第三十話
大通りへと引き返す道すがら、僕もサーシャもコバも無言だった。揺らぐ炎色で縁取られ、舞い上がる火の粉で装飾された道をただひたすら突き進む。
走り続けながら、僕はローリスの言葉を脳内で反芻していた。
矢鱈と騎士に拘り続けた彼。粗野な言動と傍若無人な振る舞いの奥に隠された、癒やされない哀しみ。
僕は、ひとり奥歯を噛みしめる。
ローリスには、帰る場所なんて無かった。心の拠り所を失い、縋れる繋がりを喪い、残った物は一振りの剣と、己が夢だけ。擦り切れて襤褸のように成り果てた立身出世の夢だけが、ぎりぎりのところで彼を支え続けていたんだ。
勿論、それで彼の行いが正当化される訳じゃない。コバを殺そうとし、サーシャとシラさんに危害を加えたという事実は決して消えない。今思い返しても、腸が煮えくり返る思いだ。
だけど、たとえ容認出来なくても、どれほど怒りを募らせても、彼を憎む気持ちだけは薄まっていた。
ローリスという男は、決して悪鬼羅刹などではなく、ひとりの人間だった。
そんな当たり前の事実が今になって心に沁み渡る。一言では言えない感情が、胸の内に燻り続けている。
そして、と僕はふと気付いた。
サーシャとコバも、ある意味ではローリスと同じだという事に。
今まさに故郷を焼かれ、家も生活も何もかもが奪われ、僅かに互いを守って生き延びようと足掻く無辜の民。違うのは、頼れる存在が居るかどうかだけ。縋れる絆があるかどうかだけ。
じゃあ僕は? 僕はどうなんだ?
故郷から引き離され、異邦の地で翻弄され続ける僕。帰る所は、ある。あの家。父さんの待つ我が家。だけどあの人と僕の間に、果たして親子の絆はあるのか? 僕とまともに目も合わせてくれない父親なのに?
僕の原点は、むしろ……。
首のペンダントをもう一度握り締める。
ある日急に消え、今も何処に居るのか分からない、ナギ兄さんとナミ姉さん。僕に愛情を教え、人間性を与えてくれたのは、あの二人だった。
もしかしたら、僕と同じでこの世界に飛ばされたのかな? それならいつか、出会えるかな?
……いや、それは無い。《渡り人》が現れたのは二百年ぶり。兄さんと姉さんが失踪したのは僅か二年前だ。期待するな。しちゃダメだ。
それでも、二人の残してくれたものは、計り知れないほど大きい。二人から学んだ想いは、僕の中で確かに根付いている。
絆とは、自分で築いてゆくものだ。
立ち上がる力は、自分で育んでゆくものなんだ。
父が僕を見ないなら、僕の方から歩み寄れば良い。たとえ避けられても、構わず寄り添えば良い。そうすれば、いつかは分かりあえる。本当の家族になれる。
サーシャとコバがそうであるように。
サーシャはゴブリンであるコバを『家族』だと言った。決して、隷属させるだけの奴隷じゃないと。コバの方は、それを受け入れる心の準備がまだ出来ていない。けれども、いつかはやがてサーシャの気持ちを受け止められる日が来るだろう。そしてそれが、困難に立ち向かう力になる。
家を焼かれたなら、また建て直せば良い。財産を失ったなら、また一からやり直せば良い。思い出を壊されたなら、また新しい思い出を作れば良い。
生きてさえいれば、前に進む意志さえあれば、きっと出来る。ローリスのように、負の方向に足を踏み出したりはしない。
だからこそ、僕達は――
こんな所で、死ぬ訳にはいかない。
◆◆◆◆◆
「やった! 大通りに出たよ! あとはここを真っ直ぐ行けば……!」
