第五十五話
今回及び次回はメルエット視点です。文体は三人称ですが。
メルエットは深い谷の底で目を覚ました。
「うっ……!? く、うぅぅ……!」
動こうとすると、頭の天辺から足の爪先まで鋭い疼痛が駆け抜ける。痛みに耐えつつ、指先ひとつ持ち上げるのにも苦労しながらどうにかこうにか鉛のように重い上体を起こし、頭を押さえる。
痛い……。脳が軋んで、割れるようだ。
ぐわんぐわんと揺れ動く視界の中で、ふと目先の地面に落ちている物が目に留まる。
「(なんだろう……?)」
苦痛と格闘しながら頑張って意識を集中させる。
やがて目の焦点が合ってきて、それの正体が判明した。
「……短剣?」
そうだ、これは確か、マルヴァス殿の持ち物だ。王都フィンディア一の鍛冶師と謳われたドワーフの工人に鍛えさせた、魔力を秘めた“包呪剣”とかいう類の…………。
確か今は、ナオル殿の手にある筈…………。
「っ!?」
そこまで思考を巡らせて、靄がかかったような頭の中が瞬時に冴え渡る。
「ナオル殿ッ! ナオル殿ッ! 何処ですか!? 返事をして下さいッ!!」
急いで辺りを見回しながら、一緒に落ちた筈のナオルに向けて呼びかける。
が、応えは無い。
メルエットは地面に手を付き、震える膝を起こす。ともすれば萎えそうになる自身の心を叱咤しながら、生まれたての鹿のような姿勢からゆっくりと下半身に力を込め、よろよろと立ち上がった。
「……だい、じょうぶ! 歩ける……!」
近くにあった大岩までフラフラと覚束ない足取りで歩いて行き、寄り掛かって姿勢を支える。呼吸を整えながら上空を見上げた。
「……かなりの高さから落ちたようね」
頭上の遥か彼方では、ネルニアーク鉱山が天上を目掛けて突き上げるようにそびえている。山道の一点が、掛けた陶器の縁のように大きくえぐり取られていた。
自分達はオークとの戦闘中、乱入してきたワームの攻撃を浴びて彼処から転落したのだ。
こうして見上げてみると、落ちればまず助からない高度だったと分かる。
にも関わらず、自分はこうして生きている。
何故か?
「ナオル殿……。あなたが、助けてくれたの……?」
メルエットは思い出していた。自分に向けて両手を伸ばしたナオルの姿を。彼の掌に浮かんだ眩く輝く魔法陣の形を。
そして、下から押し返すように吹き荒んでいた風の勢いが変わり、渦巻くように自分の身体を包み込んだあの感触を。
「風の、魔法……?」
詳しい事は良く分からない。だが現実に、自分はこうして生きている。“渡り人”である彼が、魔法を行使して救ってくれたというのが可能性としては一番高い。
ともあれ、彼を探さなければ。
メルエットは気力を振り絞って大岩から身体を離した。未だ痛む身体を引き摺りながら、ナオルの姿を求めて谷底を彷徨い歩く。
「他の皆は……無事、なのかな……?」
喘ぎつつ、一歩一歩足の裏の感触を噛み締めるように前へと踏み出す。
マルヴァスやローリス、他の護衛の兵士達の姿が、脳裏に浮かんでは消えてゆく。
彼らの安否は分からない。先程仰ぎ見た崖上では、既に戦闘の気配は消えていた。
オークに全滅させられたか、それともワームに諸共食い尽くされたか。
心に湧き上がってくるのは、最悪の予想ばかりである。
「…………っ!」
メルエットの目頭が熱くなる。彼女は自分を責めていた。こうなったのは全部自分の所為だと思った。
もっとマルヴァスの言う事を聴くべきだった。事あるごとに意見を呈してくる彼が賢しらに見えて、頭ごなしに指図されているように思えて、自分が軽んじられている気がして、嫌だった。
年少の頃から兄のように慕っていた男だったのに、どうしてそう思うようになってしまったのか。
昔から、自分の意志では何ひとつやらせてもらえなかった。常に領主の娘として相応しい振る舞いを求められ、父や家臣から課された課題を黙々とこなす毎日。
「我々は民の上に立っている。彼らの納める税が、我々の暮らしを支えてくれているのだ。だから我々は、どんな事があっても民の生命と財産を護らなければならん。全霊を傾け、持てる気力と体力の全てを彼ら愛すべき民衆の為に使うのだ」
