第三十三話
長い廊下を、メルエットさんを先頭に僕ら三人は無言で歩く。
窓の外から覗く空では、彼方まで埋め尽くすように暗雲が立ち込めていて、そこからしとしとと雨が降り注いでいる。竜の炎から街を救ってくれた恵みの雨は、今も止んでいない。
壁には一定の間隔で燭台が置かれてあるとはいえ、空模様のせいで部屋の中よりも更に暗くなっている廊下を、メルエットさんはランタンを片手に静々と進んでゆく。そのランタンの中身は橙色に煌めいてはおらず、淡く灯った青白い光がゆらゆらと揺れていた。
「……避難していた人達、大丈夫なのかな?」
特に考えも無く、誰に問うでもなく呟いた。それに対し前を行くメルエットさんが耳聡く反応する。
「昨日から続く雨でアカリア川の水量は確かに増していますが、氾濫する程ではありません。我が父はかねてから灌漑工事を進めさせており、沿岸の整備も整っておりますのでご懸念は無用です」
「街で大規模火災やら震災やらが起きた時の避難計画は、予め研究されていたからな。地盤の問題で、穴掘って地中に潜るって方法が採れなかったのが残念だがな。精々街の周りに堀を巡らすだけで精一杯だったんだとよ。それも今度の一件じゃあ仇になっちまったが」
「そうなん、ですか……」
ここにもひとつ、イーグルアイズ卿が全身全霊でこの街の人々を護ろうとした証拠がある。今も彼は避難民達のキャンプに出向いているというし、本当に身を粉にして働いているのだろう。領民や兵士達に犠牲者を出してしまった事で、大層胸を痛めているのは間違いない。
そんな彼が、僕やサーシャのみならず、コバも自分の館に入れてくれたという事実……。
サーシャ……。
「……そう言えば、青く光るランタンなんて珍しいですね」
ひたすら暗い方向へ傾き、勝手に乾ききってゆく心を繋ぎ止めようと別の話題を振ってみる。
「これは火ではなく、中に《スファンキル》を入れているからです」
メルエットさんは足を止めることも、振り返ることもせずに答える。
「《スファンキル》?」
「アカリア川の浅瀬や付近の湖畔に現れる、光を発する虫です。マグ・トレドでは燃料を切らした際に、灯火の代わりとしてこれを用いる場合があります」
「へぇ……」
僕の世界で言う、蛍みたいなものかな?
「夜になり、大量の《スファンキル》が舞う様は、それはもう絵画のように神秘的で美しい光景だとか。それゆえ病を癒す妖精とか、死者の霊を慰める精霊などと呼ばれています。無論、ただの迷信ですが」
「死者の……」
「もう火は懲り懲りでしょう? とは言え、廊下に備え付けてある燭台は辛抱して頂きたいところですが。館中を照らすだけの《スファンキル》を確保するのは一両日中では難しいですし、何より避難している民達の慰めが無くなってしまいます」
「いえ、気にしないで下さい……。ありがとうございます、メルエットさん」
相変わらず感情は読めないけど、きっと彼女なりの気遣いなのだろう。素直に感謝するべきだ。たとえ口に出した言葉に、気持ちが込められなくても。
僕は、前を歩く彼女の背中に、そっと頭を下げるのだった。
◆◆◆◆◆
やがて長い廊下が終わり、突き当りの扉に行き当たる。
メルエットさんが扉を守る衛兵に軽く頷いてみせると、それだけで相手は指示を理解したのか、無言でひとつ頭を下げると静かにドアノブに手を掛けた。
扉が奥向に開いてゆく。その動作が、やけに緩慢に見えた。
メルエットさんが静かに中へと入ってゆく。半ば惰性に近い感覚で、僕は彼女の後に続いて足を動かした。
「…………」
そこは僕が寝かされていた部屋と良く似た造りだった。メルエットさんが手にしている物と同一の、《スファンキル》を収納していると思しき青白いランタンが複数、壁やら机の上やらに置かれている。まるで奥のベッドを、その青光で包み込まんとしているかのように。
ベッドの傍には、祈るように縋り付くコバとシラさんの姿。少し離れた位置で、遣る瀬無さげに佇む綺麗な身なりの老人。多分、彼が医師なのだろう。
そして、そのベッドの上で俯せに寝かされている、包帯代わりの布で全身を覆われた、裸の少女――。
「あ、あああ……!」
覚悟していた。覚悟していた筈だった。どんな結果でも、受け止めるつもりだった。
でも、今目の前に映るこの光景は……。僕の前に突き付けられる、この現実は……。
布の間から見える、彼女の皮膚。その尽くが、焼け焦げて赤黒く変色し、所々で激しい水膨れを起こして、歪んでいた。瑞々しかった亜麻色の髪は見るも無残に燃え落ちて、僅かに顔の右半分と右腕の肘から先だけが、元の若々しい肌を保っているだけだ。
「……あれでも、かなりマシな方らしい。事前に水を被っていたお陰でな。じゃなきゃ、灰しか残らなかっただろうよ」
