第二百五十話
「スーリヤさん!?」
僕とフォトラさんは反射的に駆け出していた。コバとナンジュさんが何か言う声が聴こえたが、彼らが後ろから付いてきているか確かめる余裕はない。
今のスーリヤさんの悲鳴、明らかにただ事じゃない。メルエットさんとフィオラさんも彼女と一緒に居た。三人に危険が迫っている!
『そんな、まさか……! さっきまで確かに、周囲には誰も居ないはずだったのに……!』
サーシャの愕然とした声が耳元でこだまする。彼女の感知能力を欺くほどに敵の隠れ方が優れていたということだろうか。
もし相手がシー族だとしたら、それも充分あり得る。だが今は、深く考えている場合じゃない。
メルエットさん達の姿はすぐに見えた。だが敵らしい影は無い。どこか死角に隠れているのか? とにかくまずは、彼女達の安全を確保しなくては! こちらに不意打ちを仕掛けてこようものなら、その時に返り討ちにしてやる!
『ナオル! 八人分の息遣い! 大きく広がって皆を囲んでる!』
サーシャが敵の呼吸を読み、僕に情報を伝えてくれる。
僕とフォトラさんは迷わず真っ直ぐに駆け抜け、まずフォトラさんが悲鳴の元まで到達した。
「っ!? 貴様らは……!」
僕に先駆けて敵の姿を認めたフォトラさんが、怒りの声を上げる。彼はそのまま腰を落とし、すぐにも攻撃に移ろうとしていた。
「待って兄貴! 早まらないで!」
その勢いを押し留めたのは、誰あろう双子の妹の声だった。その響きに、僕は微かな違和感を覚える。切羽詰まった感じはするが、フィオラさんの声や表情には焦りや恐怖が含まれていない。
もしかして、シー族じゃないのか?
そんな思いが脳裏をよぎりつつ、僕も彼女達の傍へ馳せ参じた。
そして目にする。自分達を取り囲むようにバラけて武器を構えている、小さな体躯の彼らを。
「ま、まさか、ゴブリン!?」
コバやナンジュさんと同じく、青黒い肌。エルフのそれに似た尖り耳。髪のない頭。間違いなくゴブリンだった。
彼らは一様に短槍を構え、強張った顔で僕達を取り囲んでいた。
「やっぱり、この村にゴブリンが居たのか……!」
ナンジュさんの読みは当たっていた。ということは、僕達は彼らの住居に踏み込んできた侵入者だと見なされている可能性が高い。
「待ってくれ! 僕達に敵意は無い!」
ゴブリン達の表情が動いた。僅かながらに、戸惑いの色が見え隠れしている。
「此処を通りたいだけなんだ! 武器を収めてくれたら、すぐにも出ていくよ!」
こちらの言葉を聴く耳を持っていると見て、僕は懸命に自分達が無害だと訴えた。ゴブリン達は迷いながらも、僕達に向けた槍の穂先は動かさない。
「貴方達の代表者は誰です? その方と是非とも交渉させて頂きたいわ!」
僕の後ろからメルエットさんが声を張り上げた。背筋を伸ばした彼女が僕の横を通り過ぎ、堂々とした佇まいで矢面に立つ。
「私はマグ・トレド伯イーグルアイズが一子、メルエット・シェアード・イーグルアイズ。この一行の責任者です。どうか、話をさせてもらえないかしら?」
メルエットさんの声も、物腰も落ち着いているように見えた。そんな彼女を目の当たりにして、ゴブリン達の戸惑いが更に大きくなる。
「お、お待ちくだされ! お待ちくだされ~~!」
そこへ、コバとナンジュさんも追いついてきた。僕達を取り囲むゴブリン達が、息せき切ってこちらに走ってきた二人の同族を見て目を丸くする。
「ど、同族の方々! この人間とエルフの皆様は、決して敵ではございません! どうか武器を、武器をお収めくだされ!」
「お願いでございますです! この通りです!」
自分達に向かって必死に頭を下げるコバとナンジュさんの姿が、ゴブリン達の殺気を完全に削いだ。彼らは誰からともなく槍を下ろし、お互いに困惑した顔を見合わせている。
僕とメルエットさんは安堵した顔でお互いを見やった。どうやら、戦いになることは避けられそうだ。
「……人間。この二人の同胞は、お前達の下僕か?」
ゴブリンのひとりが、コバとナンジュさんを目で示しながら感情を押し殺した声で訊いてきた。思わず「違う!」と答えようとしたところで、メルエットさんが冷静に返答した。
「コバとナンジュ殿も我々の仲間です。共にバレクタスを去り、王都へ帰ろうとしていたところでした」
「人間の街に、ゴブリンの居場所は無い。そこで暮らせる同胞が居るとしたら、奴隷か虜囚でしかありえない」
再び、そのゴブリンが口を開いた。他のゴブリン達は一様に黙って、彼が喋るに任せている。
「もしや、貴方が彼らの指揮者ですか?」
「いかにも。おれはダルド、此処の同胞達をまとめている」
ゴブリン達の代表者、ダルドは一歩前に出てメルエットさんと正面から向き合う。改めて彼を見てみると、他のゴブリンより少しだけ身体が大きく、またやや太ってもいた。貫禄があるといえば、ある。
「《後続の種》よ、貴様らは何故バレクタスに来た? 此処は貴様らが棄てた地。我々が慎ましく暮らすだけの流刑地だ。華々しい勝者の子孫が入り込むような場所ではあるまい」
ダルドは表面上は穏やかに、だが言葉の裏に明らかな嫌悪と警戒を込めてこちらの意図を探ってくる。
さてどうしたものか。これまでの経緯をそのまま正直に話してしまうのは論外だろう。何か、上手いカバーストーリーでごまかさなければならない。
しかし、先程メルエットさんは自分の素性をありのままに告げてしまった。伯爵令嬢ともあろう者が自ら乗り込んできた以上、そこには相応の理由が必要になる。
果たして彼女の考えは……?
