第五十二話
敵襲。その言葉を聴いて、雷に打たれたかのような衝撃が背筋を走り抜ける。
僕は初め、逃げていった盗賊達が逆襲してきたのか、と思った。一度は恐れに駆られて背を向けたが、首領を取り戻す為に勇気を奮い立たせて戻ってきたのだと。
ところが、その予想は悪い意味で外れた。
崖の上から次々と飛び降りてくる影。地上に降り立った傍から武器を振り上げ、こちらへと向かってくるその生き物達は、人間では無かった。
ローリスさんをも凌ぐ巨体を窮屈そうに革鎧に包み、緑色の肌を持ち、突き出た下顎から二本の大きな牙を天に向けて生やし、顔面の中心には鼻が無く鼻孔のみが穿たれ、白く濁り切った両の眼を炯々と輝かせた異形の姿。
「っ! オーク……!」
メルエットさんが苦々しくそいつらの正体を口にして、レイピアを抜いて構える。ローリスさんが彼女の姿を隠すようにその前に進み出た。
既に前方では、現場の片付け作業に当たっていた兵士さん達が、この降って湧いた新手の敵に応戦している。オーク達と兵士さん達の斬り結ぶ光景が眼前に広がり、土埃が空を舞う。
「あれが、オーク!?」
話に聴くソラス王国の裏切り者。国内での覇権を賭け、人間達と血みどろの内戦を繰り広げている亜人種。
ブリズ・ベアの一件で、このダナン王国にも入り込んで来ている可能性は示唆されていた。でも、まさかこんな所で遭遇するなんて!?
「ちっ……! そういう事か!」
マルヴァスさんが舌打ちしながら弓を構える。オークが地上に着地した瞬間を狙い、的確にその脳天を射抜く。断末魔を上げる暇も無く、巨体がどうと倒れ込む。どうやら人間と比べて極端に頑丈という事でも無さそうだ。
しかし、オーク達は次から次へと現れて地上を埋めてゆく。その数は、明らかにこちらより勝っていた。
乱戦の間を縫うように潜り抜けて来た数体が、真っ直ぐこちらへ駆けて来る。その想像以上に機敏な動きに、僕は目を見張った。
「オーク風情が! お嬢様にゃあ近付かせるかよっ!!」
ローリスさんがそれを迎え撃つ。脇の一体をマルヴァスさんの矢が仕留めるのと同時に、正面のオークに向かって《トレング》を突き出した。
ところが、そのオークは手に持ったカットラスのような片刃の剣を素早く振り上げると、《トレング》の縋に押し当てその一撃をいなした。
「――ッ!?」
勢いを流されたローリスさんの身体が揺らぐ。
そこを逃さず、オークが反撃に出た。《トレング》の柄を幅広の刃が滑り、ローリスさんの眼前へと迫る。
「う、おおおおおッッ!!」
ローリスさんは大きく足を踏み出し、強く地面を踏みしめて腕に力を込め、オークの剣が身体に触れる前に跳ね上げた。
今度は、オークの体勢が崩れる番だった。
「くたばれッ!!」
がら空きの胴に、ローリスさんが《トレング》を叩き込む。オークは血反吐を吐いて吹っ飛んだ。
「っ! ローリス殿!」
メルエットさんが叫ぶ。吹っ飛んだオークの後ろに、更に一体が控えていたのだ。
《トレング》を振り抜いた姿勢のローリスさんに、隠されていた凶刃が襲い掛かる。
「――!?」
間に合わない。そう思った時、ローリスさんの顔の真横から剣が突き出され、オークの喉を貫いた。
マルヴァスさんだ。
「油断大敵だぜ、ローリス」
絶命したオークの喉から剣を引き抜きながら、マルヴァスさんが不敵に笑う。
「ほざけ、余計な手出しなんだよ」
憎まれ口を叩きつつ、ローリスさんが《トレング》を構え直す。
そこへ、次なるオーク達が迫る。
「気をつけろ、連中の武器には毒があるぞ」
「一々煩い! んなこたァ、分かってらァ!」
マルヴァスさんとローリスさんは左右に別れ、斬り込んだ。
マルヴァスさんの動きは疾い。オークが武器を振るう前に彼の剣が翻り、空間を一閃する。手の中で剣が踊り、銀色の軌跡を描く度に一体二体と敵が血潮を上げて斃れる。
ローリスさんもまた、先程の反省を生かして豪快かつ細心な動きに努め、堅実にオークを屠ってゆく。
