第三十四話
第二章、開幕。
いよいよここから本格的に物語が動き始めます。
マグ・トレドの墓地は、奇跡的に破壊も延焼も免れていた。
サーシャの亡骸は、彼女の父親の隣に埋葬される事となった。
物言わぬサーシャを棺に寝かせ、台車に載せて荒れた街中を進んだ。誰も、一言も発しなかった。
「冥の女神、リア・ライフィル様。彷徨える我が子の魂を、どうかお導き下さい――――」
埋葬を終え、穏やかに両手を組んでサーシャの冥福を祈るシラさんの姿を、僕はまともに見る事が出来なかった。
マルヴァスさん、コバ、ジェイデン司祭も共に祈りを捧げた。
「《始祖竜》様、あなたの思し召しがなんであれ、サーシャは汚れなき無辜の民でございました。その身は既に火で清められておりまする。どうか、大いなる慈悲を持ちて、あの子の霊を慰め給え――」
《竜始教》の敬虔な信奉者であるジェイデン司祭は、いかにも彼らしい文言で手向けの言葉を飾る。
《竜始教》で定める神は《始祖竜》のみ。女神を信ずる行為は、彼の教義では異端に当たる。
リア・ライフィルを含む《三女神》を崇めているのは、現在ダナン王国で主流となっている《聖環教》で、古くから《竜始教》とは対立を繰り返してきたらしい。
葬儀のやり方ひとつを取ってもそうだ。《竜始教》が火葬を旨としているのに対し、《聖環教》は土葬。即ち、今のジェイデン司祭は、己の信仰を曲げてサーシャの為に祈ってくれている。竜の襲撃による犠牲という事実を考慮してくれたんだと、以上がマルヴァスさんの説明だった。
「そう、ですか…………」
僕にとってはどうでも良い事のように思える。サーシャは死んだ。僕のせいで死んだ。もう二度と彼女と話せないし、その笑顔を見る事も出来ない。
現実は、どうあがいても変えられないんだ……。
サーシャの棺を見送り、何処をどう歩いたのかも覚えてないままイーグルアイズ卿の館に戻ってきた。
中庭に続く階段に座り、膝を抱えて顔を埋める。小さな足音が近付いてきて、隣で止まる。顔を上げてみると、コバが所在無さ気な顔でこちらを見上げていた。
「……どうしたの?」
「ナオル様のお傍に控えさせて頂きたく……。コバめのご主人さまは、ナオル様となられましたので……」
サーシャの遺言。忘れもしない。だが、疑問が無いかと言われると嘘になる。
「コバは、それで良いの? シラさんを支えてあげなくても」
「……シラ様も、サーシャ様と同様にお命じになられましたです。自分はひとりでも大丈夫だから、と……」
「僕は、君自身の気持ちが知りたいんだ」
「……コバめには、ご主人さまのご命令が絶対でございますです。ご主人さまのお望みに沿うのが、コバめの喜びにございますです」
「それがぽっと出の、知り合って間もない男に仕えろという命令でも?」
「サーシャ様が、お信じになられた御方でございますです」
コバは遠慮がちに、それでも真っ直ぐ僕を見詰めてくる。それに耐えきれなくなり、僕の方から視線を逸らした。
約束はした。サーシャの最期の願い。破るつもりは毛頭ない。
だが時間が経つにつれ、託されたものの重さが徐々に実感を伴って心にのしかかってくるのだ。
サーシャを守れなかった僕が、マルヴァスさんを始め色んな人に寄生するだけの僕が、コバの主人となる資格はあるのか?サーシャの弟を、預かる資格があるのか?
あるわけが無い。僕なんかが…………。
「僕は…………サーシャが信じてくれたような、凄い人間じゃないよ」
つい、弱気が言葉となって口をついて出てきた。
「――全くですね。貴方にそのような価値があるとは到底思えません」
背中に突き立てられた冷たい声音に驚いて後ろを振り向く。そこにあの人が立っていた。
「メルエット、さん…………?」
腕を組み、きつい眼差しでこちらを睨み付けている彼女。その顔に浮かぶのは怒り、軽蔑、失望、そして――嫌悪。
常に能面を貼り付けたような表情を保っていた彼女が初めて見せる、明確な感情だった。
「伝説の“渡り人”がどういう方かと思えば、とんだ軟弱者。竜を斃す事も出来ず、女の子ひとりも救えず、ひたすら自分の失敗を嘆いているばかり」
口調こそ平坦なままだが、投げ掛けてくる言葉はどれも辛辣なものばかり。
「悲しんでいれば、あの娘が甦るとでも? あの夜死んだ大勢の民や兵達が還ってくるとでも? つくづく良い御身分ですね」
「………………」
何も言い返せず、黙って俯いた。その項に被せるように、メルエットさんの罵声は続く。
「あの娘は死にました。貴方が死なせたんです。貴方は……貴方は、一体何をしていたんです? あの娘の近くに居たのに、結局救えなかった! 逃げ惑うばかりで、竜に太刀打ちすらしなかった! あなたが竜を斃してさえいれば、犠牲者なんて出なくて済んだのに……!」
喋っている内に感情が昂ぶってきたのか、段々と彼女の声に熱が入ってゆく。
