんがフン! と鼻を鳴らす。こちらも相変わらず言い方がキツい。けなしているんだか褒めているんだか分からないセリフだ。
もう使い古された表現になってしまっているかも知れないけど、なんだかツンデレみたい。
三人で余った容器に目一杯水を確保し、ついでにスファンキルも何匹か捕獲すると、僕達は急いで元の道へと引き返す。
再び露わとなった絶壁を伝いながら、メルエットさんが手に持った袋を頭上に掲げた。
その中からは、ほんのりと青い光が漏れている。
「松明に比べたら心もとないけど、これで夜間の灯りも確保出来たわね」
「出来ればそれが必要になる前に下山したいところだけどね」
「同意するわ」
メルエットさんと苦笑いを浮かべ合う。いつまでも三人だけで山の中を彷徨うなんてゾッとしない。早くマルヴァスさんやローリスさん達と出会いたい。
しかし、運命というものは余程意地悪な質なのか、事態は僕達の期待とは裏腹にどんどんキナ臭い方向へと推移していくようだ。
「これは…………!?」
三人揃って絶句。崖沿いに進んでいった先は、大きく『U』の字を描くように絶壁が湾曲していて、行き止まりとなっていたのだ。
いや、行き止まりという表現は正確では無いだろう。岩や石で埋め尽くされた崖の湾曲部分、先細りになっている道のその最奥に、ぽっくりと“かまくら”状に切り抜かれたかのように大きく口を開けた洞窟があった。その周囲には、かつて取り付けられていたであろう扉の残骸がバラバラになって散らばっている。人工的に作られた入り口がある洞窟。それはつまり……
「……坑道の入り口、かしら?」
「……そうかもね。つまり……」
「……あのワームめの、棲家である可能性が高うございますですね……」
ごくりと、唾を飲み込む。昨日見たあの巨体の姿が、恐怖を伴って脳裏に蘇る。
「……引き返さない?」
「……で、森の中で道を探す? 迷う可能性大よ。坑道なら、彼処から他の入り口にも繋がっている筈。下山ルートを見つけられるかも……。幸い、灯りもあるし……」
と言いつつ、メルエットさんも躊躇する様子を見せる。口に手を当て、僕の顔と洞窟の入口を何度も見比べる。
「……言っとくけど、僕に期待されても困るから。あんなデカい怪物、たとえ万全の体調でも《ウィリィロン》があっても魔法が使えたとしても、勝てる気なんてしないから」
「う、うるさいわね! 分かってるわよ!」
メルエットさんはムッと眉根を寄せると、振り切るように僕から視線を外し、ビシッと洞窟を指差した。
……が、ただそれだけで何も言わない。ピクピクと瞼と唇を震わせ、洞窟を睨むだけだ。
「どうしたの? 洞窟に入るって決めたんじゃないの?」
不審に思って僕は尋ねた。
「い、いえ…………」
歯切れが悪い。どうしたんだろう、何だかメルエットさんらしくない。
「……メルエット様、もしやまだ気に病んでおいででございますですか?」
おずおずとコバが声を掛けると、メルエットさんは分かりやすく取り乱した。
「な、何を言うの……!」
……なるほど。
しどろもどろになる彼女の様子を見て、僕にも察しが付いた。
仕方無い。
「そうだな、さっきもメルエットさんのお陰で飲み水を手に入れられたんだし、今度の目利きもきっと確かだよ」
「え? ナオル殿……?」
僕はおもむろに洞窟へ向かって足を踏み出す。途中で振り返り、メルエットさんに笑い掛けた。
「僕はメルエットさんの判断を信じるよ。もしワームが出たら、倒すのは無理だろうけど、どうにかやり過ごしてやるさ」
「そ、そんな事……!」
「僕は伝承に謳われる“渡り人”なんだろ?だったら、少しは精進しなきゃ。これも試練の一環だって考えるようにするよ」
「…………」
「大丈夫、メルエットさんには決して手出しさせない。指一本だって、触れさせないさ」
「ナオル殿…………」
「だから、メルエットさんは何時も通り、ただ指示を出してくれれば良いよ。なんたって、僕達一行の総大将なんだからさ!」
精一杯の虚勢。それでも、胸を張って僕は宣言する。
メルエットさんを苛む自責の念が少しでも軽くなるんだったら、これくらい何度でも言ってやる。
「…………」
メルエットさんは、しばらくポカンと呆気にとられたような顔をしていたが、やがて毒気が抜けたようにふっと肩の力を抜いた。
「こういう時だけ持ち上げるなんて、あなたって調子が良いのね」
「いいや、これでも普段から敬意を持って接しているつもりなんだけどな」
「そう、それじゃそういう事にしてあげる。ふふっ」
ふわっと、彼女の顔に柔らかい笑みが広がる。
それは、ローリスさんの騎士叙任の際に彼へ見せたあの笑顔と、同じものだった。
それを初めて、僕にも向けてくれたのだ。
「………………」
可愛い。素直にそう思った。
「さて、では改めて下知を下すわよ」
咳払いをひとつすると、メルエットさんは溌剌とした調子でビシッと洞窟の入り口を指差した。
「ナオル殿! ゴブリン! 私達はあの洞窟を抜けるわよ! しっかりと付いてきなさい!!」
迷いを振り払った彼女の姿は、心なしかとても頼もしく、そして美しく見えたのだった。