第四十二話
「ではマルヴァス殿は、オークが我が国に入り込んでいると?」
ブリズ・ベアに打ち込まれていた黒い矢を前にメルエットさんが眉をひそめる。
襲撃の後、僕達は例の矢について報告する為にメルエットさんのテント、もとい幕舎を訪れていた。
「その可能性は無視できないだろ? 現にこうして、奴等の矢がここにある」
マルヴァスさんは苦い顔で黒い矢を指差した。
「鏃に塗られた“グーボ”の毒、“ビトレィ・クロウ”の羽、正に連中が好んで使う素材だ。こんな趣味の悪い矢を使う種族はオークしか居ない」
「確かに、このような悍ましい矢は私も見た事はありませんが……」
不意に、幕舎の外で大きな歓声が上がる。ローリスさんを囲んで、兵士さん達は酒盛りの真っ最中だ。きっと武勇伝に花を咲かせているのだろう。
僅かにそちらへ目をやってから、メルエットさんは『信じられない』と言った風に首を振る。
「本当にオークの仕業だとして、一体何故? あの醜い裏切り者共は、《ソラス王国》の掌握に血道を上げている筈ではありませんか」
「分からんぞ? 奴等が一枚岩とは限らない。内戦が嫌で逃げ出した手合も中には居るだろう」
「それがソラスの流民に混じって、ダナン王国に流れてきていると? 奴等が逃げるなら帝国領が妥当でしょう?」
「普通に考えればな。だがそこが穴かも知れない」
「何らかの企みがあると仰りたいのですか? 具体的には?」
「さァて、な…………」
マルヴァスさんが腕を組む。メルエットさんも口に手を当て、思案顔を浮かべた。
「あの〜…………」
僕がおずおずと手を上げると、二人は同時にこちらを見た。
「その……オークって、一体何ですか?」
マルヴァスさんが呆気にとられた顔をして、メルエットさんがこれ見よがしに溜息を吐く。
確かに、今更な質問だろう。ファンタジーとしてのオークに関する予備知識があったので、詳しく訊く機会を無意識に先送りにしてきた。
だがよくよく考えてみれば、コバのような《ゴブリン》と同様、この世界における《オーク》の定義が僕の世界と同一とは限らない。実際、前提を共有していないからこうして話に付いて行けてない。情報を得ようとしなかったのは僕の非だ。
《エルフ》や《ドワーフ》の話も追々詳しく訊いておくべきだろうが、とにかく今はオークについてだ。
「あァ、そう言えばお前にはまだそこまで話してなかったな」
マルヴァスさんが軽く咳払いをして説明してくれる。
「ナオル、《ソラス王国》は覚えているだろう?」
「勿論です。この国の北西に位置する国で、古くからの同盟国なんでしょう?」
「ああ。オークって言うのはな、そのソラス王国に点在する種族だ。人間に比べて力が強く、武の才能に恵まれた屈強な戦士だが、同時に凶悪で卑劣でもあり、毒の扱いにも長けている。全部で七十二の部族に別れていて、ソラスとは相互扶助の関係にあったんだ」
「相互扶助?」
「戦争が起これば、オークはソラスに与して武力を提供する。その代わりに、ソラスはオークに対し領内での自治を認める。そういう約定が両者の間で結ばれていた」
「なるほど…………あれ? でも確か、前の戦争でソラス王国は首都陥落の憂き目に遭ったって……」
「おう、よく覚えているな、上出来だ」
マルヴァスさんが「うんうん」と嬉しそうに頷く。
「お前の言う通り、ソラスは侵略して来た帝国軍に上手く対抗出来なかった。それも当然、頼りにしていたオーク共が、帝国側に寝返っていたんだからな」
「寝返り!? どうしてですか!?」
「帝国が、ソラスの統治権をオークに委ねるという事で話を付けていたんだよ。オークからすりゃ、自分達が主導権を握る絶好の機会をみすみす逃す手は無かったんだろう。ソラスの子飼いを脱し、自分達の国を興すっていう野心を刺激されたのさ」
「ああ、それでメルエットさんがさっき『醜い裏切り者共』って……」
「腹背に敵を迎えたソラス側は一溜りも無かった。元々あの国は自前の軍事力というものを軽視しがちで、抱えている常備軍の規模も小さかったからな。軍拡よりも商業を盛んにして、巧みに外交戦略を駆使する事で安定を図ってきた国だ。オークの背信はそれだけで致命傷になっただろう。他者の力を当てにし過ぎたツケが回ってきたんだよ」
「それで、その後はどうなったんですか?」
「ソラス王家はダナンに亡命。戦争終結後、我が国の援助を受けた国王のドゥベガル二世が失地回復の為に挙兵し、現在に至るまでオーク共と血みどろの内戦を繰り広げている。ソラスから日に日に民衆が流れてくるのは、そうして政情の不安定さが大きく影響してるのさ」
「帝国との戦争が終わっても、ソラスの国民は戦火に悩まされているんですね……」
想像以上の悲惨な話に、暗澹たる気持ちになる。ただ平和に暮らしたいだけの人達にとって、それはどれ程の苦痛なのだろう。
