第二十七話
宿に近付くにつれて火の気が増えてきた。
こちらの区画には木造建築が多く、それゆえ全域に渡って延焼しやすい立地条件だ。何処かから火蜥蜴が飛び出してくるかも知れないし、竜が戻ってくる可能性だってある。早く用を済ませてここを出ないと危ない。
既に何度か往来し、見知った道である。僅かながらも培われた土地勘を頼りに疾駆していると、程なく彼女の後ろ姿を目に捉える事が出来た。
「サーシャ!!」
前を走る亜麻色の髪をした女の子が、雷に打たれたかのように身体を震わせ、立ち止まって振り返る。
「ナオル!? どうして来たの!?」
「あんな風に言われて『うん、分かった』なんて返事は出来ないよ! コバを助けるなら、僕も一緒に行く!」
「ダメ! 引き返して! これはあたし達の問題なの! 構わずに逃げてったら!」
サーシャは僕を振り切るように再び前へと走り出す。僕は黙ってそれに追い付き、隣に並んで並走する。
「来ないでと言われても勝手に付いていくよ。約束したからね」
「…………バカ」
サーシャは唇を噛み、やや俯き加減で僕を見ようとはしなかったが、それ以上拒絶もしなかった。
◆◆◆◆◆
幸い、サーシャの宿にはまだ火の手が及んでいなかった。
サーシャが一目散に玄関扉を開け、中へと入ってゆく。僕は慎重に辺りに目を凝らして、火蜥蜴の姿が無い事を確かめてから後に続いた。
「コバ!!」
「サーシャ様……!? よくぞご無事で……!」
コバはそこに居た。水の張られた木桶を手に、驚いた顔でこちらを見返している。
コバの足元には他にも二つ、同様に水が貯められた木桶が置かれてあった。
「それはこっちのセリフ! コバ、良かった……!」
サーシャは張り詰めた気を緩めてコバに駆け寄り、痩せたその手を取って引っ張ろうとする。
「急いで逃げるわよ! 母さんは先に行ってるから!」
「し、しかしコバめは、この宿を守らねば……!」
「何言ってるの! 死んじゃうわよ!」
ピシャリとサーシャに叱られ、コバが首をすくめる。それでも、彼は折れなかった。
「こ、この宿はサーシャ様とシラ様の家であり、掛け替えのない資産でございます。それを失われては、お二人が困窮してしまわれます」
「構いやしないわ! どうせいつも閑古鳥が鳴いてるもの!」
そうか、と傍らで僕はひとりごちる。コバが慌てたのは、サーシャとシラさんの身を案じただけじゃなく、二人の家が焼かれてしまう事を恐れたからなのか。だからこうして自分ひとり留まり、竜の炎から宿を守り抜こうとしているんだ。
「お、お言葉ですがサーシャ様。不動産の価値は宿としての機能ばかりでなく……」
「命より大事な財産なんて無い!!!」
「サ、サーシャ様……!」
サーシャは眉を吊り上げ、泣きそうな目でコバに訴える。
「たとえ家を失っても、あなたを喪うよりはマシ! 死んじゃったらもう終わり! 二度と会えないのよ!?」
「コバめの命に、そのような価値など……」
「あるわよ!!」
サーシャはコバの顔を包み込むように両手で掴み、自分と目線を合わせた。
「聴きなさい、コバ! あたしと逃げるの! 良い!?」
「は、はい……!」
迫力に気圧され、コバは渋々といった風情で頷いた。
僕は思い出していた。戦争で父親を亡くしたというサーシャの話を。慰霊碑の前で手を合わせ、祈りを捧げる彼女の姿が瞼に蘇る。
もう二度と、家族を喪わない。そんな彼女の決意を、まざまざと見せつけられる。
僕も同じだ。父さんをひとりぼっちには出来ない。だから、何としてでも元の世界へ帰る。
その為にも、こんなところで死ぬ訳にはいかない。サーシャ達も、死なせる訳にはいかない。
絶対に、皆で生き残ってやる!
「待たせてごめんね。行きましょう、ナオル」
コバの手を引きながら、サーシャが振り返る。
「うん、でもその前に……」
と、僕はコバが用意した水桶に近付き、無造作にそれを手に取った。
「折角コバが用意してくれたんだ。使わせてもらおう」
僕はそれを、おもむろにサーシャ達に向かって振りかけた。
「きゃっ!? ちょっとナオル!」
「炎に巻かれないように。水を被っておけば取り敢えずの予防になるから」
言いつつ、別の水桶を取って頭の上でひっくり返す。冷たい井戸水が熱された身体を心地良く冷ましてゆく。
「それは分かるけど……。だからって、何もいきなりぶっかける事は無いじゃない」
そう言ってぷぅっ、と頬を膨らませるサーシャ。こんな時だと言うのに、その愛嬌溢れる仕草に思わず吹き出しかけた。
「ごめんごめん。でもこれで大丈夫。じゃあ、火の手が完全に回る前に城門まで急ごうか」
僕は先頭に立って玄関扉に手をかけた。
その時だ。
近くで何かが倒壊するような音が轟き、床が大きく揺れた。
「うわっ!?」
「えっ!? な、なに!?」
「サーシャ様……!」
余りに唐突な揺れに、僕はついバランスを崩して身体が後ろに傾く。倒れまいとして、取っ手を握る手に力を込める。
だが努力も虚しく取っ手がするりと回転し、扉が内開きに開いてしまい、僕は重力に逆らえずそのまま後ろに倒れ込む。
「いたたた……」
尻をさすりながら顔をしかめる。一体、何が起きたって言うんだ?
「ひっ……!?」
サーシャの息を呑む声が後ろで上がる。何か恐ろしいものを目にした時のような……。
「……っ!?」
はっ、と我に返る。この状況で何が恐ろしいのか、候補なんて二つに一つ。
僕は急いで目を上げる。
全開になった扉の先から、漆黒の巨大な鱗と炎を照り返して光る牙が覗いていた。
天空から降って湧いた災厄。絶対的な裁定者の如き姿容。猛々しさにして畏怖の象徴。
雄々しくそびえ立つ巨躯を目一杯大写しにして、血のような赤い目をこちらに注ぐ、竜の姿だった――。