第四十六話
夜も更け、ぼちぼち皆も床に入り始める頃合いに、僕はそっと部屋を出て館の廊下を歩いていた。
「広いお屋敷だな〜。イーグルアイズ卿の館も相当だったけど、それ以上だよ」
奥に続く長い回廊を見ながら感嘆の声を漏らす。床には真紅の絨毯が敷き詰められ、壁には絵画やら装飾品やらが所々を飾っており、それらが等間隔で天井から吊り下げられたランプの灯りに照らされ何とも言えない幻想的な雰囲気を醸し出している。この地の主であるモントリオーネ卿の財力をまざまざと見せつけられている気がした。
三十人を超す僕達一向を歓待し、泊まる部屋まで割り当ててくれた事からもそれは分かる。ちなみにベッドも上質な絹が使われている高級品だった。
「何だか、落ち着かないな……」
僕が物の価値を知らないただの子供で、質素で小市民的な精神構造をしているからだと思うけど、こうも贅を尽くされたおもてなしを受けるとどうもむず痒いと言うか、据わりが悪いように感じられる。イーグルアイズ卿の館では覚えなかった感覚だ。
「……なんて、それこそただの贅沢か。人の好意に甘んじている身で何を言ってるんだか」
ふと自分がおかしくなり、そう言って自嘲する。この世界に来てからこの方ずっと他の人におんぶに抱っこじゃないか。良くしてもらっておきながら『落ち着かない。』なんて考えたら罰が当たる。
「おや?貴君は…………」
廊下の奥から声が掛かり、僕は顔を上げる。そこにはモントリオーネ卿が、手燭を掲げる側近と思しき人と一緒に立っていた。
「あ、どうも……!」
カリガ領主との突然の遭遇に緊張して声が上ずる。思わず背筋を伸ばして姿勢を正した僕を、モントリオーネ卿の細い目が興味深げに見つめてくる。
「メルエット殿の従者の方じゃったな。斯様な夜更けに出歩かれるとは、何ぞ御用でもお有りか?」
「いえ……! あ、はい!」
テンパって良く分からない返答をしてしまう。怪訝な顔を浮かべるモントリオーネ卿を見てまずいと思い、慌てて付け足した。
「ね、寝る前に外の……外の馬車に居るコバの様子を見てこようかと思いまして!」
「コバ?」
モントリオーネ卿のクエスチョンマークが更に増える。
「僕達と一緒に馬車に乗っていたゴブリンです! 彼は馬車で寝泊まりしているから、その、心配になって!」
「ああ、なるほど」
そこまで言って、彼は納得した。
「奴隷の事を気にかけるとは、お気持ちの良い御仁じゃな。結構結構、フォッフォッ」
愉快そうに笑うモントリオーネ卿に対し、奴隷じゃなくて友達……と訂正しかけた口をすんでの所で閉じる。この人に言っても仕方ないし、逆に気まずくなるだけだろう。狼狽えつつもぎりぎりのラインで踏み止まれたようだ。
次第に冷静な思考が戻ってくる。周りに気を配る余裕が出てくると、僕を見つめる粘っこい視線がある事に気付いた。
あの側近の人だ。手燭でモントリオーネ卿の足元を照らしつつも、真ん丸な黒い目をじっとこちらに注いでいた。灰色の縮れた髪を左右に分け、柳の枯れ枝のように肩に垂らしている。顔は青白く頬はこけて痩せており、纏っている黒い衣服も合わさって幽鬼のような印象を受ける。
何だろう……?まるで梟のような、全てを見透かし、あるいは飲み込まんとするかのような闇を煮詰めた瞳が僕を捉えて放さない。
段々と自分の呼吸が荒くなる。
「ふむ? 如何された?」
不気味な側近から放たれる威圧感と戦っている僕の様子を、モントリオーネ卿が訝った。それから僕と側近を交互に見てすぐに悟ったようだ。
「ヨルガン、目を伏せよ。お客人に失礼じゃぞ」
ヨルガンと呼ばれた側近は、静かにその一言に従ってお辞儀をするかのように頭を下げた。そのままの姿勢で微動だにしなくなる。
「相済まぬ。この者は余の信頼する衛士なのじゃが、どうにも警戒心が強すぎてのう、余と相対する人物を凝視する癖があるのじゃ」
取り繕うように笑みを浮かべるモントリオーネ卿を見て、僕もほっと息を吐く。
「いえ、別に気にしてはいませんよ。それでは、僕はこれで」
まだ動悸の続く胸を抑えて、僕は軽く礼をして足早にそこを去ろうとする。
「待たれよ」
すれ違って何歩か歩を進めた時、おもむろにモントリオーネ卿が僕を呼び止めた。