「どうしてですか……!? どうして!? 貴方はあの“渡り人”なんでしょう!? 乱れた世界をあまねく平定してくれる、救世主なんでしょう!? それなのにどうして!? なんで、皆を救ってくれなかったんですか!?」
もう涙声だった。彼女の悔しさ、憤りが容赦なく僕の胸に突き刺さる。
違う、と声を上げたかった。あまりにも一方的過ぎる、と反論したかった。僕にだって言い分はあると。
だけど、出来なかった。全部ただの言い訳だから。僕が能無しで無力だったのは、本当だから。僕の所為でサーシャが死んだのは、動かしがたい事実なのだから。
僕は、罪に服する咎人になったような思いで、ただ彼女が遣う言葉の剣で心を刻まれるに任せていた。彼女の怒りを静かに受け止める事が、自分の過ちに対する贖罪になるような気さえしていた。
ああ、そうか……。
きっと僕は、誰かに断罪してほしかったんだ。コバも、マルヴァスさんも、ジェイデン司祭も、シラさんでさえも、サーシャを死なせた事で僕を責めたりしなかった。それが辛かったんだ。何もせず赦された事が、余計に僕の胸を締め付けたんだ。
でもメルエットさんは違う。僕を憎み、罵り、犯した罪を眼前に突き付けてくれる。僕を…………罰してくれる。
だったら、もうこのまま――
「お止め下さい!」
コバの悲痛に訴えかける声に思考が断ち割られる。隣で立ち上がる気配がすると、ペタペタと足音を立てながらコバはメルエットさんに歩み寄った。
「お願いでございますです!どうかそれ以上、ナオル様をお責めにならないでくださいまし!ナオル様は――」
「触るなっ、下郎っ!!!」
乾いた音が空気を震わせた。はっとして顔を上げると、コバが頬を抑えながら後ろにたたらを踏み、尻もちをつくのが見えた。
「コバ!!?」
僕は立ち上がってコバの傍に寄り、しゃがんで彼を支える。抑えた頬が赤く腫れていた。
「下賤なゴブリン風情が、身分を弁えなさい」
冷えた声音に戻ったメルエットさんが、上からコバを睨み付ける。彼女は目から大粒の涙を零し、ビンタを放った姿勢のまま肩で息をしていた。
その姿に、胸を衝かれないではなかったが…………
「……っ! な、何をするんだよ!!」
コバに暴力を振るわれた事への怒りが勝り、僕は立ち上がって彼女に詰め寄った。
「何も打たなくて良いじゃないか! コバを僕を庇ってくれただけなのに!」
「貴方こそ、自分の奴隷のしつけくらいきちんとなさい! 私に触れようとするなど、無礼も甚だしい!!」
彼女も彼女で、切れ長の目を更に吊り上げて再び口調を鋭くする。そんな態度がますます癪に障った。
「コバはサーシャの弟で、僕の友達だ! 馬鹿にしないでくれ!!」
「貴方にとってそいつがどういう存在であれ、ゴブリンはゴブリンよ! 野蛮で汚らわしい、醜い生き物でしかないわ! 本当はこの館にだって入れたくなかったのに! 父の温情に付け上がるのもいい加減になさい!!」
「何様のつもりだよ!!?」
僕は、彼女を指差して更に声を荒げる。
「その服、随分仕立ての良い生地だよね!? 街の人々は戦争の後遺症で今も苦労してるのに、自分はそんな贅沢してさ! 良い御身分じゃないか!!」
「……!? な、なんですって!!?」
「あの夜だって、君は何処に居たのさ!? お父さんが街を守ろうと矢面に立って必死に戦っていたのに!! それを他所に、この館でぬくぬくと過ごしていたんじゃないの!!?」
「…………っ!?」
「他人の事ばっか責め立てて、自分はどうなんだよ!? 人々を守る為に何かしたのか!? 出来る事が無いか、ちゃんと探したのか!? 街の為にひとつだって貢献した事があるのか!? サーシャやシラさんの為に毎日頑張って尽くしていたコバを虐げる権利が、君にあるのか!!?」
「貴方……! 領主の娘に向かってそんな口利いて……!」
「良いと思ってるよ!! 市民の上にふんぞり返って、搾るだけ搾って贅沢三昧して、いざという時は隠れて逃げているだけの人なんて、尊敬出来ないから!!」
「決めつけないでよっ!! 私だって……! 私だって、あの夜…………! ……何よっ! 無能の癖に! メソメソ泣く事しかしてなかった癖にっ!!」
「なんだよ!!?」
もう売り言葉に買い言葉だ。お互い顔を真赤にして、燃え上がる怒りのままにひたすら罵り合う。
「もう、もうお止め下さい!! コバめが悪うございましたです!! お願いでございますから、お二人で争い合うのはお止め下さいませ……!!」
挙げ句にコバまでもが、くしゃくしゃに顔を歪めて泣きながら懇願してくる。
醜い応酬がいつまでも続き、収拾がつかないと思われた時だ。
「いや〜、はっはっは! 若いねぇお前ら! 良いよ、実に良い! 嘴が黄色い内に、思いっきり喧嘩しとかないとな!」
実に愉快そうな笑い声を上げ、手を叩きながらこちらへとやってくる、マルヴァスさんの姿が現れたのだった。