憂国の士、マルヴァス
やはり、誰もが疲れ切った顔をしている。
酒場の窓から表通りの様子を見下ろし、マルヴァスは眉根を寄せた。
輝かしい歴史を積み重ねてきたダナン王国、その心臓たる竜翼の王都フィンディア。華やかな響きのある呼び名に反し、その実態は実に色褪せたものだ。
眼下を行き交う都民達の憔悴した歩き振りを眺めながら、マルヴァスは酒を煽った。
「……薄くなってやがる。此処の酒でさえこんなザマじゃ、食い物も着る物も手に入れるのは一苦労だわな」
多分に水が加えられた酒の味に、都民の苦しい生活が反映されているかのようだ。
余韻を楽しむ気も起きず残りを一気に飲み干すと、マルヴァスはさっさと階段を下ってカウンターを通り過ぎた。
「馳走になったぜ」
ぶっきらぼうに言い放ち、店主を顧みることもなくそのまま酒場を後にする。
そのまま平民区を当てども無く歩きながら、すれ違う人々の様子を観察してゆく。
「……どいつもこいつも服が質素だ。靴の汚れも目立つ。以前はもう少し、平民達も身なりに気を使っていたんだがな」
明らかにみてくれから貧困を訴える彼らの姿を見て、マルヴァスは現状の悪さを改めて突き付けられた。
全ては、上がる一方である税率の所為だ。
ダナン王国は今、非常に不安定な状態にある。
北のソラスから流れ込んでくる流民に、それらが暴徒化した賊、失地回復に邁進するソラス王家への支援、黒竜【棕櫚の翼】によるマグ・トレド襲撃、カリガ伯の叛意、密かに侵入していたオーク族――。
これら数々の難問対策に求められる、度重なる出兵。
嵩む一方である軍事費を賄うには、国民に課している税金を上げるしかない。各地の情勢が不安定な分、物資も不足する。その結果が、今の疲弊ぶりだ。
「フィオラちゃんの詩歌も、本当ならもっと客足を集められるはずなんだがな。こいつらに余裕が無いばかりに、折角の歌声も安く買い叩かれてるってんだから始末が悪い」
今日も何処かの路上で弾き語りをしているであろうエルフの仲間に思いを馳せ、軽く嘆息する。もっとも彼女なら、どんなに安い金額を投げ込まれようとも、それが自分の詩歌に対する客の感謝だと受け取って喜ぶのだろうが。
「このままじゃ、遠からず破綻するぜ。今はまだそこまでじゃねえかも知れねえが、民衆の限界は確実に近付いてきている。王都で暴動なんて起こったら、ダナン王国そのものが麻痺するかも知れん」
最悪の予想とは、それだ。民衆が王政に対して叛旗を翻した時、恐らく全てが瓦解する。
国王を始めとするこの国の政府は、その危険をちゃんと分かっているのだろうか?
メルエットの従者として王宮へ向かった時のことが思い出される。馬車の中から政務の中枢たる国衙の様子を覗いた時、役人達は誰も彼もが張り詰めた形相で忙しく動き回っていた。彼らの余裕の無さからも、迫りくる危機が痛いほど読み取れた。
「まあ、ラセラン王子なり“渡り人”なりといった看板のお陰で、まだしばらくは不満も抑え込めるだろうけどよ」
今の王都で一際人気が高い二人の人物を思い浮かべ、マルヴァスは皮肉な笑みを零す。
常に軍の先頭に立ち、身体を張って国難に対処するラセラン王子の姿は、実に分かりやすい英雄像と言える。彼が平民達に人気を博している主な理由もそれだ。
そして彼らは、そうした一面しか見ようとしない。“渡り人”に対する見方も、同じ向きが込められている。
「……おっと、噂をすれば」
前方に出来た人だかりを見て、マルヴァスは足を止めた。
集まった平民達の視線が向かう先には、立派な法衣に身を包んだ聖職者達が高々と声を張り上げている。
「皆の衆! 苦しい日々も今しばらくの辛抱である! 天にまします【雲の女神】は、我らに救世主をお遣わし下された! 雲の上から来たりし“渡り人”が、あらゆる国難を排して平和をもたらすであろう! しかし、我らは顧みなければならない! 自らの行いを、自らの過ちを! 女神様は、我らに悔悟の機会をお与え下さったのだ! すべての国難は、我々に対する罰という側面もあることを忘れてはならぬ! 竜の襲来こそ、その最たるもの! 女神様はお怒りである! それは何故か!?」
