第二十六話
一体何処をどう通ったのか。
地獄と化したマグ・トレドの街中を、僕は覚束ない足取りで泳ぐように彷徨い続けた。
至る所で火の手が上がり、灼熱の炎に巻かれた犠牲者の中から這い出てきた火蜥蜴が我が物顔でそこら中に跋扈している。
かろうじてまだ生き残っている人々は、それぞれが思い思いにこの惨状を切り抜けようとあがき続けている。
ひたすら逃げ惑う者も居れば、果敢にも武器を取って火蜥蜴に立ち向かう者も居る。圧倒されてただ立ち尽くす者や、祈るように手を合わせて座り込む者の姿も見えた。
彼らと接触したい、と言う思いが何度も心をよぎった。彼らを助けたいのか、それとも僕が助けてほしかったのか。
よく分からない。ぐちゃぐちゃな想いを抱えたまま、それでも僕は修羅場を避けて、業火の中をひたすら前へ進み続けた。
「コバ……! 何処に居るんだ……!?」
念仏のように同じ言葉を唱え続ける。コバを探し、サーシャの所に連れ帰る。その目的だけが、今の僕を支えていた。
コバは、サーシャの宿がある方向に竜が攻撃を加えたから取り乱して飛び出していった。サーシャとシラさんがまだそこに居ると思ったんだ。
余りにも無謀過ぎる。二人の安否は僕も気掛かりではあるけど、今は確かめようが無い。竜の攻撃が始まる前に上手く街の外へ脱出した事を願うしか無いんだ。
サーシャとの約束を果たす。コバを見つけたら、無理やり引きずってでも街から連れ出す。
その為にも、ここで倒れる訳にはいかない――!
「……あてっ!?」
不意に、額が何か硬いものにぶつかった。驚いて顔を上げると、見覚えのある石像が目に入る。剣と盾を構えた民兵の像。
「マグ・トレド防衛戦の慰霊碑……!?」
今朝、サーシャと出掛けた時に最初に立ち寄った公園前だった。
「やった……! ここまで来れば宿は近い!」
見知った場所を見つけた事で急に気力が湧いてくる。コバも近くに居るかも知れない。
ただ気になるのは、火の手が既にここにも及んでいる事だった。花壇の花は無残に燃え尽き、木馬の乗り物も焼け焦げて形を留めていない。
「……流石に、植物から火蜥蜴は産まれたりしないみたいだな」
物言わぬ花の残骸を見つめて僕は呟く。火蜥蜴の卵やら繭やらの役目を果たすのは動物限定という事だろうか?
考えても仕方無い。それよりもサーシャの宿だ。ここが燃えているという事は、恐らく……。
僕は、悪い想像を振り払うように足を早めた。
◆◆◆◆◆
城門へと直通する大通り。サーシャの宿がある区画は、あの公園からこの道を挟んで反対側にある。コバを見つけたら真っ直ぐUターンしてここから脱出しなければならない。
その大通りでは、兵士達の一団と火蜥蜴の群れが一進一退の攻防を繰り広げていた。兵士達は盾持ちと長槍持ちに分かれ、盾持ちが横一列になって道を塞ぎ、その後ろから長槍持ちが穂先を突き出すという戦法を用い、この先は一歩も通さんとばかりに奮戦している。
火蜥蜴達は彼らを突破しようと試みるも、固い盾の壁に阻まれ、動きの止まった隙に長槍で突かれて果たせない。
守備隊長が欠けているというのに、兵士達は見事な連携を見せていた。彼らの背後には今も逃げる途中の市民が多数居る。無辜の民を必ず護るという強い意気が、兵士達を統制を支えているのかも知れない。火蜥蜴に致命傷こそ負わせる事は出来ないまでも、十分な時間稼ぎをしてくれている。
「ナオル!!」
出し抜けに呼び掛けられてはっとする。昨日今日ですっかり馴染んだ女の子の声。
「サーシャ!!」
僕は安堵のあまり涙が出そうになった。走る市民達の中にサーシャとシラさんが居たのだ。彼女の方から僕に気付き、声を掛けてくれた。
「大丈夫だった!?」
《ウィリィロン》を鞘に収め、他の人達にぶつからないように気をつけながら駆け寄って、彼女達の無事を確かめる。サーシャもシラさんも大きな荷物を背負っており、見た所何処にも怪我は無い。
