第三十五話
「マルヴァスさん!?」
場違いにテンション高く登場したマルヴァスさんに、僕は呆気にとられた。
「……何をお笑いになっているのです、マルヴァス殿?」
メルエットさんがじろりとマルヴァスさんを睨む。空気を読め、と泣き腫らした目が言っていた。が、そんな剣幕もどこ吹く風で、マルヴァスさんは涼しい顔でメルエットさんを下から覗き込む。
「酷い顔になってるぞ。お前がそんなに感情的になるなんて珍しいじゃないか、メリー」
「……っ!?」
メルエットさんは、慌てて袖で自分の表情を隠した。
「あ、貴方には関係ありません! 一々指摘なさらないで下さいます!?」
「おいおい、泣いてる女の子を前に知らん顔をしてちゃ、男が廃るってものだろ?」
「泣いていません! 私は、そのような軟弱者ではございません!」
「別に良いじゃないか、男でも泣く時は泣く。むしろ下手に溜め込む方が心に毒だ。涙を恥じる必要なんて無い」
焦るメルエットさんに対し、マルヴァスさんは余裕綽々といった態度を崩さない。懐から小さく折りたたまれた綺麗な布を取り出し、ニヤニヤ笑いながらメルエットさんに近付けた。
「俺が拭いてやろうか?」
「〜〜〜〜〜っっ!!」
マルヴァスさんから逃げるように、メルエットさんが後退る。そして、
「し、知りません! マルヴァス殿の慮外者っ!!」
トマトさながらに顔を赤く染めて、一際甲高い声で捨て台詞を残し、そのまま足早に立ち去ってしまった。
「慮外者とはまた随分な言われようだな。礼を失したつもりは無いんだがなァ」
マルヴァスさんは苦笑いを浮かべて、ハンカチ代わりの布を再び懐にしまった。それから、置いてけぼりになっていた僕とコバをちらりと見ると、やれやれと肩を竦めてみせた。
「お嬢様ってヤツは分からんよな。慎ましいんだか怒りっぽいんだか」
「あ、あの……マルヴァスさん……」
どう応えていいのか、分からない。喧嘩する僕達を見兼ねて仲裁に入ってくれたのだろうが、やった事と言えば単にメルエットさんをからかって、追い払っただけである。問題が解決した訳じゃない。
戸惑う僕を尻目に、マルヴァスさんは僕が体育座りをしていた階段に腰を下ろす。そして、前を向いたまま言った。
「あいつの事、悪く思わないでやってくれよ。領主の娘ってのも色々あるんだよ」
「……メルエットさんとも、昔からのお知り合いなんですよね?」
「あァ。ここに援軍の一員として派遣された時からな。帝国軍を撃退した後の勝利の宴で、コンラッドの後に付いてよちよち歩き廻ってた。あの時はまだ小さかったが、いつの間にか美人に成長したもんだ」
「美人……そうですね、見た目は」
「中身もそれ相応だよ。竜の所為で、心の余裕を失っているだけさ」
「……そうでしょうか?」
つい突っかかるような言い方になってしまう。彼女とのやり取りが原因で、ささくれのようなものが心の中に凝りとして残っているのは否めない。
マルヴァスさんは振り向いて苦笑いを僕に向けた。
「そこのゴブリン――」
「コバです」
むくれながら訂正する。マルヴァスさんは僅かに吹き出すと、苦笑いを更に深くして続けた。
「ああ、コバに対して言った事なら気にするな。人間ってのは大体、大なり小なりゴブリンには蔑みの目を向けるものだ。あいつが特別って訳でも無い」
「……マルヴァスさんも、そうなんですか?」
「さァね。俺は別に、ゴブリンに親だの友達だのを殺されてはいないからな」
そう言って、コバに目を向けるマルヴァスさん。コバの方はさっきのメルエットさんの件もあってか、彼の視線を避けるかのように顔を伏せた。
「コバがサーシャにとっても、ナオルにとっても大事な存在だって言うなら、俺はそれを尊重するよ」
「マルヴァスさん……」
マルヴァスさんは笑顔で、コバに向かって手を差し出す。
「マルヴァスだ。よろしくな、コバ」
