第三十一話
「ん…………」
目を開けると、ぼやけた薄黒色の景色が視界を埋めた。なんだろうとぼんやり考えていると、次第に目の焦点が合い始めて、それが家屋の天井らしいという事が分かってきた。無意識に胸に手をやると、ペンダントの硬い感触はちゃんとそこにあった。
「ここは……?」
自分は今、薄暗い室内でベッドのようなものに寝ている。どうやらそれは分かったけど、前後の記憶がかなり曖昧だ。とにかくここが何処か確認しようと身を起こしかけた時だ。
「あら、起きたのね」
抑揚のない声が傍らから聴こえてきた。誰だと思いそちらへ目を向けると、艷やかな紅色の髪をストレートに伸ばし、切れ長の目に青紫の瞳を添えて、漆黒のインナーの上に同じく黒い薄絹のようなドレスを羽織ったひとりの少女が、ベッドの縁で椅子に腰掛けてこちらを見ていた。宝飾品の類は身に付けていないものの、端正な顔立ちも相まって高貴なご令嬢を思わせる佇まいだ。
「あの、あなたは……?」
「マグ・トレド領領主、コンラッド・シェアード・イーグルアイズが娘、メルエット・シェアード・イーグルアイズ」
極めて事務的な口調で簡潔に自己紹介される。顔の造りは綺麗だが無表情であり、髪の暖色と反比例するように寒色を纏った目も冷たい。
「あ、どうも……」
彼女、メルエットさんの全身から放たれる雰囲気に威圧され、思わず萎縮してしまう。なんだか悪いことをして叱られているような気分だ。
しかし、イーグルアイズか。何処かで聴いたよう、な……
「――っ!!?」
突然、頭の中で爆発が起きたように色々な記憶が一気に呼び覚まされる。僕は沸き起こる衝動そのままに目の前の少女にまくし立てた。
「サーシャは!? サーシャは無事ですか!!? コバは何処に!? マルヴァスさんは!? 竜は!? 街はあれからどうなったんで……うわっ!!?」
感情を一気にぶち撒けながらベッドから降りようとするも、縁に躓きバランスを崩して危うく下に落ちかける。なんとか体勢を維持して安堵の一息を漏らし、再びメルエットさんに目を戻すと、相変わらず彼女は眉ひとつ動かさずにこちらを見ていた。
「お嬢様、如何なされました!? ご無事ですか!?」
部屋のドアが開き、割烹着のような服を着込んだ年配の女性が飛び込んでくる。扉の外では、険しい顔をした衛兵らしき鎧姿の人も身構えて立っていた。
「大丈夫よ、別に何もされてない。それよりも、マルヴァス殿に『友人が目を覚ました』と伝えてもらえるかしら?」
「しょ、承知致しました……。ただちに」
割烹着姿の女性は、怯えたような目で僕とメルエットさんを交互に見渡しながら部屋を出ていった。一礼した衛兵さんの手で静かに閉じられた扉を感情のない目で一瞥すると、メルエットさんはつまらなそうに説明する。
「失礼したわね。彼女はこの館で働いてもらっているメイドよ。あなたが寝ている間の世話を任せていたんだけど、今は私が尋ねているから、表で待機させていたの」
「あ、そう……なんですね……」
メイドさんだったのか。正直、彼女が介入してくれて助かったと思った。取り乱していた心が、少しだけ落ち着いた。
「順番に話すわ。黙って聴いて」
メルエットさんはそう前置きしてから、一切の感情を込めずに淡々と話し始めた。
「まず竜だけど、やりたい放題やって満足したのか、夜明けを迎える前に彼方の空に去っていったわ。それから間もなく雨が降ってきた事もあって、街の炎も既に鎮火。蔓延っていた火蜥蜴達も一匹残らず姿を消したみたい」
「…………」
僕は息を詰めながら、一字一句聞き漏らさないよう彼女の話に集中する。
「避難民達は現在、アカリア川のほとりに集められているわ。収集が着くまで彼らを街中に帰す事は不可能。我が父、イーグルアイズ伯爵はそちらの視察に出向いていて不在」
「じゃあ、サーシャもそこに……!?」
思わず口を挟んでしまった。途端に彼女の目がすっと細まる。初めて感情らしいものが垣間見えたけど、残念ながらそれは不快感の顕れらしかった。
「ごめん……なさい……」
尻すぼみな謝罪の言葉を述べて、ペンダントの閉じられたロケットを指でいじりながら縮こまるように頭を下げる。そんな僕に呆れたのか、それとも許したのかは定かではないが、彼女は一度目を閉じ短い溜息をひとつ挟んで話すのを再開した。
「あなたが今居るここは領主の館。我が父の計らいで、保護されてきたあなたに一室を充てがったの。あなた、丸一日以上眠っていたのよ」
もう、あれから一日以上……。
脳内で“あの時の光景”がリフレインする。
コバに止められながら堀から身を乗り出し、狂ったようにサーシャの名を呼び続けた僕は、あのまま気を失ったのだ。
悪い夢なんかじゃない。あの時、サーシャは僕を庇って空から落ちてきた火球に飲み込まれた。そのまま、壊れた跳ね橋ごと堀に落ちて……。
「…………」
心臓の鼓動がどんどん早くなる。息も荒くなり、いじっていたロケット部分を痛いほど握り締める。
『サーシャは無事か!?』だって? 誰よりも近くで見ていたくせに、よくもそんなセリフが言えたものだ。
先を聴くのが怖い……。不安で押し潰されそうだ。
そんなこちらの心情を知ってか知らずか、メルエットさんは無頓着に続ける。
「マルヴァス殿もここに滞在されているわ。先程呼びに行かせたから、もうそろそろ来るでしょう。南城門の焼け落ちた跳ね橋付近で倒れていたあなたを見つけたのも彼よ」
さっきの、メイドさんとのやり取りを思い出す。マルヴァスさんは無事だった。それは紛れもない朗報で、嬉しい事な筈だけど……。
「それから、あなたと一緒に居たあの薄汚いゴブリンと、サーシャっていう町娘の事だけど……」
「……っ!」
早鐘を打っていた心臓が、鷲掴みされる。世界から全ての音が消え、時間が止まったかのような錯覚さえ覚える。
「あの娘と、あのゴブリンも、この館に居るわ」
僕は、荒い息を抑えてメルエットさんの目を見る。冷たい青紫の瞳が、射るように僕を見据えていた。
無表情を保ったまま、彼女はゆっくりと口を開く。そして、まるで僕を試すようにこう言った。
「……会いたい?」




