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竜の階  作者: ムルコラカ
第一章 竜の揺り籠
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第二話

「行ってきます」

 

 リビングのテーブルに腰掛け、新聞を広げているスーツ姿の父の背中にそう声を掛ける。


「……行ってらっしゃい」


 少しの溜めがあって、父が感情の籠もらない返事をする。今日も僕を見ないのか。


 別に、いつものことで今更なんだけど、今日くらいは僕の目を見て送り出してほしかった。


「父さん。今日も帰りが遅くなるの?」


「……ああ、多分な。だから、お前は寝てなさい」


 父の答えは素っ気なかった。テーブルの上、新聞紙を挟んだ向こう側に置いてあるのは、母の遺影と兄さんの写真。


 多分、父は心の中でもう諦めているのだろう。「ただいま」という兄さんの声を聴くことを。


 そして、たったひとり残った僕を見る事もやめてしまった。……いや、そもそも最初から彼の眼中に入っていたのは兄さんだけだったのかも知れないけど。

 

 僕は違う。兄さんも、姉さんも、いつかきっと帰ってくる。そう信じている。


 逃げ続けている父と、僕は違う。心の中で何度も繰り返す。


 今日から高校生になる。義務教育を受けていた子供の時代は終わった。大人になったんだから、与えられる側ではなく、与える側になるんだ。


 兄さんが僕の立場だったら、きっとそうする。

 だから…………


「父さん。今日、父さんが帰ってくるまで起きてるよ。起きて、待ってるから」


「……」


 自分なりの真心を込めたつもりだが、上手く感情を乗せられたか自信はない。それを裏付けるかのように、父は無反応だった。


 やはり白々しく聞こえてしまったのかも知れない。でも良い。この先、時間は十分にある。

 

 父さんが僕を無視しても、僕は父さんを無視しないよ。

 

 父さんはひとりじゃないよ、僕が付いてるから。


 そう、僕が……。

 

 僕、が…………。








◆◆◆◆◆◆◆








「よし、森を抜けたぞ。一先ず安心していい」


 鬱蒼と生い茂る木々の隙間から差し込む光が、だんだん大きくなってきたと体感し始めて間もなく、先導してくれていたローブの男が、僅かに緊張を解いたような声で言った。


 彼が指差す先を見ると、なるほど確かに開けた草原のようなものが見える。木々の途切れ目から降り注ぐ太陽光が、まるでベールのように森の入口に垂れ下がっていた。


「わぁ……!」


 日陰の世界から日向の世界へ生還を遂げた僕は、思わず感嘆の声を漏らす。


 広大。その一言に尽きる。澄み渡る空、青々と茂る草原、遠くに見える山々、雄大な大地を彩る景色に無粋な人工の建造物は無く、見渡す限りの大自然が続いていた。


 人の存在が感じられないという点ではさっきまで居た森と同じだけど、死に場所になりかけた忌まわしい空間から脱出できたという開放感で、僕はしばらく立ち尽くしていた。


 その陶酔も冷めた頃、僕の思考は今いる現実へと引き戻される。


「あの……やっぱりここって、日本じゃない……ですよね?」


「ニホン? それがお前の居た国の名か?」


 念の為にというやつか、森の入口を振り返り警戒を続けていたローブの男が僕を振り返りつつ言った。


 ローブと言っても正面がはだけているタイプで、どちらかと言えば頭巾が付いたマントと形容した方が正しいかも知れない。中からは革製のジャケットとズボンが覗いていた。手にした弓と背中に背負っている矢筒も合わせて狩人っぽい出で立ちである。


「はい……。あ、自己紹介がまだでしたね。僕は高千穂ナオルって言います。改めて、さっきは助けて頂きありがとうございました」


 僕は内心沸き起こる嫌な予感を押し殺しつつ、彼に向かって深々とお辞儀した。彼の言葉の続きを聞くのがたまらなく怖い。


「タカチホナオル……なるほど。名前と言い、来ている服と言い、耳慣れない国名と言い、やっぱりお前、“渡り人”か」


「え? 渡り、人……?」


 得心したような男の言葉に、僕は顔を上げた。


「古くからの伝承にある。【異なる世界より迷い込んでくる来訪者。魔の理に深く通じし者共】……とな。俺も実際に見るのは初めてだ」


「異なる世界……!? じゃあ、僕はやっぱり……!」


「ああ、どんな原理か知らんが、お前は世界から世界を渡ってきた事になるだろうな」


「……!」


 激しい目眩を覚えた。これは何の冗談だ? 誰か夢だと言ってくれ!