最後の言葉は、平民達に向けられた問いだ。それに答える形で、人だかりの中から興奮した声が上がる。
「決まっている! 我々がいつまでも敵を打ち倒せないでいるからだ!」
聖職者は我が意を得たをばかりに大きく頷き、演説を続ける。
「その通りである! パルナ・キアンは空を司る女神にして、絶対的な裁定者! 神の道を遮る者は、誰であろうと赦さぬ苛烈なる戦乙女であらせられる! しかるに、かの神の加護を受けた我々の現状たるやどうか! 国を脅かす不埒者どもを、いつまでのさばらせておくつもりなのか! 王は神の御意志を知りながら、いつまで手を拱いているつもりなのか! 民衆よ、今こそ立ち上がる時だ! 王の力が足りぬというなら、我々が補おう! 神の道を見失ったというのであれば、我々が探そう! これは試練である! 女神様は我々を試しておられる! 善良にして敬虔なる者達よ、心をひとつにするのだ! 全員一丸となり、この試練に打ち克つのだ!」
集まった群衆から歓喜の大呼が上がる。マルヴァスはそれを見て鼻を鳴らした。
「威勢の良いことだ。あくまで神の意志に添って動こうと結んでいるだけか。王を公然と批判しながらも、王政に対する謀叛を焚き付けているわけじゃないからな。役人共も表立って【聖還教】を咎めることは出来ないって寸法か」
このような過激な演説――もとい説教を行うのは、十中八九“東雲派”だろう。現教皇がどこまで把握しているのか知らないが、【聖還教】の求心力が高まっていることについては嫌な気はしていないに違いない。
心ある者達は、“東雲派”の目論見に気付いている。マルヴァスもそのひとりだ。
「奴らに、王政を廃する考えは毛頭ない。だが、頭をすげ替えることにはどうしてかご執心みたいだな」
彼らの説教の仕方にそれが表れている。王に対する非難を絡めているのは、密かに世代交代を望む気持ちを民衆に植え付けようと企んでいるからだ。
何せこの国はまだ、立太子が行われていない。
普通に考えれば、第一王子として生を受けたブリアンが太子として立てられるに決まっている。しかしながら、彼は原因不明の奇病に侵され未だに子供の姿を保ったままだ。魔法の素質を持った魔道士として【竜牙の塔】に籠りっぱなしであることも、彼の不人気を後押しする一因となってしまっている。おまけに本人の普段からの振る舞いが、周囲の反感を買いやすい類のものであることも否めない。
強く、逞しく、率先して臣下を引っ張ろうとする第二王子に人気が傾くのは、致し方ない面もある。
「【聖還教】は、少なくとも“東雲派”は、ラセラン殿下を次代の王にするつもりだ。奴らが本格的にその立場を表明すれば、恐らく大多数の貴族が賛同の声を上げるだろうな」
ラセランの擁立を望んでいるのは、カリガ伯モントリオーネだけではないということだ。あの男が外患誘致の謀叛人として討たれたところで、王位継承問題に関わる流れは何も変わらない。
このままでいけば、ほぼ間違いなくラセランが太子となり、現国王ディアンに取って代わることとなるだろう。
「それは……破滅へ一直線の悪手だぜ。外から見える一面だけで、物事を判断するべきじゃねえのさ」
マルヴァスには良く分かっている。それを防ぐ為に貴族を辞め、実家であるレインフォール家をも棄てたのだ。
必ずやり遂げる。今回の旅で、希望の光も見えてきた。これが神の……いや、始祖竜の導きだというなら信じよう。
「――マルヴァス様」
来る運命の転換点に思いを馳せていると、不意に暗がりから声が投げかけられる。
「どうした?」
一瞬だけ目をやり、すぐに逸らす。暗がりに佇む男の胸元には、仲間であることを示す符牒がしっかりと取り付けられていた。
上半身が鷲、下半身が獅子という、今の世界では既に伝説となった生き物の徽章。同志の家紋と、母の実家クライン家の家紋が合わさった意匠。
――共に国を憂う者達。
「招集が掛かりました。二日後の夜、平民区八番街にある“虹の風車亭”へお越し下さい」
短くそれだけを告げて、男は暗がりの奥へと去った。
「……ようやくか。あの方は今度こそ、巻き返しの一手を打ってくれるんだろうな?」
まだ続いている“東雲派”の説教に目をやったまま、マルヴァスは感情を抑えた声で呟いた。