第五十七話
「起きろよ、ナオル」
懐かしい声が僕の耳をくすぐる。心が温まるような優しい情愛の響きに誘われて、僕は微睡みから浮かび上がった。
「……ナミ、姉さん?」
ずっと逢いたかった人が、そこに居た。二年前に兄さんと一緒に失踪した、隣家の幼馴染。
「な〜にこんなとこで寝てんだよ。風邪引くだろ?」
相変わらず蓮っ葉な物言いでニカッと笑いかけてくれる。この声に、この笑顔に、僕は何時も元気付けられてきた。
「ナミ姉さん、どうして…………」
言いながら、僕は腰を浮かそうとする。
すると、何故だか姉さんはそれを止めるように僕を抱き締めてきた。
「姉さん、どうしたの?」
彼女の行動の意図が分からず、僕は困惑する。
「動くな、あたしが全部してやる」
えっ、と訊き返す間もなく左肩に激痛が走る。
「痛っ……!? ね、姉さん……!?」
堪らずに身動ぎすると、姉さんは折角捕まえた獲物を逃してたまるか、と言わんばかりに腕に力を込める。なんとかその拘束から逃れようと藻掻くものの、何故か全身から空気が抜けるような、そう表現するしかない妙な感覚に囚われてしまい、上手く身体に力が入らない。僕は簡単に力負けして、姉さんに抑え込まれてしまった。
その間も左肩の痛みは止まない。気力が萎えて脱力仕切った体内を、激甚な痛みだけがまるで滑車を回すハムスターのように駆け巡る。脳髄を揺さぶる衝撃と一緒に、姉さんの唇や歯の感触が伝わってくる。
「(ね、姉さんに、左肩を齧られてる……!?)」
俄には信じられなかった。年上の幼馴染に、自分の身体を貪られるという恐怖。
「姉さん、なんで……!?」
懸命に抗いながら、僕は必死に姉さんに訴えかける。
「……やっと見つけた」
「え……?」
「ナオル、ずっと逢いたかった。何年も、何十年も。ひたすら待ち続けたんだよ」
「何を、言って……?」
姉さんが顔を上げる。口の周りを血でベトベトに汚して、上気した頬に潤んだ瞳を添えて、この上なく妖艶な笑みを貼り付けて。
背筋が震えた。
姉さんのこんな表情、僕は知らない。
赤黒く縁取られた唇が、別の生き物のように動く。
「あんたは、アタシのモノになってくれるよね?」
「――ッ!?」
そこで、僕の意識は覚醒した。
姉さんの姿は、既に無い。
代わりに、目の前に映るのは満天の夜空。墨を流し込んだかのような漆黒の夜空に、散りばめられたラメのように星々が光っていた。
いつかサーシャと一緒に眺めた景色と同じだな、と頭の片隅でぼんやり考える。
横に首を動かしてみれば、そこには焚き火が煌々と焚かれており、傍には串焼きにされた草やらキノコやらが立てかけられて、コバがその様子を見守っていた。燻られた匂いが、僕の鼻をくすぐった。
ようやく、現実が徐々に脳内に浸透してくる。
「……夢、だったのかな?」
そうポツリと呟きながら身体を起こそうと試みる。
「うっ……!?」
すかさず、左肩が悲鳴を上げた。身体を引き裂くような痛みにまさかと思い目を向けると、肩口の部分が布で何重にも巻かれていた。表面に血が滲んでいる。
「ナオル様ッ!!」
こちらに気付いたコバが喜悦と悲痛と安堵が入り混じった声を上げながら、くしゃくしゃに顔を歪めて僕の前に跪いた。
「お目覚めになられて……! 良うございました……! コバめはもう……!」
言ってる端から、泣き腫らした目から新たな涙が零れ落ちる。どうやら、随分心配させてしまったようだ。
「コバ、此処は一体……? 僕は、何がどうなって……?」
状況が良く飲み込めなくてコバに尋ねるが、感極まっている所為か、彼は上手く受け答え出来なかった。
「ようやくお目覚めね」