「ええ、何とかね。悔しいけど、守備隊の人達の指示に従って、こうして必要な物をまとめて家を飛び出して来たの。ナオルこそ、よく無事だったわね」
「あたしゃ気が気じゃなかったよ。帝国軍かと思ったら竜だったんだからね。そんな中で外をうろついて大丈夫だったのかい?」
「はは……。まあどうにか。すみませんでした、シラさん」
「過ぎたことだし、もう良いよ。それよりも早く逃げなきゃ。マルヴァスの旦那は? 一緒じゃないのかい?」
「マルヴァスさんとは……途中で別れてきました。街の外で合流する予定です」
「そうなのかい? あの人も無事だと良いんだけど……。まあ良いさね、あたしらはあたしらでしっかり自分を守んないとね! あんたとマルヴァスの旦那の荷物は持ってきたから安心しな」
そう言ってシラさんは左右の手にそれぞれ掴んでた革袋を掲げてみせる。まあ、僕の荷物なんて殆ど無いからどっちもマルヴァスさんのだけど。
「ねえナオル、コバは? コバはどうしたの? コバも一緒じゃないの!?」
サーシャがはっとして顔色を変える。僕はぐっと肚に力を込めて答える。
「教会に行って、ジェイデン司祭と一緒に逃げようとした時に、サーシャの住む区画に竜が火を吐くのが見えて……。それで、コバはサーシャ達が危ないと思って……」
「家に戻ったの!? 危ないよ!! あの辺ももう火に囲まれてるのに!!」
「落ち着いて! 良いかい? サーシャ達はこのまま行って! 僕が必ずコバを連れてくるから!」
「……!」
僕はサーシャの両肩に手を置き、じっと彼女の目を見た。サーシャの目は、先刻と同じようにはちきれそうな不安で揺れている。
「もうやめな! 何度だって言うけど、あんたにそんな義理は無いんだ! 気持ちは嬉しいけど、お願いだからあんたは自分の事だけ考えておくれ!」
シラさんが懇願するように僕に言い募る。
「すみません、シラさん。でも、これは僕の勝手なんです。僕が、そうしたいんです! サーシャと、約束したから!」
「ナオル……」
サーシャが目を落とす。すると彼女は、何かに気付いたように僕の右手を取った。
「これ、どうしたの?」
「え……?」
握られた右手に目を落とすと、人差し指と親指、それから手の甲にかけて僅かに赤く腫れていた。恐らく、さっき火蜥蜴と戦った時に軽い火傷を負ってしまったんだろう。
「ああ、別にこれくらい大したこと無いよ」
右手をひらひらさせて大丈夫だと示す。
ところが、それを見たサーシャの顔が立ちどころに歪む。そして俯いて肩を震わせると、ポツリと呟くように言った。
「ごめん、ナオル」
「え……?」
『ごめん』? なんでサーシャが謝るんだ?
「あたし、どうかしてた。命を助けて貰ったからって調子に乗って……。お客さんに、危ない橋を渡らせて……!」
そして、キッ! と顔を上げる。
「あたしが行く!」
「えっ!? サーシャ!?」
思いがけない彼女の言葉に、僕は戸惑った。
「コバはあたしが連れ戻す! だって私は、あの子の主人だもの!」
「ダメだよサーシャ!! 今戻ったら……!」
「母さんはナオルと逃げて!!」
それだけ言い残すと、サーシャは背負っていた荷物を投げるように僕に押し付け、踵を返して走り出した。
「サーシャ!!」
「待ちな、サーシャ!!」
当然、僕達は呼び止めるけど、サーシャは止まらずにそのまま煙の中へ消えてゆく。
僕はサーシャから押し付けられた荷物を地面に置くと、シラさんに言った。
「シラさん! サーシャとコバは僕に任せて! あなたは逃げて下さい!!」
「あんたまで……!」
みなまで聴かず、僕も走り出す。シラさんの制止を無視するのはこれで二度目だが、今度は選択の余地が無い。
コバだけでなく、サーシャの命も危険に晒されるのだから。
先刻の二の舞になるかならないか、それはもう運に委ねる事にする。
「ああもう、若い子ってのはどうしてこう……! 無事に戻らなかったら承知しないからね!!!」
シラさんの怒声を今度はしっかりと背中で受け止め、僕は炎で赤く染まった居住区へと急ぐのだった。