先程シラさんと別れた場所に辿り着き、あと一息だと脱出の希望が胸に灯る。
しかし、何気なく奥側の方を見た僕は愕然とする事となった。
火蜥蜴の群れを食い止めていた兵士さん達が、全滅していた。
物言わぬ骸と化した兵士さん達を貪り喰らう火蜥蜴達。何人かの遺体は、火蜥蜴の火に焼かれ既に炭化していた。救いは、その中から新たな火蜥蜴が産まれてくる気配が漂っていない事だ。どうやら竜の吐く炎だけが特別で、火蜥蜴の火には同族を殖やす効果は無いらしい。
「ナオル……!」
サーシャが声を震わせて僕を見る。
「逃げよう……! 城門までもう少しだから……!」
僕達が踵を返そうとした時、まるで計ったようなタイミングで火蜥蜴達が一斉にこちらを見た。
「……っ!? 走れ……! 走るんだ、サーシャ! コバ!」
ここまで来て諦めるものか。城門を目指して、もう何度目かの全力疾走をする僕達の背後から、火蜥蜴達の地を踏みしめる音が容赦なく追ってくる。
僕は《ウィリィロン》を鞘から抜き、気持ち脚を緩めて最後尾に付いた。絶対にサーシャとコバには手出しさせない。火蜥蜴達に追いつかれようものなら、僕が盾になって戦う! そんな覚悟を握り締めた剣の柄に込めて駆け続ける。
それから間もなく、目当ての城門が視界に現れた。当然ながら門は開かれており、跳ね橋もきちんと掛かっているようだ。
「コバ……! ナオル……! もう少しよ! 頑張って!!」
待望の脱出口を見てサーシャの声も弾む。だが背後で鳴り響く振動との距離は少しずつ、確実に縮まってきている。
走りながら背後を振り返ると、火蜥蜴達の群れはもう目と鼻の先にまで迫ってきていた。どうやら連中の脚は想像していたよりもずっと速いらしい。このままでは、城門を潜り跳ね橋を渡る前に追い付かれてしまう。
や、やるか……!?
肚を括り、身体を反転させようとした時だった。
先頭を走る火蜥蜴の額に、一本の矢が突き立った。ビクッと身体を硬直させ、投げ出すように地面に倒れ伏す火蜥蜴。
何やらデジャブを感じる光景である。
はっとして前に目を戻すと、城壁の上に予想通りの人物の姿があった。
「走れ、ナオル! サーシャ! 後ろは気にせず、そのまま駆け抜けろ!!」
「マルヴァスの旦那!?」
サーシャは大層驚いたみたいだ。行方の知れなかったもうひとりのお客さんが、こんな所に居たなんて思わなかったのだろう。僕もそれは同じだ。
竜を抑える為にイーグルアイズ卿と共に市場に残った彼。どうやら無事だったみたいで僕は密かに胸を撫で下ろした。
そんなこちらの胸中など知る由も無く、マルヴァスさんは城壁から身を乗り出しながら、続けざまに二の矢、三の矢を放つ。後ろで肉を貫く鈍い音と火蜥蜴の短い鳴き声が連続する。
(マルヴァスさん……! ありがとうございます!)
心の中でお礼を述べつつ、僕達は脇目も振らず城門目掛けて直進する。あれほど近かった火蜥蜴達の足音も、マルヴァスさんの射る矢に妨げられて次第に遠ざかって行った。
城門へと差し掛かった時、門番を司る衛兵達がぱらぱらと飛び出し、僕達の背後へと回り込む。矢で斃されなかった火蜥蜴を食い止めてくれるつもりだろう。
その中とひとりと、すれ違いざまに目が合った。僕の容姿を見て女のようだとバカにした、あのビダロフという兵士さんだった。
引きつった表情で、それでも市民を守ろうという決意を滲ませて、彼の姿は視界の端に流れていった。
「――死ぬなよ、女男」
そんな呟きが聴こえた気がした。気の所為だろうか?
