第二十九話
意外というか、実に想定外な展開が待っていた。
逃げる機会を見計らい、物陰に隠れながら竜の気息を窺っていた僕達の誰が、ここで『彼』が出てくる事など予想出来ただろうか。
「うおおおおおおおおお!!!!」
剣を逆手に構えたローリスが、真下に来た竜の頭目掛けて屋根上から飛び降りる。
彼の声に気付いた竜が上に首を巡らす前に、ローリスは剣先をその頭頂に叩き込んだ。
――ッ!?
竜が、僅かに悲鳴のような細い鳴き声を上げた。
「うあああああ!! ああ! がああ!!!」
狂ったように吠えながら、竜の角を掴んで頭上に陣取ったローリスが、続けざまに何度も何度も剣を叩きつける。一度、二度、と振り下ろされる度に、火花か、あるいは剥がれ落ちた鱗か、はたまたこぼれた刃か、正体の分からない飛沫が舞った。
「ちょっと!? あいつ、ローリスじゃない!? 一体何やってんのよ!?」
僕の後ろから身を乗り出したサーシャが、信じられない物を見たように驚きの声を上げる。
「竜を、討ち取ろうとしているんだ……!」
「冗談でしょ!? いくら何でも無茶よ! どうしようもない乱暴者だと思っていたけど、あそこまで見境が無いなんて!」
「でも本気だよ、あの人……!」
僕は歯ぎしりすら混じえながら彼らの戦いに見入った。
竜はローリスを振り落とそうと激しく暴れている。身体を波打たせ、前後不覚になって家屋に激突し、尾が茅葺きの屋根を破壊する。上下左右滅茶苦茶に揺り動かされる頭の上で必死に踏ん張りながら、それでもローリスは攻撃を止めない。鬼気迫る光景だった。絶対に竜を討つという、彼の不退転の決意が顕れている。
「……ナオル、行きましょう。今の内に逃げないと」
サーシャが、どことなく遠慮がちにローブの袖を引っ張る。確かに彼女の言う通りだ。これは千載一遇のチャンス。竜がローリスに気を取られている間に僕達は逃げられる。ここを逃せば、次は僕達が見つかって標的にされる。
それは分かる。分かるんだけど……
「ローリスはどうするの?」
僕が言うと、サーシャは眉を顰めて目を逸らす。それから、苦いものを吐き出すように答えた。
「……あたし達は、あたし達が生き残る事だけ考えるべきよ」
その通りだ、サーシャが正しい。第一、ローリスは行きずりの人間どころか僕達を殺そうとした悪漢だ。憎みこそすれ、親愛の情など一欠片も湧かない。ましてや竜に斬り掛かったのは本人の意志である。彼が作ったこの状況を利用するのは、僕達が持つ当然の権利と言えるんじゃないか? 彼が僕達にした事に対する罪滅ぼしとして、享受して良い好機なんじゃないのか?
彼の事なんて、助ける義理も価値も無い。竜に殺されても、当然の報いだ。
その筈だ。その筈、なんだけど……。
「…………」
手の平を強く握り締める。抑えがたいざわつきが胸の内に広がり、僕の目は自然と辺りを見渡していた。
すると、放置されたものと思われる、干し草を満載した荷車が視界に留まった。
胸のざわつきが更に激しくなる。
僕は、殆ど衝動的に口を開いた。
「サーシャ、コバを連れて先に行ってて」
「え? ナオルは……?」
「僕も後から追いかけるから!!」
言うが速いか、僕は荷車に向かって走り出していた。取っ手に飛び付き、押そうとする。
「くっ……! 重い……!」
目論見に反し、干し草を積んだ荷車は予想以上に重く、中々前へと進まない。僕は悪戦苦闘しつつ、必死に腕を突っ張って荷車を押し続ける。
その間にも、ローリスは限界を迎えつつあった。度重なる脳天への攻撃も然程の効果を得られず、収まらない竜の挙動にとうとうバランスを崩し、剣を握り締めながら角にしがみつくのがやっとの状態に陥っていた。
(急げ! 彼はもう保たない……!)