マルヴァスさんが僕の肩に手を置く。しかし、慰める為に言ってくれたであろうその言葉は、殆ど右から左へと抜けていた。
僕はふらふらと彼女に近付いてゆく。脚が自分のものではないように重い。一歩身体を動かす度に、目に映る景色がピントのずれたカメラアングルのようにぶれる。
こちらの気配に気付いたのか、閉じられた彼女の瞼がゆっくりと上がる。
「ナ……オ、ル……」
掠れた声で、僕を呼ぶ。表情を歪め、震える右手を持ち上げて僕に伸ばす。
その手を、同じく震える僕の両手が包み込んだ。
「サーシャ……!」
彼女の名を呼ぶ、僕の声も震えた。視界がぼやけ、頬に熱いものが伝った。
「あいた、かった……!」
サーシャが笑う。笑ったのだと、滲む視界の中で分かった。
「ごめん……! サーシャ……! 僕の、せいで……っ!」
何度もえずきながら、辛うじてそれだけを口に出す。言いたい事は山程あるのにどれも言葉に出来ず、ただ歯痒さだけが募ってゆく。
そんな無様な僕を見ても、彼女の微笑みは変わらない。
「ナオルは、悪くないよ……。キミが、無事でよかった……」
「なん、で……!」
なんで、そんな風に言うんだよ。なんで、そんな風に笑っていられるんだよ……。
「ナオル……あたしね……。キミのこと……初めて見た時から、どこか……他の人と違うなって、思ってた……」
「……!?」
「あの時、ローリスから……あたしと、コバを……助けてくれた……。まるで……おとぎ話の……“渡り人”、みたいに……」
「サーシャ……僕は……!」
「あたし、ね……。本当は……。この世の中が……大嫌い、だった…………。父さんを死なせて……コバを虐める……この、世界が…………」
「…………」
「ナオル……。キミなら、もしかしたら…………」
サーシャは、そこで激しく咳き込んだ。
「サーシャ!?」
「……ねぇ、ナオル……。さいごに、おねがい…………きいて、くれる……?」
「ダメだサーシャ……! もう喋らないで……!」
「ううん……。あたしの身体は……あたしが一番……わかってる…………」
サーシャの儚い笑顔には、諦観の色が強く滲み出ている。
僕はシラさんを見た。シラさんは泣き腫らした目を静かに閉じ、黙って首を横に振った。母親である彼女も、既に全てを悟り覚悟を決めていた。
「コバを……連れて行って……」
「え……?」
「コバを……ここから、連れ出してあげて…………。ここに居ると……きっと、コバにとって……よくない、から……」
「サーシャ……」
コバを見ると、既にサーシャから一度言われているようで、特に驚いた様子もなく無言で目を伏せていた。
「コバは……あたしの、おとうと……。かなうのなら……ずっと……いっしょにいた……かった……」
「サーシャ様……!」
「かあさん、も……いいよ、って……。いって、くれ……た……」
サーシャの目が宙を泳ぎ始めた。意識が朦朧とし始めているのが、悔しいほどはっきりと見て取れた。
「ナオル…………。コバは……きっと…………。キミの……やくに……」
「わかった……っ! わかったよ、サーシャ……! コバは、僕が連れて行くよ……!」
滂沱の涙と共に、彼女に手向ける最後の約束を、万感の想いを込めて口に出す。
行かないで、と心の中では叫び続けていた。神様でも仏様でもなんでも良い、どうかサーシャを助けてあげてくれ! その為に出来る事なら、なんだってしてやる! たとえそれで外道に堕ちようとも、彼女を死なせるよりはマシだ!
……叶う筈が無い。僕は平凡で無力な、ただの子供だ。どれだけ奇跡を渇望しても、残酷な現実は変えられない。
サーシャにしてあげられる事はただひとつ。彼女の、今際の際の願いを、聞き届ける事だけだ……。
「約束する……! コバは、僕に仕えてもらう……! 大切にするから……! サーシャの弟は、責任を持って預かるから……っ!」
サーシャが、安心したように目を細めた。
「あり、がとう…………」
サーシャは目を閉じ、深く息を吸い込むと、ゆっくりとそれを吐き出した。
そして――
再び、彼女が呼吸する事は無かった――。
「う……ああ…………!うううう…………!!」
僕の両手から、力の抜けた彼女の手がするりと抜け落ちてゆく。
僕は、そのまま両手で顔を覆い……
「うわあああああああああ!!!!!」
赤ん坊のように、哭いた――。
異世界に渡って、四日目。
僕は、こちらの世界に来て初めて出来た、掛け替えのない友達を……喪った――。
今回で第一章終了です。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
引き続き、第二章を宜しくおねがいします!