父は口癖のようによくそう言っていた。その為には我意を捨てよ、とも。
メルエットも父の心意を理解し、それに応えようと努力してきた。したい事があっても、その気持ちを抑え込んできた。
自分は貴族の一員、マグ・トレド伯の娘なのだ。自らを律し、公人として民の為に尽くすのは当然の義務である。
メルエットはこれまでずっとそう信じてきた。いや、今も信じている。
父が愛した民を、自分も同様に愛していると。
だから、許せなかった。彼の事が。
《聖環教》に謳われる伝説の“渡り人”でありながら、竜の攻撃から街を守れずに、数多の民を死なせる結果を招いた、あのナオルという少年が。
「…………理不尽も、良いところね……」
自虐の笑みが溢れる。今にして思えば完全な八つ当たりである。
ナオルの怒りを買って、彼の口撃を浴びたのも当然の結果だろう。
『他人の事ばっか責め立てて、自分はどうなんだよ!? 人々を守る為に何かしたのか!? 出来る事が無いか、ちゃんと探したのか!? 街の為にひとつだって貢献した事があるのか!?』
あの時彼に言われた事は、メルエットの心を深く抉った。
図星だったからだ。
竜の襲撃があった夜、自分は館に残留していた。父がそう命じたからだ。
メルエットが居ても、出来る事は何もない。館に残り、留守を務めるように。
疑いもせずに、それを受け入れた。父の言葉に従っていれば間違いは無いと。
だがナオルの言葉で、自身の心底に澱んでいた想いを呼び覚まされた。
本当は、自分にも出来る事はあったのではないか?竜との戦いに臨むには力不足でも、民達の避難誘導くらいは出来たかも知れない。そうすれば、犠牲者をもっと減らせたのではないか?
ベッドに潜って眠ろうとする時でも、メルエットはその事を考え続けていた。
父からの命令を盲目的に守るだけではなく、もっと自分で考えて行動するべきだった。既に過ぎてしまった事はもう取り返しがつかない。でも、これからは……。
そんな想いが募って、今回の王都への使者の任を願い出た。
初めて、自ら率先して起こした行動だった。
父は大いに驚いていたが、意外にも快く承諾した。その時、メルエットの耳に別の使命を伝えた。
父の思惑と合致したからこそ、自分の申し出は受け入れられたのだと理解はしたが、メルエットの気持ちはそれでも晴れやかだった。
もう指示を待つだけの無能じゃない。これからは自分の意志で、世の為人の為に尽くせる、と。
「……だから、マルヴァス殿を疎ましく思ってしまったのね……」
無意識に、マルヴァスの顔を父や側近達に重ねてしまっていたのだろう。あれだけ彼らの言う通りにするのが正しいと思っていたのに、今となっては思い返す度に苦いものが胸に広がる。
それが、遅れてやってきた反抗期のようなものであると、これまで教えてくれる人間も居らず、メルエット自身知る由もない事であったのだが。
「何様のつもり、だったんだろう……。私は……まだまだただのひよっ子なのに……」
これこそ、父の忌避していた『我意』というものだろう。父の教えを理解したつもりでいても、その本義まではメルエットの中に浸透していなかった。
その結果が、これだ。
マルヴァス、ローリス、お付きの兵士達、そしてナオル。
皆、自分のワガママの被害者だ。
情けなかった。悔しかった。自分が惨めでならなかった。
「……っ! 泣いてはダメ……! そんな暇も無い! とにかく今は、早くナオル殿を……! ……?」
ふと、誰かの話し声が聴こえた気がして、メルエットは足を止めた。
『起きて』とか、『覚まして』という言葉が風にのって断片的に飛んでくる。
これは…………思い出した! あのコバという、ナオルが奴隷として仕えさせているゴブリンだ!
「アイツも、落ちて、助かっていたのね……」
複雑な感情を押し殺して、そちらへ足を向ける。コバが居る所に、ナオルも居る筈だ。
程なく、メルエットの探し人は見つかった。
最初に自分の居た場所から幾分も離れていない、岩場の陰。
その先に、左肩から流血して気絶しているナオルと、彼にしがみついて取り乱しているコバの姿があった。