第四十話
「ただいま……」
鍵を開け、玄関のドアを潜る。靴置き場には父さんの靴と、見慣れた女物の靴。
今日も来てるのか……。ただでさえ暗い気分が更に沈み込む。
「あんた! いい加減にしなさいよ!! あんたがそんな体たらくじゃ、ナオルちゃんが可哀想じゃない!!」
悪い予感通りに、リビングの方からあの人の怒声が飛んでくる。正直関わりたくないけど、このまま放っておく訳にもいかない。僕は重い足を引きずるように声のする方へ向かった。
少しだけ開いたリビングのドアの隙間から中を窺うと、そこには予想通りの光景が広がっていた。
パジャマ姿を着崩して、だらしなくソファに身を投げだして呆けている父さんと、その前に仁王立ちして父を睨み付けている女の人。もう何度も見た光景だ。
比良坂結美。隣家のナミ姉さんのお母さん。父さんとは昔からの馴染みで、兄さんと姉さんの失踪後は良くこうして家に来て、抜け殻のようになった父さんを叱咤している。しっかりした人だ。自分だって大切な一人娘が消えてしまったというのに、こうして僕らを気にかけて足繁く家に通ってくるのだから。
僕にとっては苦手な人だった。ありがたい気持ちも勿論ある。僕達の為を思ってくれてるのも承知している。だけど、少々お節介が過ぎると辟易してもいた。端的に言えば、心苦しい。
元はと言えば、兄さんと姉さんの失踪から数ヶ月たっても一向に立ち直れない父さんと、そんな彼を見て見ぬ振りしている僕が悪いんだけど。ムスミおばさんからすれば到底放って置けないのだろう。
こういう所、しっかりナミ姉さんにも受け継がれているよなぁ……。お節介は血統なのだろう。
しかし、そろそろ助け舟を出した方が良いかも知れない。父さんが心配だからじゃない。今の父さんには何を言った所で暖簾に腕押しなんだし、ムスミおばさんの徒労で終わってしまう。ナミ姉さんが消えて、内心胸が張り裂けるばかりに悲しんでいるムスミおばさんに、これ以上の迷惑は掛けたくない。
僕は、中に入ろうとドアノブに手を伸ばし…………
「大体、あんたは昔からおかしいのよ! 何か嫌な事があるとすぐ周囲に八つ当たりして、自分の殻に閉じ籠もって! あの子に“ナオル”なんて名前を付けたのもそうなんでしょ!!?」
……え? リビングのドアノブを掴んだ手が止まる。
「カナちゃんが亡くなったのはあの子の所為じゃない! それなのに、あんな当て付けみたいな命名して! 『直』って漢字を当ててるから普通じゃ気付かないでしょうけどね!」
カナ……。母さんの名前だ。僕を産んで、すぐに死んだ母さんの……。
「“逆境に負けず、強く真っ直ぐ生きて欲しい”? はっ! よくまあそんな綺麗事を言えたもんだわ! あんたがあの子の名前に込めた想いはそんなものじゃなくて……!」
「――やめろ!!!」
父さんが弾かれたように叫ぶと、引きつって張り詰めた顔を上げる。
その瞬間、ドアは流れるように開いて…………。
「なお、る…………?」
「……!? ウソ!? ナオルちゃん……!」
二人の、これまで見たことも無いような、驚きと怯えと恐れと憐れみの目が、僕を――――
「……ル、ナオル!」
「っ!?」
肩を揺すられて僕は跳ね起きた。マルヴァスさんが心配そうに僕を見下している。
「大丈夫か? かなりうなされてたが」
「……いえ、何でもありません。ちょっと、嫌な夢を見ただけで」
「やれやれ、馬車の揺れに当てられたか? ほら、もう止まったから安心だぞ」
「ここは……?」
馬車の中に他の人影は無かった。空は暗くなりかけており、西の彼方が残照に染まっていた。
周囲を見回すと、兵士さん達がテキパキと動き回っている姿が確認出来た。
「今夜はここで野営だそうだ。メルエットももう幕舎に入っている」
「……! す、すみません! 僕だけこんな、寝入っちゃって……!」
「構わんさ。お前はお前で、勉強していたんだしな」
マルヴァスさんに言われて、僕は眠る直前の状態を思い出した。
ジェイデン司祭から貰った“渡り人”に関する本を馬車内で読み込んでいる内に、ウトウトと来てそのまま寝落ちしたんだ。
「お前凄いな。揺れる馬車で読書なんて、俺なら酔って気分悪くなる」
マルヴァスさんがからかうように笑う。
「うぅ……。思ったより、あの揺れる感覚が心地良くて……」
「わはは! 得な体質で結構じゃないか! 何だったらこのまま馬車内で夜を明かすか?」
「いえ、ちゃんとテントで寝ますよ。というか、僕も働きます」
「おう! そうくると思ってよ、薪集めの仕事をメルエットからもぎ取ってきたところだ。一緒に行こうぜ」
「はい。あの、ですが……コバは?」
と、僕が尋ねるタイミングを見計らったように、向こうの暗がりからコバが姿を現した。
「ナオル様、お目覚めでございますですか?」
「コバ!」
コバの手には、大量の枝や枯れ木が抱えられていた。
「一足先に薪集めに行ってもらってたんだよ。というかコバ、お前もうそんな量集めたのか?」
「はい、慣れておりますゆえ」
「ははっ、流石自分から志願するだけあるな。手際が良い」
マルヴァスさんが褒め、コバが照れたように目線を下げる。
「ああ、ごめんねコバ。ひとりで働かせて……」
「とんでもございませんです。ナオル様のご負担を軽く出来るのであれば、コバめは本望でございますです。ただでさえ、お疲れのご様子でございましたし」
「そんなの気にしないで、起こしてくれて良かったのに」
「とてもお気持ち良さそうにお休みになっておられましたので。それに、労働は元よりコバめの役目。ナオル様はお気になさらず、ただコバめにお命じ下さいまし」
「こいつ、うなされてたぞ」
「ちょ……!? マルヴァスさんっ!?」
悪戯っぽい笑みを浮かべて横から付け加えるマルヴァスさんに、ついツッコミを入れる。そんな事言ったら、コバが……!