「おお……!」
流石に、二人共惚れ惚れする強さだった。オークの群れは彼らに阻まれてこちらに近付けない。
だけど……。と、僕は周囲の状況を見渡した。
兵士さん達は奮戦しているものの、次第に劣勢に追い込まれていた。これがさっきの盗賊であれば押し返せるのであろうが、武力に優れていると言われるオークが相手、しかも数でも負けているとなるとそうもいかない。
複数に押し包まれ、埋没していく兵士さん達が増えてゆく。
「まずいよメルエットさん……! このままじゃ……!」
僕は唇を噛む。何か手を打たなければ全滅する。マルヴァスさんとローリスさんがいくら強くても、二人だけでは支え切れない。
この状況を打破する良い知恵は浮かばないものか。
「分かっています……! 今考えています……!」
彼女もまた、難しい顔で必死に頭を振り絞っていた。うんうんと、二人揃って唸る。
『逃げる。』それは最初に考えた。
しかし、逃げようにも今の僕達は崖を背にする形となっており、後ろでは谷底が大きな口を開けている。
僕達から見て右手側奥に積み上げられていた倒木は、半分くらいが取り除かれているが、それでもそこを乗り越えて奥側に逃げるのは自殺行為だろう。
残るは左手側の奥。僕達が通ってきた道を逆走する事。
幸いにも馬車は無事だった。馬達も、傷付けられてはいない。オーク達は僕達一行を全滅させた後、馬車を接収するつもりなんだろう。
その狙いを逆手に取って、どうにか馬車まで退却し、メルエットさんを逃がすのはどうか?
問題は、そこまで辿り着けるかどうか、そして御者となれる人物が居るかどうかだが……。
僕は、ちらりとメルエットさんの左右に控える二人の兵士さんを見た。先程まで、盗賊の首領を抑え付けていた二人だ。
彼らなら……!
「あの、すみません、ちょっと良いですか?」
僕は、自分の考えを伝えた。
途端にメルエットさんがかぶりを振る。
「皆を見捨てて、私だけが逃げろと!? そのような提案は却下です、ナオル殿!」
「そう言わないで下さい! 皆、あなたを守る為に戦っているんですよ!?」
「なら尚更です! 私が敵に背を向ければ、士気が崩壊します! 苦しくても最後まで踏み止まって戦う事こそ、この窮地を乗り切る唯一の道です!」
メルエットさんの言い分は分かる。実際、メルエットさんが此処に居るからこそ、皆必死になって敵を防いでいるのだ。彼女が戦線離脱したら、その糸が切れる。そうなれば、後は敵に呑まれるだけだ。
だけど…………。
「お嬢様、我々も彼の意見に賛同致しますぞ!」
「然り。悔しゅうございますが、我らの劣勢は明らか。このままでは、お嬢様をお守りする事も叶いませぬ!」
二人の兵士さんは、僕に賛意を示す。彼らも気持ちは同じなのだ。
「あなた達まで……!?」
メルエットさんが愕然とする。オロオロと、僕達の顔を見比べる。
「今はお嬢様の安全を確保する事が最優先かと存じます。どうか御賢察を!」
「馬車までの血路は我々が開きます! さあ!」
兵士さん達は既にその気のようで、メルエットさんの手を引かんばかりに彼女を強く促す。
メルエットさんはそれでも納得していないようで、悔しげに唇を噛み、眉を寄せて視線を宙に彷徨わせる。
と、何かに気付いたようにその目が見開かれた。
「……いいえ、他にも手があります」
肚を据えたように低い声を出すと、メルエットさんはオーク達が飛び降りてきた岩肌の方を強く睨む。
僕は、その視線を追った。
「あれは……!?」
崖上に、ひとりのオークが佇んでいた。革鎧を着込んだ他のオーク達とは異なり、全身をゴツゴツした金属の鎧で包んでいる。
そのオークは、腕を組みながら悠然と眼下の戦況を眺めている。如何にも分かりやすい、大将然とした姿だった。
「戦は、将を喪った方が負け。ならば、私達の採るべき戦法は明白です」
メルエットさんが、レイピアを崖上のオークに向けて突き上げた。
「敵の指揮官を討ち取るのです!!」