取り敢えずコバを宥めながら彼の手を借りてどうにか上体を起こすと、後ろから落ち着いた女性の声がした。
「メルエットさん?」
振り返ろうとするより先に、彼女は僕の前に回り込んで傍にしゃがんだ。じっと顔を見つめてくる。
「あの…………」
「そこまで顔色は悪く無さそうね、毒はもう大分抜けたのかしら」
「毒……?」
「オークの毒よ、覚えてない? 私達、オーク共と戦っている最中に彼処から落ちたの」
メルエットさんの指が上空を示す。その先を追うように視線を持ち上げると、星明りに照らされた峻険な山嶺が巨大な影を落としていた。
「……っ! そうだ、思い出した……!」
一気に記憶が呼び覚まされて、僕は急いでメルエットさんに向き直った。
「僕達、どうやって助かって……!? 他の皆は!? あれからどれくらい時間が経ったの!?」
「ちょ、ちょっと!? 少し落ち着きなさいよ! まだ安静にしてなきゃダメだってば!」
矢継ぎ早にまくしたてる僕を、メルエットさんは慌てて制しようとする。その拍子に、彼女の手が左肩に触れた。
「いっ……!? つぅぅ……!?」
「あっ!? ご、ごめんなさい……」
申し訳無さそうに彼女が身体を引く。それからしばらく間を空けて、ひとつ溜息を吐いてからぽつぽつと語り始めた。
「皆がどうなったのかは分からないわ。私が目覚めた時には、既に崖上での戦いは終わっている様子だった。今に至るまで、この辺では人ひとり見ていない」
「そ、それじゃあ、他に落ちてきた人とかも……?」
「探してみたんだけど、それも見当たらなかったわ。どうやら下に落ちたのは私達だけのようね」
「そんな……!? じゃあ皆は……!」
「待って、結論を急がないで。どの道、今は確かめられないし。それに、悪い事ばかりでも無いの。オークだけでなく、ワームの気配もすっかり消えている。差し当たり、私達の身に迫る脅威は無いと見て良いでしょう」
「そう、なんだ…………」
それは間違いなく朗報なのだろうが、素直に喜ぶ気持ちにはなれなかった。
「……僕達、どうやって助かったんだろう?」
「それも覚えてないの? あなたが魔法を使って、私達を地の底に着地させたのではなくて?」
「そうなの!?」
僕は驚いて自分の掌に目を落とした。
「じゃあ、あの時見えた魔法陣は、やっぱり気の所為じゃなかったんだ……!」
「自分でどんな魔法を使ったのかも分からないの?」
「分からないよ……。前に火の魔法を使おうとしたけど、その時は何も起こらなかった」
「私もうろ覚えだけど、落下の途中で自分を取り巻く風の流れが変わったという事は確かに感じたわ。恐らくだけど、ナオル殿が魔法で風を操ったんだと思う」
「コバめも……コバめも、同様に感じました。グラス様は以前、風を利用して敵を翻弄する魔道士が敵方に存在していたという話をして下さった事がございました。ナオル様が使われたのも、その系統の魔法では無いでしょうか?」
ようやく気持ちが落ち着いてきたらしいコバが、メルエットさんの話を裏付けてくれる。
「それじゃあ、本当に……? 僕、風の魔法なら使えるって事……?」
「かも知れないわね。何にせよ、そのお陰で私達は生き残れたみたい」
風の魔法に関する素質有り。それが本当なら思わぬ発見だ。その力でコバとメルエットさんを助けられたというのなら、誇らしく思うべきなのだろう。
しかし、魔法が使える事が分かっても高揚感などは起こらない。他の皆の安否が気掛かりでそれどころじゃない。
「マルヴァスさん、ローリスさんも……。皆、無事で居てくれると良いけど……」
「本当に、あなたって人の心配しかしないのね」