案の定、コバの顔色が変わる。この薄暗い中でも血の気が引いていくのがよーく見て取れた。
「はっ……!? なんと! まさか悪夢をご覧になっておいでで!? ああ、コバめの無能! なんたる態! ご主人様のお苦しみに気付きもせず……!」
「いやいやいや! 大丈夫だから! ほら、この通り僕は元気元気! ……ていうかマルヴァスさん! 余計な事言わないで下さいっ!」
「はっはっは! 悪い悪い! 俺も気付いたのはついさっきだからコバの落ち度じゃないさ。見ている夢の内容なんて、傍からじゃ分からんしな。非があるというなら、御主人様から引き離した俺だろう」
「いえそんな! マルヴァス様の所為では……!」
「ああもう良いから! 完全に暗くなる前に薪集め終わらせよう! ほらコバ、その薪置いて案内して!」
「は、はいっ! かしこまりましてございますです!」
僕の指示に、コバは背筋を伸ばして表情を改める。落ち込み無限ループに陥りかけたコバを引き上げるにはこの手が一番だ。
そうして僕達は三人揃って近場の森へと足を伸ばした。
「そういや、本にはどんな事が書かれていたんだ? “渡り人”について何か分かったか?」
森の入口付近でせっせと木の枝や落ち葉を拾い集めながら、マルヴァスさんがふと尋ねてきた。
「いえ、真新しい事は何も。前にサーシャから聴いたおとぎ話の内容と似たりよったりでしたね」
手を動かしいながら答える。う〜ん、薄暗い所為で見にくいな……。
「千年前に現れた“渡り人”が、当時暴虐王として大陸を席巻していた独裁者を強力な魔法で宮殿ごと生き埋めにしたとか、七百年の“渡り人”は、世界中で大発生した狂えるグリフィンを魔法の力で鎮めたとか、大まかな事績は書かれてあるんですけどね。要約し過ぎと言うか、詳細部分は全く触れてないので……」
そうなのだ。ジェイデン司祭から貰った本は、いずれも編年体で著された歴史書と言った趣で、この世界の歴史を識るのに役立ちそうなのだが、記述の中身が簡潔過ぎて全体的に薄味なのだ。
“渡り人”の存在に言及しているだけマシなのかも知れない。少なくともこの本の著者は、“渡り人”をただの伝説ではなく、実在した存在として捉えている事が分かるから。ちなみに巻末に著者名があったが、数十年前に死没していた。
「まあ共通点と言えば、“渡り人”が魔法を使って世界規模の大事件を起こしていたり、逆に解決したりしていた事くらいですかね。そもそも『魔法』って何なんでしょう?この《ウィリィロン》にしてもそうですけど、原理が良く分からないって言うか、僕が本に出てくる“渡り人”と同種だとして、本当彼らみたいな魔法を使えるようになるか分からないって言うか、実感が……」
そこまで言って違和感に気付き、僕は顔を上げる。さっきから、マルヴァスさんもコバも全然反応を示さないのだ。
二人は……居た。揃って棒立ちになって、彼方の方へ顔を向けている。薄暗い所為で表情は良く見えなかったが、酷く緊張しているような気配が二人から漂っていた。
「……どうしたんですか?」
「……何か、奇妙だ。地面が僅かに震えている」
「え……?」
言われて僕は動きを止めて、足の裏に意識を集中させた。……言われてみれば、少し振動を感じるような……。
「地震……でしょうか?」
「いや……」
マルヴァスさんが緩やかに首を振る。そうこうしている内に、振動が少し大きくなる。意識しないと分からない程度だったのが、今度ははっきりと伝わってくる。
「ナオル様、マルヴァス様、ご注意を……。だんだんと、こちらに近付いてくるようでございますです……!」
コバが言い終わるか否かという時、森の奥で多数の羽ばたく音が聴こえ、木々の間から鳥達が逃げるように空へと飛び上がって行く様子が見えた。
同時に、揺れる木々と更に強くなる振動。
「やべえ……! ナオル、コバ、森を出るぞ!!」
マルヴァスさんの掛け声で、僕達は薪を抱えて一目散に駆け出した。
転がるように森を出ると、キャンプの兵士さん達も既に異常に気付き、思い思いに武器を構えて臨戦態勢を取っていた。細身の剣を抜き放ったメルエットさんと、その傍で《トレング》を構えるローリスさんの姿もあった。
「森から何かデカいのが向かっている! 真っ直ぐこっちに出て来るぞ!!」
マルヴァスさんが掛けながら手短に状況を報告する。三人揃ってキャンプに駆け込み、一息つく間も無く森の入り口を振り返る。そこでは、まるで異界の門が開いたかのように闇が大口を開けて構えていた。
やがて、その闇の中から吐き出されるように、巨大な黒い塊が唸りを上げて飛び出してきた――――!