「我々は、この地に棲まうシー族との友好と視察の為に参ったのです。既に使いは終わり、後は帰参するだけという状況でしたが、この付近に以前廃村になったエンという村があると聴き及び、実地調査をしようと立ち寄らせてもらいました」
メルエットさんはするすると口上を述べる。どうやら、自分達をダナン王国からの親善の使者という名目で通すようだ。
「友好? 視察? ダナン王国は、バレクタスには干渉しないんじゃなかったのか?」
「シー族の自治を認めているとはいえ、バレクタスが王国領の一部であることに変わりはありません。故に定期的にこの地から報告を受け、必要とあらば国から使者を送ります」
「なるほど、それがお前達ということか。……だが少しばかり、数が少ないな。先日から続く嫌な地響きは、たったこれだけの人数で起こせる騒々しさではなかった」
ダルドの、白く濁った目がスッと細まった。どうやら彼は、僕達が大所帯でバレクタスにやって来たことは掴んでいるらしい。問題は、それ以上の情報を持っているかどうかだ。
ここは下手な受け答えは出来ない。メルエットさんも当然それは分かっているようで、
「仰る通り、我々は多数の護衛を伴ってこの地に参りました。私は副使でございますから、正使に先立って報告を持ち帰る為に出立した次第です。残りの者達も、そう日を置かず帰途につくでしょう」
するりとダルドの疑念を受け流した。
「一刻も早く首尾を報せねばならぬ副使殿が、悠々と遠回りして廃村にやって来たと? 筋が通らんな」
「先に申し上げた通り、我々の目的にはこの地の視察も含まれています。この村を当初見逃していたことは恥じ入るばかりですが、見つけた以上放置は出来ません。それに此度は、そこまで急いで王都へ帰還しなくてはならない程に切迫した使いでもないのです。こちらに足を向ける余裕は充分あったのですよ」
「…………」
ダルドの目線が、メルエットさんの後ろへ移った。
「その法衣、知っているぞ。《聖還教》の高位聖職者のものであろう。竜に背を向けた教えの信奉者が、バレクタスで歓迎される謂れはない。何故そのような者を伴っている?」
僕はさりげなく、スーリヤさんの様子を窺った。彼女の顔は青ざめ、身体は小刻みに震え、目には嫌悪と拒絶の色がくっきりと浮かんでいる。忌むべきものと教えられてきたゴブリン達に囲まれ、敵意を向けられたことで自分の情動を隠すことが出来なくなっているようだ。
「《聖還教》の者だからこそ、です。彼女は――」
「りゅ、竜に背を向けた教えって、あんまりな言い方じゃないですか!? わ、私達は三柱の女神様を崇め奉り、その御意志を地上において果たそうと懸命に努めています! ま、街を焼いて人々を殺す……りゅ、竜なんかに何も教わることなんてありませんっ!」
《聖還教》の聖女としての意地か、先程悲鳴を上げてしまったことへの恥ずかしさか、スーリヤさんはメルエットさんを押しのけるように声を張り上げる。ゴブリンに言われっぱなしでいられるかという強い態度が全身に滲み出ていた。
「ちょ、スーリヤさん……! 落ち着いて……!」
「あっ……!」
幸いにも、彼女はすぐに我に返り口元を両手で覆った。ここで激昂してみせても不利を招くだけだと気付いてくれたようだ。
「……この通り、《竜始教》と《聖還教》の摩擦は今も続いています。国王陛下はその事実に御心を痛められ、この機に見聞を広めてもらおうと彼女の同行を要請したのです」
メルエットさんも、このイレギュラーに動揺を見せたりせず即座にフォローしてくれる。夜会の時も思ったけど、なんだか数ヶ月会わなかった間に随分と見違えてしまった。それが頼もしくもあり、同時に少しだけ寂しくも感じてしまうのは何故だろう?