コバは遠慮がちに彼を見上げると、歩み寄らずにその場でお辞儀した。
「ナオル様にお仕えしております、コバと申しますです。何卒、お見知りおきを……」
マルヴァスさんは軽く頷いて、差し出した手を引っ込めると再び前を向いた。
「………………」
僕は、黙って彼の隣に座る。そして、反対側にコバを招いた。
「コバも座りなよ」
「い、いえ……。恐れ多うございますです。コバめは、ここで……」
「そう……分かった」
僕は強要しなかった。そうしてしばらく三人、そのまま無言で時を過ごした。吹き抜ける風が頬を撫でてゆく。
「……サーシャの事は、残念だった」
不意に、マルヴァスさんが神妙な口調で呟く。僕は彼の横顔を見た。亡くなった犠牲者達への悼みの表情が、そこにはあった。
「……友達、だったんです。マルヴァスさんと同じで、この世界に来て右も左も分からなかった僕に、親切にしてくれました」
「良い子だった。マグ・トレドを訪れる度にあの笑顔に迎えられたよ。自分の館に泊まれっていうコンラッドの誘いを、毎回蹴っていた原因だった」
「僕の所為です……! 僕があの時、呆けていなければ……!」
「あの空に打ち上げられて、八方に飛び散った炎な。俺も初めて見た。竜ってのはあんな風に変幻自在に炎を操る事も出来るんだな。灰から産まれる火蜥蜴といい、底知れない恐ろしさだよ」
「今でも、瞼の裏に浮かんでくるんです……。僕を突き飛ばした、サーシャの姿が……!」
「……ああ、辛いよな。友達を亡くすってのは。分かるよ、俺も嫌と言う程味わったからな」
「え…………?」
マルヴァスさんは背中の弓を手に取ると、おもむろに指先で弦を弾いた。
「王都での出征から戦役の終結まで、実に様々な場所を転戦した。元々馴染みの顔触れも多かったが、戦陣で知り合った連中も増えた。コンラッドとかな」
弓に目を落とし、弦を弄びながら、マルヴァスさんは話を続ける。僕は黙って、彼の語り口に耳を澄ませていた。
「一日戦い、二日進軍しながら、少しずつ、そいつらの顔は消えていった。戦場で斃れた者、疫病で逝った者、逃げた者。軍規違反で処刑された者も居た」
「………………」
「俺は今でも、そいつらの顔は忘れちゃいない。そいつらと出会った事、下らない会話で笑い合った事、勝利の宴で杯を交わした事、些細な切っ掛けで喧嘩して仲良く懲罰を喰らった事、死の報せを聴いた事もな」
「マルヴァスさん…………」
「お前も忘れるな。サーシャと出会い、共に過ごした時間を。お前が忘れない限り、あの子はお前の心の中で生き続ける。それで良い」
「僕が、忘れない限り……?」
「少なくとも、サーシャはお前に罪悪感を抱いて苦しんでほしいとか思っていなかっただろうよ。自分の記憶が、前に進む為の糧となるんだったら、あの子もきっと本望だろう。そうは思わないか、ナオル?」
「………………」
僕はマルヴァスさんから目を逸らして自分の膝小僧を見詰めた。胸の中で、彼の言葉を噛み締める。
そうかも知れない。サーシャは決して、僕に恨み言を遺したのでは無かった。コバの将来を鑑みて、僕に希望を託したんだ。僕とコバに、生きろと言ってくれたんだ。
『ありがとう』
サーシャの最期の言葉が、心に蘇る。彼女は、絶望に塗れて死んでいったんじゃない。安らかに、眠りに就いたんだ。
ならば、いつまでも悲しんではいられない。彼女の意を汲んで、笑顔で送り出してこそ…………
「あれ…………?」
膝小僧に雫が落ちる。泣きたくなんかないのに、拭っても拭っても涙が止まらない。どうしてだろう?
「……ナオル」
ぽんと、頭の上にマルヴァスさんの掌が置かれる。
「言っただろう? 泣く事は恥じゃない。堪えなくても良いぞ」
その言葉に押し出されるように、僕は…………
「う……うわぁぁぁぁぁ!!!」
子供のように、泣きじゃくったのだった。