 漫画やゲームじゃあるまいし、望んでもいないのに気付いたら異世界に連れてこられましたとか、こんな理不尽、あって良い筈がない!


 家を出て、いざ入学式へ新たな学校生活へ! と意気込んだ直後に現れたあの白い靄。逃げる間も無く全身を包まれて、気が付けば衣服以外の持ち物を全て失くした状態で見知らぬ大森林の中だ。


 今朝からの記憶を何度辿ってもさっぱり意味が分からない。こんな不条理、まかり通って良い筈が無い!


「帰り方! 元の世界への帰り方は無いんですか!?」


「帰り方? どうしてそんな事を知りたがる?」


「どうしてって……! 当たり前でしょう!」


 当然の事を訊いたのに心底不思議そうな顔をされる。それが無性に腹立たしくなって、僕は命の恩人であるのも忘れて男に詰め寄り、食って掛かった。


「僕はこの世界の人間じゃないんです! 帰る家があるんです! 残してきた家族が居るんです! 僕まで消えてしまったら……父さんが本当にひとりぼっちになっちゃうんですよ!!」


 男の表情が変わった。僕の気持ちを分かってくれたのか、気の毒そうに眉を下げる。


「そうか、お父上が……。なるほど、聴けば確かにもっともな話だ。俺にだって家族が居るからな、分かるよ」


 本気で同情してくれているような彼の様子を見て、僕の頭は急速に冷えてゆく。はっと目を見開いて男から離れた。


「す、すみません……。命を救ってもらったのに、失礼な事を言ってしまいました」


「構わないさ。俺こそ無神経だった、許せ」


 朗らかに笑って、彼は聞き流してくれた。


 爽やかな人だ、それに比べて僕は……。


 後悔と自己嫌悪が胸の中で渦巻き、僕は項垂れてしまう。勝手に怒って、勝手に落ち込むんだから世話がない。


「ふむ、そうだな。取り敢えずお前、俺と一緒に来る気はないか?」


「……えっ?」


 思わず顔を上げる。彼は顎に手を当て、考え込むように僕を見ていた。


「残念だが、俺には『帰りたい』というお前の願いを叶えてはやれない。俺が目にした限りでは、伝承の何処にもそのような方法は書かれてなかったからな。……だが手助けなら出来る」

 

 僕は魅入られたように、彼の語り口に聞き入っていた。


「伝承は以前この国、ダナン王国の王都を訪れた際に目にした。あそこなら、“渡り人”に関する詳細な記録が残っているかも知れない。俺の旅の最終目的地でもあるから丁度いい」


「ダナン王国……。王都…………」


「どうだ? 俺と一緒に王都まで行かないか? お前からすれば、見も知らぬ土地にいきなり放り出されて、手掛かりも何もあったものじゃないだろう?」


「それは、まあ……」


「これも何かの縁だ。一人旅というのは気楽だが、途中で無性に人恋しくなるんだよ。笑っちまうだろうが、本当さ。お前が道連れになってくれたら助かる」


「……」


 やけに親切すぎる、とは思う。しかし彼の言う通り、僕はこの世界について無知だ。知識も無い、土地勘も無い、戸籍すら無い。


 さっきのオオカミの件もあるし、僕ひとりでこの世界を彷徨うのは途轍もなく危険だ。だったら……


「分かりました。よろしくお願いします」


「そうか! いや良かった! それじゃあ、これからよろしくな!」

 

 心の底から嬉しそうに笑うと、彼はバン! と力強く僕の肩を叩いた。……ぶっちゃけ痛い。

 それでも、彼の笑顔には一点の曇りも、やましさも無い。少なくとも、今はそう信じることに決めた。


「……って、そうだ。あなたのお名前をまだ伺っていませんでした」


「おお、そう言えばそうだ。悪い悪い、忘れてた」


 腰に手を当てコホン、と咳払いをひとつ。


「俺はマルヴァス。マルヴァス・クラインって言うんだ。改めてよろしく頼むぜ、ナオル!」


 そう言って彼は……マルヴァスさんは、器用にウインクをしてみせた。

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