第二十五話
「コバ!!」
瞬く間に塀の向こうへと消えたコバを追おうと、僕も足を踏み出しかけた。
「お待ちなさい、ナオル殿!」
「司祭さん、コバを追わないと!」
「いいえ、なりません! 危険過ぎます!」
ジェイデン司祭が僕の腕を掴んで止める。
「イーグルアイズ卿が稼いで下さった時間を無駄には出来ません! あなたはお逃げなさい、コバは私が!」
「え……!?」
「危難に臨むのは年寄りの役目です! お若いあなたは、我が身の事だけを考えればよろしい!」
「司祭さん……」
鐘が鳴った直後のシラさんとのやり取りと似ている。あの時は、彼女の言葉を聴かなかったばかりに後悔する嵌めになった。しかし……
僕は、グッと肚に力を込めた。
「サーシャと約束したんです、必ずコバを無事に連れ帰るって。だから……!」
今ここで、ジェイデン司祭の言う通りにしたら、今度はきっとそれを後悔する!
「僕は行きます!!」
「ナオル殿!!」
心に生じた甘えごと、彼の腕を振り払う。
「司祭さんは逃げて!!」
その言葉だけを背後に投げ掛け、僕はコバを追って走り出した。
◆◆◆◆◆
表通りは混沌の極みに達していた。
本格的な竜の攻撃が始まり、街全体が火に包まれるのも時間の問題だと誰の目にも明らかになった今、冷静さを保っていられる人など残ってはいない。
「竜だ! 竜が、空から炎を……!」
「南西の宿場街に火の手が上がったぞ!」
「つ、次はこっちに来る! 急いで逃げないと!」
「領主様がどうにかして下さるんじゃなかったの!?」
「守備隊の隊長は既にやられたらしいぞ!」
「ぼうや!! 何処に居るの!!?」
「邪魔だ、どけっ!!」
「くそが……っ! 来るなら来い! 俺達の街で好き勝手しやがって!」
民衆達は口々に叫びながら死物狂いで城門を目指す。中には火かき棒やら銛やら三叉鋤やらを手にいきり立っている人も居る。兵士達も、最早彼らをコントロールする術を持たず、武器を構えて天空を睨み据えるばかりだ。
コバはこの混乱の中を無事通り抜けられたのか? それとも、人々の波に揉まれて何処かで蹲っているのか?
分からないが、とにかく今は一刻も早くサーシャの宿まで行かないと。
僕は表通りの坩堝の中に突入しようとした。
――その時だ。
彼方の空から、疾風のように真っ直ぐこちらへ飛んでくる竜が見えた。
「――っ!?」
咄嗟に、僕は近くに積み上げられた木箱の後ろに飛び込んだ。その次の瞬間――
空から、一条の光が地上を奔った。
「ううぅ……っ!?」
木箱を背にその場に蹲る。竜の炎は正面を横切る形で一閃して行き、熱風と火の粉がえぐりこむように木箱の後ろにも飛んできて、思わず両腕を顔の前にかざしてそれらを防ぐ。
火傷しそうな程の熱量が木箱越しでも伝わってくる。かざした両腕をチリチリと熱波が撫で、脛に火の粉が噛み付く。服もローブもしっかり着込んでいて尚、肌を灼かれるような痛みが全身に食い込んできた。
やがてそれも少しは収まり、両腕を解いて木箱から顔を覗かせた僕に、容赦なく現実が突き付けられる。
狂乱する人々でごった返していた表通りが、一瞬で焦熱地獄へと早変わりしていた。炎に包まれのたうち回る人々、延焼する建物、地面に倒れ伏し既に事切れている炭化した『何か』。
彼らの発する悲鳴も、怒号も、断末魔の叫びも、全てが火の海に呑まれた。
「ぁ……ぁっ!」
目の前で行われた無慈悲な殺戮に、僕は言葉を失った。熱さよりももっと過酷な現実が僕を打ちのめす。
それでも、よく目を凝らして見てみると、かろうじて竜の炎を逃れた人も若干数居るみたいで、物陰に身を潜めたまま僕と同じように呆然としている様子が見受けられた。
