第二十八話
サーシャと共にコバを見つけ、三人でさあ逃げようとした矢先に、とんでもない障害が空から降ってきた。
竜の赤い眼が、情けなく尻餅をついた僕に容赦なく注がれる。圧倒的な存在が放つその妖しくも煌めかしい眼光は、矮小な人の身に過ぎない僕を凍り付かせるには十分だった。
「ひっ……!?」
サーシャの息を呑む声がする。何かの冗談であってくれと、きっと彼女もそう思っているだろう。
そんなこちらの願望も虚しく、現実の竜が無慈悲に前脚を振り上げる。
「危ない!!」
次にどうなるかが分かりすぎる程分かり、僕に掛けられた金縛りが一瞬の内に解ける。
殆ど這うようにして立ち上がると、棒立ちのまま後ろに控えていたサーシャとコバを突き飛ばすように奥へと押しやった。
直後に、竜の巨大な爪が玄関に叩き込まれる。
扉は粉砕され、一瞬前まで僕の身体があった場所が大きく抉れる。床に打ち込まれた爪を見て、僕はごくりと生唾を飲み込んだ。
少しでも動くのが遅かったら、僕は蟻のように潰されていただろう。
床と軒先を削り取りながら竜の爪が後退して行き、すっかり見通しの良くなった玄関の向こうから、今度は竜の頭が覗き込んでくる。牙の隙間から吹き出る炎が見えた。この次の展開も言わずもがな。
「逃げろ! 中庭だ!!」
サーシャとコバの背中を押すと、二人も弾かれたように走り出す。
僕達は脇目も振らず一目散に調理場に駆け込み、中庭に続く扉を開け放つ。
サーシャ、コバを先に通して最後に僕が外に飛び出そうとした時、背後に凄まじい熱気と圧力を感じた。
「うわぁっ!!?」
僕は鞠のように吹き飛ばされ、中庭の芝生の上を転がる。背中から焦げるような音と匂いが漂ってくる。
「ナオル!!」
「ナオル様!!」
サーシャとコバが僕を引き起こし、羽織っていたローブを急いで脱がしに掛かる。芝生の上に脱ぎ捨てられたローブは、直前に水を被っていたお陰もあって燃えてこそいないものの、一部がすっかり乾いて焦げ目まで付いていた。
「大丈夫!?」
「うん、どうにか……。くそ……! マルヴァスさんからの借り物なのに、傷物にしちゃったよ……!」
僕は脱ぎ捨てたローブを拾い、パタパタと手で叩いてから再びそれを羽織った。恩義のみならず、彼に対する借りがどんどん積み重なってゆく。
「ああっ……! サーシャ様の宿が……!」
コバの悲痛な声が上がる。サーシャの宿は、既に炎に包まれていた。
「…………!」
炎上する我が家を、サーシャは無言で睨み付ける。しかしそれも僅かな間で、すぐに彼女は吹っ切るように中庭を囲む石塀に視線をずらした。
「あそこから出られる。急ぎましょう!」
まだ未練を断ち切れないように宿の方を眺め続けるコバを促し、サーシャは石塀の傍へと移動する。そしてしゃがみ込むと、その手をコバに向けて差し出した。
「さあコバ、先に登って」
「ええっ!? とんでもございません! サーシャ様を差し置いてコバめが先などと!」
「つべこべ言わない! 時間が無いのよ!」
「で、ですが……!」
逡巡するコバを見兼ねて、僕はサーシャの傍に身を屈める。
「サーシャ、僕が足場になるから君から先に。上でコバを引き上げてやってよ」
「ナオル、良いの?」
「勿論、さあ早く」
「……悪いわね」
サーシャが遠慮がちに僕の肩に足を置く。掛けられる体重と共に水に濡れたロングスカートが頭上に被せられ、雫が髪の上に滴った。
石塀の高さは僕より頭ひとつ分あるかどうかだ。両足を僕の肩に乗せたサーシャならギリギリ縁に手が届く。
「掴んだわナオル、持ち上げて」
サーシャの指示を受け、僕は彼女の両足を掴んでそのまま立ち上がる。
