第五十八話
すっかり熾火となった焚き火を挟んで、僕とメルエットさんはそれぞれ床についた。
身一つで落ちてきてしまったので、当然寝具等の備えは無い。僕はマルヴァスさんから借りていたローブを畳んで頭の下に敷き、メルエットさんは自分の腕を枕にして、それぞれ土の上に横になっていた。
幸いな事に気候は暖かく、掛け布団の類が無くても冷える心配は無さそうだったけど、テントでぬくぬくと過ごせる野営とは異なり完全な野宿、野ざらしの雑魚寝である。僕も初体験で辟易しているけど、お嬢様育ちのメルエットさんにはなかなかキツいものがあるのではなかろうか?
「メルエットさん、やっぱりこのローブ使った方が……」
「結構よ、傷病人の枕を奪うなんてはしたない真似、出来るものですか」
背中を向けたまま、にべもない返事を寄越すメルエットさん。
「でもメルエットさん、ご飯だってあまり食べてないじゃないか」
「ゴブリンの拵えた食事なんて口にするものですか。あの干し肉を一切れ頂いただけで満足よ」
「ははは。ジェイデン司祭からの贈り物、まさかまだ食べずに取っていたなんてね。お陰で助かった訳だけど」
「……色が変わりかけていたけどね」
「……うん、まぁね」
コバが採ってきたキノコや野草、それにジェイデン司祭から貰っていたあの干し肉。それが夕飯の献立だった。
「いつ必要になるか分かりませんでしたから。ジェイデン様にはどれだけ感謝しても足りませんです」
謙虚で慎ましいコバのお陰で、今夜のところは飢えずに済んだ。ジェイデン司祭だけでなく、コバにも感謝の念を忘れてはならない。
そのコバは、自ら不寝番を買って出て、僕達から少し離れた所で周囲に目を光らせている。
「ゴブリンは皆、夜目が効きますから。万一異変が起こればすぐにお知らせ致しますゆえ、ナオル様もメルエット様もどうぞお心安らかにお休み下さいませです」
一切の気負いもなく、さも当然の責務であるかの如く、コバは僕達に尽くしてくれる。
心苦しくはあったが、同時にやはり嬉しくも思った。
「(いつか、ちゃんとお返ししないとな)」
薄闇に紛れるコバの背中を見守りながら、僕はそう思った。
「ナオル殿、無駄話は終わり?」
「え……? ああ、うん、まあ……」
「だったら、早く眠りなさい。明日は移動しないといけないんだから。朝までに歩けるようになっていないと承知しないわよ」
ふん、と微かに鼻を鳴らす音が聴こえる。実際、メルエットさんの言う通りだった。飲み水だってもう殆ど残っていないし、早く人気のある場所に辿り着かないと不味い。
「分かってる、足手まといにはならないよう努力するよ」
「頼りないわね。男だったらもっとこう、人を安心させるような強い言葉を吐きなさいよ」
言われて、僕は少し考える。
そして、改めて口を開いた。
「メルエットさんにどんな危険が迫っても、必ず僕が守るよ。約束する」
「ばっ……!」
メルエットさんは上体を起こして身を捻った。こちらに向けられた表情は闇に紛れてよく見えないけど、きっと顔を真赤にしているのだろう。
クサいセリフだ、と自分でも思う。強がりが混じっているのも確かである。けど、同時に本気でもあった。
サーシャと同じ結末には、絶対にさせない。
「け、怪我人が調子の良い事言うんじゃないの!」
「メルエットさんが言ったんじゃないか、人を安心させろってさ」
「う、うるさいわよ! まったく……! それだけ無駄口が叩けるなら体力に問題は無いわね! 明日はキリキリ歩かせるから、そのつもりでいなさい!」
「はいはい」
言うだけ言って、今度こそ本当に話は終わりとばかりに、メルエットさんは再び背中を向けて身体を横たえた。
僕もまた、眠る為に目を閉じた。
そのまま、まんじりともせずに時は過ぎてゆく。
風に揺れる梢の音や、夜鳴きしている梟にも似た鳥の声を子守唄にしてどうにか眠ろうとするが、日中に気絶していた所為かちっとも睡魔は襲ってこない。
逆にただ黙っていると、それまでは意識の隅に追いやれていた左肩の傷が思い出したように疼いて、鈍い痛みを神経に送ってくる。
オークの毒が身体にまだ残っているんじゃないか?と余計な不安に駆られる。
夜の闇、深い崖下、身一つでの野宿、仲間と引き離された境遇。
それらの恐ろしい現実が僕の中でどんどん肥大化して、僕を呑み込もうとする。
「(くそっ……!)」
心中で毒づいて、忍び寄ってくる不安を何とか追い払おうと密かに悪戦苦闘していると、メルエットさんがおもむろに身体を起こした。衣擦れの音が夜の空気を震わせる。