「フン、実際のところはどうだか怪しいものだ。いずれにせよ、此処を知ったお前達をこのまま帰すわけにはいかない」
「……!?」
ゴブリン達から放たれる雰囲気が、再び硬く鋭利なものに変わった。
ダルドが手を挙げる。するとそれまで武器を収めていた他のゴブリン達が、再び短槍を構えて僕達に穂先を突き付けてきた。
「我々はゴブリンだ。ダナン王国はバレクタスをシー族の土地だと認めたが、我々のことは許容しまい。お前達を生かして帰せば、我々の平穏は乱される」
それを聴いて衝撃を受けたのは、僕達というよりコバとナンジュさんの方だったかも知れない。
「お、おやめください! ダルド殿、同族のよしみでどうか……!」
「ナオル様や皆様を傷付けないで下さいませです! コバめにとって、掛け替えのない方々なのです!」
口々に懇願する彼らに目もくれずダルドは、
「おい、この二人を取り押さえておけ」
と冷たく左右の部下に命じた。途端に近くに居た他のゴブリン達が飛びかかり、二人を地面に押さえつけてしまう。
「コバくんっ!」
「おいっ、よせ!」
フィオラさんと僕が制止しようとするが、それよりも鋭くダルドが言い放った。
「おっと動くな! 下手に動けば、部下達の手元が狂うぞ?」
踏み出そうとした脚が止まる。コバとナンジュさんを組み伏せたゴブリン達は、二人に容赦なく槍の穂先を突き付けている。
「お前、気は確かか!? その二人は、お前達と同じ血が流れる仲間だろう!?」
「ああ、間違いなく同胞だ。だが人間の社会に染まり、貴様らを擁護するようならこちらも手は抜けん。何せ、事は我々にとって死活問題なのでな」
ダルドの姿勢は揺らがない。部下のゴブリン達も、目を据えてコバとナンジュさんを見下ろしている。奴らは本気だった。
「それで、どうしようと言うのだ?」
背後で、フォトラさんが冷えた声で尋ねた。
「悪いが、人質など私には通じん。お前達が引き下がらないのなら、力尽くで制圧するまで。たったそれだけの人数で、我々を討ち取れるとは思わないことだ」
本気で言っているということは、声の調子で分かった。フォトラさんにとって、一番大切なのは妹の生命だ。彼の立てた【誓約】について詳しく聴いたことはないが、これまでの彼を見る限り大体想像はつく。その為なら、コバの安全を天秤に掛けることもやってのけるだろう。
生粋の戦士として生きてきた彼には、マルヴァスさんやローリスさんと同じシビアさがある。しかしそれだけに、彼が啖呵を切ればただのハッタリとは切り捨てられない。
「……フン、やはり《後続の種》だな。仲間だなんだと口では言っても、結局はそうやって見捨てるのか」
ダルドの目が、憎々しげに細められる。フォトラさんを睨む眼差しは、まるで親の仇を見るかのようなそれだ。
「ま、待って下さい! お互い、一度冷静に――!」
「いや、悪いけど僕も本気だよ。お前達がコバを、僕の友達を傷付けようというなら容赦はしない。僕は魔道士だ、お前達が槍を突き立てる前に、コバを救い出すことくらい出来るぞ」
メルエットさんを遮って、僕は肚から低い声を出した。
『ナオル……』
サーシャが不安そうな声を上げるが、僕の胸中を察してくれているのかそれ以上は言わなかった。
「さあどうする? 言っておくけど、こっちのエルフもかなりの手練れだよ。お前達に瞬きをする暇も与えないだろう。こちとら、何度も死線を潜ってきたんだ。やるとなったら、決して躊躇わない」
目を据えていた筈のゴブリン達が、浮足立ったようにお互いの顔を見合わせた。僕とフォトラさんから放たれる気迫に呑まれたようだ。健気に武器を手にしていても、戦いの場に臨んだ経験は乏しいのだろう。
動揺を見せなかったのは、ダルドただひとりだった。彼の毅然とした佇まいからは、内心が読めない。部下のゴブリン達も、気圧されてはいるものの逃げたり武器を下げたりする者はいない。ダルドの存在が、ギリギリのところで彼らを繋ぎ止めている。
無論、僕達もまだ動けない。飛び掛かるタイミングを見誤れば、コバとナンジュさんが危ないのだ。フォトラさんも、出来ることならあの二人を傷付けたくないと思ってくれているがゆえに、飛び掛かる隙を見出だせていない。
まさに膠着状態。果たして、先に勝機を掴むのは僕達か、それとも彼らか?
息の詰まるような沈黙が続く。永遠にこのままかとさえ思えた時である。
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。もうそれくらいで良かろう、ダルドや」
転機は、思わぬところから訪れた。