少し時間が経てば、彼らも我を取り戻し、生き延びた喜びを噛み締める事が出来ただろう。
だが、竜の炎というものは、そんな猶予も与えてくれない。焼き損ねた人々を逃がす程、生易しくは無い。
「ああっ……!?」
炎に包まれ横たわる人だったモノ。その中心に亀裂が入り、見る間に左右に広がってゆく。
そして、中から出てきたのは、そう……。
先程も見た、あの《火蜥蜴》だった。
一体あの炭やら灰の何処にそんな巨体を入れるスペースがあったのか。質量保存の法則など端から蹴散らし、まるで異次元から現れたかのように、火蜥蜴は窮屈な古巣から広大な地面へその太い四肢を降ろす。
他の遺体からも、次から次に同様の現象が起こる。燃え盛る炎の中で産声を上げた火蜥蜴達が、生き残った人々を睨めつける。
「な、なんだあいつらは!!?」
誰かの悲鳴が上がり、それが合図のように、火蜥蜴の群れが生存者達に襲いかかる。
商人のような身なりの恰幅の良い男に身体ごと飛び掛かって押し倒し、太い爪で引き千切る。年端もいかない子供の小さな喉に、鋭い牙を突き立てて食い千切る。腰の曲がった老人の胴を、太い尾で叩き付けてへし折る。矢も盾もたまらず逃げようとする主婦の背に、口から吐く火を浴びせて焼き殺す。
まさに地獄絵図だった。慈悲を知らぬ、竜の眷属達による殺戮。
僕は目眩を覚え、地に膝をついた。どうしようもなく吐き気がこみ上げ、そのまま地面にぶちまけた。
「おえっ……! ぐぅ……っ! げほっ! げほっ……!」
吐瀉物にむせて息が苦しい。僕は胸のペンダントを強く握り締めた。
「う、ううう……! 兄さん……! 姉さん……!」
ここには居ない、最愛の人達に呼びかける。そうする事でしか、自分を保てそうに無かった。
会いたいよ……。助けてよ、二人共……。
ふと、昼間のような明るさの地面に、一本の影が差し込んだ。
はっとして顔を上げると、目の前にチロチロと舌を出しながら迫ってくる火蜥蜴の姿があった。
「――っ!?」
死の恐怖。本能的に僕が《ウィリィロン》を抜き放ったのと、火蜥蜴が突っ込んできたのはほぼ同時だった。
前脚を振り上げ、覆いかぶさろうとする火蜥蜴の喉に、蒼く光る《ウィリィロン》の剣身が殆ど抵抗なく突き刺さる。皮膚を裂き、肉を抉る感触が、柄を通して僕の掌に伝わってきた。
火蜥蜴がか細い鳴き声を上げ、滅茶苦茶に四肢を振り回す。身体の動きに合わせて火の粉が舞い、僕の肌を焦がそうとする。手の甲に、チリチリと焼けるような痛みが走った。
「く、そっ――!」
僕は無我夢中で《ウィリィロン》を横に動かした。蒼い光が、滑らかに曲線の軌跡を描く。
焼けてひび割れた火蜥蜴の喉がぱっくりと切り裂かれ、中から血が吹き出して顔に掛かった。
力を失った火蜥蜴がその場に倒れ込む。僕はかろうじて下敷きにされる前に身を引き、立ち上がってその遺骸を見下ろした。
もう動く気配は無い。僕が、殺したから。マルヴァスさんから預けられた、この《ウィリィロン》で……。
僕は、顔に掛かった血を手で拭った。指先に付いたそれを見ると、赤ではなく青色をしていた。
「…………」
もう一度、火蜥蜴の死体を見下ろす。
危険で歪な命とは言え、このトカゲは生きていた。それを、殺した。この、僕が……。
再び吐き気がこみ上げ、僕は手で口を抑える。これ程までに最悪な気分を味わったのは、人生で初めてかも知れない。
遠くでまた竜の咆哮が上がる。僕は、口を抑える手をペンダントに移した。
「コバを、追いかけなくちゃ……! 腑抜けている場合じゃ、ないんだよ……っ!」
ペンダントを握り締め、抜身の《ウィリィロン》を手にしたまま、僕は足が浮くような感覚を引きずってその場を後にした。