「眠れない?」
「っ!? あなた、まだ起きてたの?」
「うん、僕も眠れなくて。さっきはあんな強がりを言ったけど、やっぱりどうしても不安は拭えないものだね。こっちの世界に来るまで、旅なんてした事も無かったからさ。こうやって土の上で寝るのだって初めての経験なんだ」
「つくづく軟弱な男ね。伝説の“渡り人”が、聴いて呆れるわ」
嘆息するメルエットさんに、僕は静かに言った。
「メルエットさんが“渡り人”というものにどれだけ期待していたかは知らないけどさ、僕だって普通の人間だよ。家族だって居る」
「そうなの? ……って、それはそうよね。考えてみれば当たり前だわ」
少し意外そうな声の後、気付いたように調子を改める。
「ナオル殿のご家族はどんな方達?」
興味が湧いたのか、メルエットさんが尋ねてきた。
「どうなんだろう……。良く分からないってのが正直なところかな」
「何よそれ、自分の家族なのに知らないの?」
「情けない話なのは認めるよ。父さんとはもうずっと、まともに会話もしてないんだ。あの人が何を考え、僕をどう思っているのか、詳しい事は分からない。兄さんとは仲が良くて、色々と理解し合えていたと思ったんだけど、ある日を堺に居なくなっちゃった」
「……お母様は?」
「母さんは、僕を産んですぐに死んじゃった。優しくて綺麗な人だったって兄さんは言っていたけど、僕は何も覚えてない」
「そう、だったの…………」
メルエットさんが声の調子を落とした。不味い事を訊いてしまったとでも思っているのだろうか?
気まずくなるのも嫌なので、僕は努めて明るい声を出した。
「だからさ、お父さんと仲が良いメルエットさんが、僕には羨ましく思えるよ」
「いえ……。私も、父の事をそこまで知っている訳じゃないの」
メルエットさんは、何処と無く寂しげに言葉を続けた。
「何時だって仕事仕事で、領主としての姿を崩さない人だから。親子の時間を設けてくれた事なんて、一度も無い。私も、勉強勉強の毎日で忙しくて、ワガママなんか言えなかったし」
淡々とした言葉の中に、メルエットさんの半生が如実に顕れていた。
きっと、伯爵家の娘として厳格に育てられてきたのだろう。貴族と言えば自己中で周囲を振り回してばかりだと、ともすれば考えがちだし、実際僕もメルエットさんをそういう目で見ていた節があるのは否定出来ない。
イーグルアイズ卿の姿が思い出される。竜の騒ぎからその後始末まで、四六時中民衆の為に働いていたあの姿を。
彼処まで徹底して我欲を見せなかった人が、自分の娘を甘やかす筈が無い。言われてみれば、初めて二人が並んだあの謁見の間でも、イーグルアイズ卿とメルエットさんの間には何処か余所余所しい雰囲気が漂っていた。
娘にすら常に領主の顔を向け続けていたのは、イーグルアイズ卿なりの教育の方針で、愛情の表現ではあったのだろう。
だがそれは同時に、親としての情が希薄だと、少なくともメルエットさんにそう思わせてしまう程には、『父親』として彼女と接する機会が皆無に等しかったという事でもある。
「それに、お母様だって、あの戦争が始まる一年前に流行り病で斃れて、身罷られてしまったし。それからは益々、父との距離が開いた気がしたわ」
メルエットさんもお母さんを亡くしているのか……。
そういう意味では、僕と似ているのかも知れない。
親子でのすれ違い、目には見えにくい摩擦。
家族の愛に溢れていたサーシャとは、随分と違いがある。
僕は、少しだけメルエットさんが理解出来た気がした。
「そうだったんだ。もしかしたら、僕達って結構似てるのかもね」
「そうね、私とあなたは……」
「僕達だけじゃないよ、コバも一緒さ」
「え……?」
メルエットさんの声音に戸惑いと、僅かに嫌悪が混じる。それは分かったけど、出来る事なら彼女にもコバを理解して欲しい僕は構わず続けた。
「コバも、お母さんを亡くしているんだ。それだけじゃなく、主人として仰いだグラスさんとも、姉のようだったサーシャとも、彼は死に別れている。それでも、彼はこうして健気に頑張ってくれてるよ」
「…………」
「僕達も、コバに負けずに頑張ろうよ」
それは、メルエットさんだけなく、自分に向けても言った言葉。
この冒険の行く先にどのような結末が待っているのかは分からない。それでも、下を向かず、後ろを振り返らずに、前へ向かって歩き続けるしか無い。
そんな想いを込めて。
メルエットさんは何も言わず、見張りに立つコバの背中を、ただじっと見つめ続けていた。