心の中で必死に自分を叱咤する。だが、焦りに反して荷車は遅々として進まない。
「え……!?」
僕は目を疑った。取っ手を握る自分の手の横に、別の手が添えられたのだ。
「キミの事、優しいって言ったけど、訂正するね!」
僕の隣に並んだサーシャが、苛立ちと、それでいて何処か明るさを含んだ調子で言った。
「キミはとびきりのお人好しだよ! それと、度し難いくらい無謀!!」
荷車を押す力に、サーシャのそれが加わる。続いてコバも、荷台の部分に張り付いて足を踏ん張る。
「真に僭越ながら、コバめもサーシャ様と同感でございますです!」
「サーシャ……! コバ……!!」
こみ上げるものをぐっと堪えて、取っ手を握り直す。
「君達も、同じだろ……っ!」
素直に感謝を述べるのは照れくさくて、つい僕もそんな軽口を返すのだった。
三人の力が加えられた荷車は、瞬く間にスピードを上げて荒ぶる竜の足元へと迫ってゆく。その真上では、いよいよ限界に差し掛かったローリスが、最後の反撃を試みようとしていた。
彼は両脚を角に絡めると、それまで掴んでいた両腕をそこから離した。脚だけで体重を支える形となり、宙ぶらりんになった彼の身体が、暴れ続ける竜の動きに合わせてぶらぶらと揺れる。
ローリスは逆にそれを利用し、勢いをつけて身体を仰け反らせると、再び逆手に構えた剣を思い切り突き出した。
狙った先は、赤々と光る竜の眼である。
剣先が見事に眼の中心を捉え、竜は思わず怯むように目を閉じると『痛い』と言わんばかりに悲痛な叫びを上げ、大きく首を振り上げる。
そこがローリスの限界だった。彼の脚が竜の角から外れ、脱力した身体が虚空に打ち上げられ、放物線を描きながら地面に向かって落下する。
「サーシャ、もう少し前!」
僕達は急いで落下地点に荷車を移動させた。幸い、目測を誤る事も無く、宙に投げ出されたローリスの身体と剣は共に干し草の上にダイブした。
「……ああっ!?」
何が起こったか分からない、という顔でローリスが身体を起こし、こちらに目を向ける。その姿を見て、僕は密かに安堵した。結構な高さから落下したのにも関わらず、大丈夫そうだ。
「テメェら……!?」
「あはは、どうも……」
僕達を見たローリスが、一概には言えない何とも複雑な表情を浮かべる。彼の頭の中ではさぞかしハテナマークが踊っている事だろう。
「クソガキ共が、一体何のつもりだ!?」
「あ〜、まぁ、成り行き……?」
「ふ……!」
『ふざけるな』と言おうとしたのだろう。しかし、ローリスはそのセリフを飲み込んだ。
竜が怒りの咆哮を上げ、僕達を睨み据えた。刺された方の眼は、さっきと寸分違わず赤い光を放っている。
「無傷かよ、ちくしょう……! 手応えでそうじゃねェかと思ったが、目ン玉まで鋼みてェに硬いのかよ……!」
ローリスが慄きながら忌々しげに吐き捨てる。彼の起死回生の一撃は、失敗に終わっていたのだ。
「やばい……!」
怒れる竜を目の前に迎えて、僕は全身の血の気が引くのを感じていた。
どうする? 身を隠せる場所と言えば、この荷車の下だけ。だが、それだと竜がどんな攻撃をしてきても到底防ぎ得ないだろう。かと言って、周りの民家までは遠すぎる。走っても間に合わない。辿り着く前に全員殺される。
詰んだか? ……いや、ひとつだけ可能性がある。
魔法の短剣、『ウィリィロン』なら――!
僕は、荒い息を吐きながら腰に手を伸ばした。
サーシャを守る為なら、きっと立ち向かえる。
ここが正念場だ、抜け! 抜くんだ、僕! 火蜥蜴を斃したように、あいつも――!
「こっちだ!!!」
突如、何処かから風切り音が聴こえたと思うと、竜の背に何かがぶつかる。例のごとく鱗に弾かれて僕達の足元に転がったそれは、クロスボウの矢だった。
出し抜けに自分目掛けて飛来した矢に反応して、竜が背後に首を巡らす。
そこには、馬に跨ったイーグルアイズ卿がクロスボウを構えていた。
「我々の戦いはまだ終わってはおらんぞ、《棕櫚の翼》よ!!」
クロスボウをしまい、背中に背負っていた大盾とメイスを手に装備するイーグルアイズ卿。真紅のマントはボロボロに破れ、白銀に輝いていた鎧も所々が煤け、ひび割れて破損している。
ここに至るまで、彼が如何に激しい戦いを経てきたか、その姿が良く物語っていた。
「さあ、来い! 決着を付けようではないか!!」
イーグルアイズ卿の挑発に応じるように、竜が身体を旋回させる。
「――!? 危ないっ!!」
咄嗟に僕はサーシャとコバを庇って地面に伏せる。ローリスも、素早く干し草の上から飛び降りて同様に身を伏せた。
直後、竜の尾が唸りを上げて僕達の頭上を通り過ぎる。荷車は粉々に大破し、積まれた干し草が辺りに飛び散った。
そんなこちらの状況に、竜は最早興味を示さず、イーグルアイズ卿目掛けて突進する。
それを確認したイーグルアイズ卿は、馬首を巡らして一目散に逃走を図った。当然、竜はそれを追ってゆく。
あの人は、僕達を逃がす為に、囮を引き受けてくれたんだ……!