メルエットさんは呆れたと言いたげにもう一度溜息を吐く。
「あなただって死にかけたのよ? もうちょっと自分を労ってあげたら?」
「メルエット様の仰る通りでございます、ナオル様」
コバがメルエットさんの言葉に大きく相槌を打つ。
「ナオル様は、オークの毒を受けられて随分お苦しみのご様子でした。メルエット様が毒を吸い出して下さらなければ、今頃はどうなっておられたか……」
「ちょっとゴブリン!! 余計な事言わないで!!」
メルエットさんが声を荒げ、コバが慌てて首をすくめる。
だが、その聞き捨てならない言葉は、僕の耳にしっかりと届いていた。
「毒を、吸い出した……!? メルエットさんが!?」
「あ〜……もう! そうよ! 素人の処置で悪かったわね!」
そう言ってプイッと横を向くメルエットさん。焚き火で照らされたその横顔は、仄かに紅潮しているように見えた。
毒を吸い出したという事は、アレか。僕の傷口に口を付けて、そこから…………。
想像を膨らませるにつれて、僕の顔もどんどん熱くなる。横目でこちらの様子を窺っていたメルエットさんは、そんな僕の変化に目聡く気付いたらしい。
「ちょっと!? 何考えてるのよ!! 勘違いしないでよ、嫌らしい部分なんか何も無いんだからね!?」
「わ、わ、分かってるよ!? あの、その……あ、ありがとう……」
しどろもどろになりつつも、どうにかお礼の言葉を紡ぎ出す。
「お互い様よ! あなただって、私を助けてくれたんだし……! それに、そもそもその怪我だって、私の所為で出来たものなんだし……!」
「メルエットさんの所為? どうして?」
「忘れたの!? オークから私を庇ってくれたじゃない!!」
怒りすら滲ませながら、メルエットさんは身を乗り出した。
「私が調子に乗って、オーク共と剣を交えようとしたから……! 格好付けて高らかに名乗りまで上げちゃって、連中を挑発したから……! あなたは、私を守ろうとして、そんな傷を……!」
「いや、でもそれは、マルヴァスさんから敵の注意を引くよう頼まれたからだし……。そりゃ、敵の狙いがメルエットさんに集中するような流れに持っていくのはどうかって思ったけどさ。かと言って、じゃあメルエットさんの取った方法より良い作戦が僕にあったかって訊かれると、思い浮かばなかったと答えるしかない訳で……。その、つまるところ、僕も同じ考えを持っていたワケだし。ただ、囮になるのがメルエットさんじゃなくて僕になるべきだったかな、ってだけで……」
張り詰めたようなメルエットさんの雰囲気に圧され、擁護になっているんだかいないんだか良く分からない言葉を返してしまう。
「慰めは要らないわ! カリガに入ってから何もかも、私の判断は裏目に出ていた……!」
「考えすぎだよ、メルエットさんが悪い事なんて、ひとつも……」
「あるのよ! マルヴァス殿の忠告にもっと真剣に耳を傾けていれば、こんな事態には
ならなかった! 皆を危険に晒したりしなかった! あなたを死なせかけたりもしなかったのに……!」
僕を睨む眼光が次第に弱々しくなり、声がすぼみ始める。
「私の責任なのよ……! 全部、私が……っ!」
そのまま彼女は僕から目線を外し、気まずそうに俯いて黙り込んでしまった。
「メルエットさん…………」
何と言えば良いのか分からない。こんな時、マルヴァスさんだったら気の利いたセリフのひとつでも言ってくれるのだろうが。
それでも、何か言わないと思い、必死に言葉を探した。
「その……生きててくれて、嬉しいよ」
出てきたのは、月並な言葉だった。
「バカ…………」
消え入るようなメルエットさんの声は、涙の色に揺れていた。