「貴君、随分とお若いようじゃが、名はなんと申す?」
落ち着きかけた心臓が再び跳ね上がる。僕はゆっくりと振り返り、内心を悟られないよう努めてポーカーフェイスを作りながら短く答えた。
「ナオル、と言います」
僕が“渡り人”であると、この人は知らないだろう。先程のマルヴァスさんのセリフもあるし、僕もわざわざ明かすつもりは無かった。
「生まれはどちらになる?」
「クートゥリア、です。マルヴァスさん……メルエットさんの友達と同郷で、その縁から今回の旅に加わらせてもらいまして」
「ほう」
モントリオーネ卿の細まった目の奥で、微かに光が煌めいたような気がした。
「ではダナンの民という事じゃな。それにしては名が変わっておるのぅ。それに、瞳の色も異なっておる」
「良く言われます。両親が酔狂好きだったみたいで」
頭を掻き、情けなく笑ってみせる。サーシャにも瞳の色で怪しまれた。『茶色がかった黒い瞳』ってそんなにこの国じゃ珍しいんだろうか。
「もしやご両親は“バレクタス”の出身かな? 彼処の民ならば左様な名を付けるじゃろうし、黒味の目も持っておる。のうヨルガン?」
ぽんと手を打ち、合点がいった顔でモントリオーネ卿は隣のヨルガンさんを見やる。
水を向けられた彼の口が初めて動いた。
「……如何様。我らは元来、《黒い民》と呼ばれますゆえ。彼のような人種も珍しくはありませぬ」
「やはりのう。それならば貴君は、ヨルガンと祖を同じくする事になるのう」
どうやらヨルガンさんは“バレクタス”という地域の出身らしい。そしてモントリオーネ卿は、僕のルーツもそうだと勝手に当たりをつけているみたいだ。
「ええ…………」
一瞬、それに乗っかろうかと思ったところで不意に気付く。もしかするとこれって、カマかけなのでは!?だとしたら素直に乗るのはまずい!
僕はブンブンと左右に激しく首を振って答えた。
「いや、それが詳しくは知らなくて……。両親は何故か、昔の話はしたがりませんでしたし。僕もそういうものなんだろうって思って、あまり深くは考えなかったんです。だってそうじゃないですか?今が良ければ、過去なんか気にしなくてもやっていけますし」
言いながら、ふと胸の内に寂しさと虚しさが去来する。それに気付いたかどうかは定かでは無いが、モントリオーネ卿がやや顎を引いて僕を見据える。
「過去は、人の足跡じゃ。積み重ねてきた記憶じゃ。人は誰しも、堆積した過去を踏み台にして未来に手を伸ばす」
「…………」
「過去などどうでも良いと言える者こそ、実は過去に拘っておる。いや、囚われておるのじゃろう。何故なら、過去は美しいばかりでは無い。醜いもの、見たくないものも中には沢山あろう。じゃからと言うて、過去は捨てる事も変える事も出来やせん。故に、無理矢理目を背けるのじゃ」
「それは……」
「いや、これ以上は言うまい。貴君がどのような事情をお持ちであれ、強いて踏み込もうとは思わぬ。無用な詮索をしたな、許せ」
「いえ、良いんです。……それじゃあ、失礼します」
僕は深くお辞儀をして、彼らに背を向ける。悄然と足を進めながら、自然と手は胸のペンダントに伸びた。
「兄さん…………」
モントリオーネ卿の言う通りだ。さっきの僕の言葉は方便だけど、それに対する彼の言葉は、深く僕の心を抉った。
この世界に渡る前、僕は新しい人生を始めようとしていた。
父さんの仕打ちを水に流し、二人で親子として生きていこうと。
そうすれば、失踪した兄さんや姉さんとも、いつかもう一度会えると。
その為に、父さんときちんと向き合おうと。
『父さんが帰ってくるまで待ってるよ。起きて、待ってるから』
それに、サーシャの事だって…………。
『お前も忘れるな。サーシャと出会い、共に過ごした時間を。お前が忘れない限り、あの子はお前の心の中で生き続ける。それで良い』
「…………」
僕は、誓った筈じゃないか。過去から逃げないと。
それなのに、方便とは言えそれを否定するかのような言葉を吐き出してしまった。
それでこのザマだ。自分の言葉で自分にメンタルダメージ与えていたら世話が無い。
「あ〜……! 僕って成長しない!」
天井を仰ぎ、目に拳を当てながら僕はひたすら自己嫌悪に苛まれたのだった。