城門を抜け、跳ね橋へ飛び乗る。下では、マグ・トレドを囲む堀が大口を開けている。中は来た時以上に闇で覆われており、底の方は全く見えない。実際の深さはどれくらいか知らないが、少なくとも落ちたらすぐに上がってこれる程浅くはないだろう。この堀を越えれば、竜はともかく火蜥蜴は追ってこれない。
「サーシャ! コバ! やったよ! 外に出られた!」
「ええ! 後は、丘の麓のアカリア川のほとりまで逃げられれば……!」
「サーシャ様、ナオル様、この先は道が暗うござりますれば、僭越ながらコバめに先導のお役目をお与え頂きたく存じますです! ゴブリンは皆、夜目が利きますゆえ!」
「分かってるわ! お願いね、コバ!」
何処と無く気持ちが弾んでいるようなコバの提案に、サーシャが嬉しそうに応じる。気付けばもう跳ね橋の先端辺りまで到達していた。
ああ、良かった。サーシャもコバも無事で。後はマルヴァスさんだけだ。これまで見た感じ、あの人はかなり戦闘に長けている。十年前の戦争から何度も場数を踏んだ経験が物を言っているのだろうけど、心配なものは心配だった。
上手く機会を見計らって、脱出してくれると良いけど……。
そんな思いを込めて、城壁を振り返った。
その次の瞬間――
「えっ――!?」
余りに想像の範囲外で、一瞬言葉を失う。自分が目にしているものが信じられなくて、目を瞬かせる。
それは最初、尾を引きながら天に昇ってゆく一筋の光明だった。それがある一点に達した時、八方に割れて周囲に広がった。
「花火……?」
この世界で花火? と、間抜けな疑問が頭を占める。
そんな筈が無い。しかし、今空に打ち上げられたものを例えるなら、僕には『花火』という言葉しか浮かばない。
「どうしたの? ナオ……ひっ!?」
怪訝そうなサーシャの声が、恐怖の色を帯びる。殆ど同時に、僕も空に打ち上がった『花火』の正体に気付いた。
割れた光明の欠片は大気中で燃え尽きたりせず、むしろ何処までも広がってゆく。その中のひとつが、僕達の居る場所へ真っ直ぐ向かってきていた。
どんどん近づいてくるソレは……。
ぐんぐん巨大になるソレは……。
特大の、炎の塊だった――。
隕石というものを間近で見られれば、きっとこんな形をしてるんだろうな。
そんな場違いな思考が脳裏をよぎる。安心しかけていた所為だろうか、僕の足は咄嗟には動かなかった。
ああ、折角ここまで逃げてきたのに――
「ナオルっっ!!!」
突然、誰かが僕の身体を突き飛ばした。
バランスを崩し、よろける僕の目に、両腕を突き出したサーシャの強張った顔がはっきりと映る。いつの間にか僕の前に回り込み、跳ね橋の向こうへ押しやろうとしたんだ。
それを理解した瞬間、僕は我に返る。
「サ……!」
仰向けに倒れながら、それでもサーシャに手を伸ばす。決して届くことは無いと分かっていても――
「お客さんの安全は、守らないとね」
サーシャが、優しく微笑んだ。
直後――
炎の塊が、跳ね橋を直撃した。
サーシャも、足場を形作る丸太も、支えの鎖も、全てを飲み込んで――
崩壊した跳ね橋ごと、堀の中へと落ちてゆく。
「サーシャ様……!」
地面に倒れかけた僕を支えたコバが、絶望の声を上げる。
僕は、コバの腕を乱暴に振りほどいて堀の縁に縋り付く。
「サーシャ……!! サーシャーーーーーーッッ!!!!!」
喉が張り裂けんばかりの絶叫を上げ、更に堀の向こうへと乗り出そうとする。
すると誰かが僕の腰を掴んで引き止める。言うまでもなく、コバだった。
「なりませぬ……! なりませぬ、ナオル様……!!」
涙を滲ませて、必死に僕を引き止めるコバ。小さな体躯に似合わない、強い力だった。
それにも構わず、闇の中で轟々と蠢く炎に向かって、狂人のように僕は叫び続けた。
ずっと、ずっと――。