遠ざかってゆく彼と竜の背を眺めながら、僕達は立ち上がった。
「……行こう。領主さんも、きっとそれを望んでいる」
「……ええ」
「領主様……」
サーシャは、そしてコバも、言い尽くせない悲しみを顔に表して彼方を見つめていた。グラスさんの件もあるし、二人共イーグルアイズ卿には特別な想いがあるのかも知れない。
「ローリス……さんも、一緒に行きませんか?」
僕は、心に未だ残る蟠りを隠して彼にも声を掛ける。しかし、彼は僕の言葉を無視するように、振り返る事もせず前に足を踏み出した。
「……何処に行くんです?」
「決まってる、《棕櫚の翼》を殺る」
顔を前に向けたまま、冷たい言葉だけが返ってくる。
「もうやめましょう。死んでしまいますよ?」
「テメェには関係ねェだろ」
「……どうして、そんなに必死になっているんですか?」
「…………」
ローリスは沈黙したまま答えない。サーシャとコバが、不安そうに僕を見る。
僕は、意を決して更に言い募った。
「あの竜を見たでしょう? 頭や目ですら全く攻撃が通らないんです。あんなの、人間の手には負えませんよ。いくら功名を立てても、死んでしまったら意味が無いでしょう?」
「…………」
「ローリスさん。あなたの雄姿は、僕がこの目で確かに見ました。本当に凄かった。竜に立ち向かうなんて、普通なら無理です。でもあなたは挑んだ」
「…………」
「あなたは勇敢な戦士です。何処にでもいるゴロツキなんかじゃない。少なくとも、その点において僕はあなたを尊敬します」
「…………」
「もう十分じゃないですか。たとえ騎士と認められなくても、あなたの勇気は変わりません。何も騎士を目指すだけが人生じゃないでしょう? 故郷に帰って、ご両親を安心させて……」
「……ねェよ」
「え……?」
背中をこちらに向けたまま、僕の言葉にローリスが割り込む。
「もう家族はいねェ。俺の村は帝国軍に焼かれた。畑は荒らされ、井戸には毒が投げ込まれ、家々は無残に破壊された。両親はマグ・トレドに避難してて無事だったがよ、廃墟と化した村をどうにか復興させようと無理をして、身体を崩して死んじまった」
「……!?」
言葉が、出なかった。
「俺がそれを知ったのは、全てが終わっちまった後だ。騎士に憧れて兵役に志願した俺を、親父もお袋も応援してくれた。だから、どれだけ苦しくても俺を呼び戻そうとはしなかった。俺の方も、手柄を立てようと必死で、両親も故郷も顧みる事は無かった」
「…………」
「もう、これしかねェんだよ」
ローリスは、手に持った剣を顔の前に掲げた。きっと、戦死した兵士の遺体から拝借したものなのだろう。彼の愛剣は、既に折れてしまっているから。
僕が、折ってしまったのだから。
「俺に残された道は、これしかねェ。あの竜を殺す。その手柄をイーグルアイズに認めさせる。俺は騎士になるんだ。騎士になって、親父とお袋の墓前で報告してやるんだ……!」
「ローリス、さん……」
ローリスは、少しだけこちらに顔を傾けて、言った。
「……行けよ。テメェらは逃げな。“善良な市民を守るのは騎士の務め”、なんだからな」
「……っ!」
「じゃあな、クソガキ共」
その言葉を最後に、ローリスは竜が去った方へ駆け出した。周囲の炎が揺らめき広がり、彼と僕達を隔絶するように道を埋めてゆく。
僕もサーシャもコバも、無量の感を抱いて炎に溶けてゆくローリスの背を見送った。