「ああ、おまけにダナンの国王陛下はドゥベガル二世を後援しておきながら、避難してくるソラスの民には手を差し伸べないどころか、強制送還するよう触れ回ってるからな。そりゃあいつらも盗賊に走るってものだ」
マルヴァスさんは腕を組んで顔をしかめる。
「ソラスの民達にとっちゃ、進退窮まった末の苦渋の決断だろうさ。全く、うちの王様も、もうちょい良いやり方があるだろうに……」
最初にマグ・トレドを訪れた時もそうだったけど、どうやら彼はこの国の王が採ってる政策には批判的なようだ。苦々しげなマルヴァスさんを見て、僕はそう思った。
「マルヴァス殿、話が逸れてきています。今の懸念はソラスの流民ではなく、オークなのでは?」
メルエットさんが軽く嗜める。
「おっと、そうだったな。でもなメリー、満更繋がりが無い話でもないぞ。人間の流民もオークも、根っこは同じソラス王国だ。結託している可能性も視野に入れておくべきだ」
「ふう……。いずれにせよ、今は想像の域を出ません。オークの矢が発見されたという事実は、父上にも周辺の村にも連絡しておきましょう。しかし、事態の調査は我々の任務ではありません。そこはお間違え無きよう」
「分かっているさ。対策はコンラッドに任せよう。だが油断は禁物だぜ?何せ俺達は、これからその盗賊騒ぎが起きている地域の真っ只中を通るんだからな」
「言われるまでもありません、皆にも明日、出発の前に改めて訓戒しておきましょう」
「頼むよ。……よし、それじゃあ言うべき事も言ったし御暇するか、ナオル、コバ。そろそろ眠い。メリー、また明日な」
マルヴァスさんは小さく伸びをすると、手を振りながら幕舎を出ようとする。僕とコバも続こうとすると……
「あっ……。ナオル殿、少し……」
「……?」
メルエットさんから呼び止められる。振り返って彼女を見ると、バツが悪そうに目を逸らしつつ腕を擦っていた。
「……ナオル、俺達は先に自分の幕舎に戻ってるわ。コバ、行こうぜ」
「え……? しかし……」
「良いから良いから。良いよな、ナオル?」
「……うん。コバ、マルヴァスさんと先に行ってて」
「……かしこまりました。仰せの通りに致しますです」
コバは恭しくお辞儀して、マルヴァスさんと一緒に幕舎を出ていった。そのマルヴァスさんは、去り際に僕に向かって親指を立てながらウィンクしてきた。
絶対に何か勘違いをしていると思うけど、取り敢えずその気遣いには感謝しておく。
「……どうしたの? メルエットさん」
二人だけになった幕舎の中、僕は静かに彼女に尋ねた。
「その……。先程の礼を、まだ申しておりませんでしたので……」
相変わらず視線を合わせずに、頬を紅潮させながら言いにくそうにメルエットさんが答える。物凄く気まずそうだ。
しかしながら、僕とてそれは同じだった。何せあれだけの口喧嘩をしでかした間柄だ。思い返すと今でも胸の内に苦さが広がる。
しばらく、僕達は二人して無言だった。どちらともなく、相手の顔色を伺っては目を伏せる事の繰り返しが続いた。
やがて、メルエットさんは深呼吸をすると、丁寧に僕に向かってお辞儀した。
「ナオル殿、ブリズ・ベアより我が身をお守り頂き、心より感謝の意を捧げます」
「え……? ああ、うん。別に良いよ。だってメルエットさんの護衛が僕達の役目なんだし……」
いつもの、形式張った調子で言われる感謝の言葉に、少しだけ白けた気分になる。いや、彼女の立場からしてそれが普通なんだろうけど、きっとこれは彼女の素じゃない。
彼女の素が出ていたのは、やっぱりあの時の口喧嘩だろう。血が通った、感情の言葉。今のような、心に鍵をかけた状態から出てくる言葉ではなく。
僕は、彼女の素の言葉が聴きたい。今なら、あの時よりもお互い冷静に話し合えるだろう。折角二人きりになれたんだし、チャンスかも知れない。マルヴァスさんがくれた切っ掛けを大事にすべきだ。
僕の方から、彼女に歩み寄る。その気持ちを固めて、口を開く。
「メルエットさん、あの……!」
「今後とも、何卒宜しくお願い致します。……以上です」
ところが、メルエットさんは僕の言葉に被せるように言って、そこで背を向けてしまった。
「……もう下がって頂いて結構です。ご苦労でした」
そう言って話を締め括る。彼女の背中からは、はっきりと拒絶の意志が感じられた。
言おう言おうと頭の中で煮詰めていたセリフが全部宙ぶらりんになる。
ダメだ、機先を制された。グズグズしていた僕が悪い。
「……おやすみなさい、メルエットさん」
それだけ告げて、僕も彼女に背を向けて幕舎を出る。折角の仲直りのチャンスを不意にして、深い深い溜息を吐く。こんなのばっかりだな、僕……。
僕は、一度だけメルエットさんの幕舎を振り返ると、そのまま悄々と自分の幕舎へ歩いて行った。