……結構重い。これは服が水を含んでいるせいだ。そうに違いない。決してサーシャが重い訳じゃない。
「……スカートの中、覗かないでよ?」
「だい、じょーぶ……! それより、登れそう……!?」
「うん、どうにか……。よしっ、良いわ!」
肩の重みが消える。サーシャは無事石塀を登れたようだ。
「次、コバの番だよ」
「ナオル様……」
「遠慮する暇も無いよ、さあ!」
僕は問答無用にコバを両脇から抱え上げる。当然といえば当然だが、子供のような体躯のコバはサーシャと比べれば遥かに軽く、非力な僕でも難なく持ち上げられた。
「コバ!」
石塀の上から手を差し伸べるサーシャに向かってコバを近付けると、コバは物凄く遠慮がちに彼女の手を掴んでそのまま引っ張り上げられていった。
最後に、僕の番だ。上から差し向けられる二人の手を取り、石塀に足を付けながら一気に駆け登る。自分の体重で二人を引きずり落としてしまうかも、と一瞬だけ心配になったが、それも杞憂で僕の身体も問題なく石塀の上に乗っかった。
そのまま、流れるように三人一緒に向こう側へと飛び降りる。
「やった……! 全員、脱出成功ね!」
「ありがとうサーシャ、コバ。でもまだ油断しないで。竜がそこらを彷徨いてるだろうし」
僕の言葉を裏付けるように、燃え盛る宿の向こうでズンズンと地響きが鳴る。竜が地上を移動している音だろう。
「遠回りしましょう。幸い、あっちの方から抜けられそうよ。来て」
サーシャが竜が居る方とは反対側の道を指差す。僕達は頷いて、先導する彼女の後を足音をたてないよう慎重に追った。
三軒程進んだ所で焼け落ちた家屋と火に行く手を阻まれたので、止む無くそこで左に迂回し、そのままぐるっと回り込んで元の通りへと戻ってくる。
僕は慎重に辻から顔を出して向こう側を覗き込む。
……居た、竜だ。漆黒の鱗を炎で煌めかせながら、姿勢を低くして辺りの様子を探っている。諦めて飛び去ろうとする気配は、無い。
「どう……?」
「ダメだ……。あの竜、僕達を探しているみたい。今ここから出ていくのは危険過ぎるよ」
「しつこいわね。どうしようか? しばらく奥の方で隠れて居なくなるのを待つ?」
「お言葉ですがサーシャ様、火の手は向こうからも広がってきています。この辺りまで及ぶのも時間の問題かと……」
「そうよね……。一か八か、一気に駆け抜ける?」
「いえ、それよりもコバめが……」
「囮になるのはダメよ」
先回りして釘を差され、コバが言葉に詰まる。図星か。
しかし、これはどうしたものか。グズグズしていたら延焼する火の勢いにやがて呑まれる。かと言って竜に見つかったら逃げ切れるとは思えない。いや、むしろ竜を城門前まで引っ張ってきてしまう恐れさえある。そうなったら万事休す。僕達のせいで犠牲者が増えるだけだ。
時間が無い。こうして悩んでいる間にも刻一刻と炎は迫ってくる。冷や汗と脂汗が同時に浮き、焦燥感ばかりが募る。
せめてあの竜が何処かに行ってくれたら……。
「……うん?」
恨めしげに竜を眺めている時だ。
彼方の屋根上に影が一本、のそりと立ち上がった。地を舐めるように頭を下げた竜がその下に近付く。
影の手で光が煌めく。それが剣だと気付くのに時間は掛からなかった。
一際強く、風が吹く。近場の炎が一層と燃え上がり、影の正体を照らし上げる。
「……!? ローリス!?」
忘れようも無い。屋根の上に立っているのはあの落ちぶれた戦士、ローリスに違いなかった。
一切の表情を消し、抜身の剣を逆手に構え、竜が真下にやってくるのを見計らい――
「うおおおおおおおおおお!!!!」
ローリスは、果敢にもその頭上目掛けて飛び降りた。