第二百四十七話
「ナオル様。衣類の取りまとめ、完了致しましたです」
「うん、ありがとうコバ。……スーリヤさん、こっちも小物類は行李に詰め終わったよ。そっちはどう」
幕舎の床に正座して文書の束を見つめていたスーリヤさんがそっと顔を上げた。
「ありがとうございます、“渡り人”様。それから……ゴブリンさんも。後はこれだけですので大丈夫ですよ」
手にした文書を掲げて力無く笑って見せる。コバに警戒心を剥き出しにする元気も無いようだ。ゴブリンである彼に衣類の整頓を許した事実からもそれは明らかだった。内心、よほど気落ちしているのだろう。
「スーリヤさん、あんまり気にしない方が良いですよ。【回帰主義者】との本格的な戦闘は避けられないと、イルテナさん達は肚を括っているんです。こうなった以上、教皇の大事なひとり娘をこれ以上付き添わせるわけにはいかないってなるのは、別に普通のことなんじゃないですか?」
「ええ、分かっています。分かっているんですが、やっぱり悔しいんです……」
スーリヤさんは肩を落とした。
「《聖還教》の教えを奉ずる者として、自分に出来ることはなんだろうってずっと考えてきたんです。戦いでは役に立てないから、せめて皆さんの心を安んじようと思って頑張ってきたつもりでした。彼らの為に祈り、女神様のご加護を願い、それを知ってもらって安心してほしいって」
「立派なことじゃないですか。スーリヤさんの献身さに救われた人は多いって、僕も思いますよ」
実際、彼女はこの旅程でしばしば一行の間を行き来し、積極的に随行員と交流していた。教皇の娘という肩書を持つだけに彼女の説教には人気があり、騎士のみならず宗派が違う魔道士達も少なからず聴きに行っているようだった。
「だったら、嬉しいんですけどね」
その事実も大して慰めにはならないのか、スーリヤさんは儚げに笑う。
僕達は今、帰還に向けて身辺の整理を行っている。土壇場で下されたまさかの命令に当然ながらスーリヤさんは猛抗議をしていたが、イルテナさんはこれは決定事項と強硬な態度で譲らず、まったく取り付く島もなかった。ならばと軍議が終わる頃を見計らってラセラン王子に取りなしてもらおうと考えたようだが、そこで彼の口からも同様の帰還命令が告げられて彼女は愕然としていた。イルテナさんの独断ではなかったのだ。
こうなってはスーリヤさんとしてもどうしようもなく、僕達の王都帰還は覆らないものとなった。僕もスーリヤさんも、それぞれの幕舎に戻って自分の荷物をまとめるよう改めてイルテナさんから申し渡された。
渋々その命令に従った僕達だが、男の僕はそんなに荷物もなくすんなりと準備が整ったので、そのままコバを伴ってスーリヤさんの手伝いに向かった。
そして今に至る、というわけだ。
「悪い方に考えることはありませんよ。スーリヤさんをこれ以上危険な目に遭わせたくないっていうのは、多分皆が考えていることですから」
僕は手伝いの傍ら、傷心のスーリヤさんを慰めることに腐心した。
正直なところ、僕もイルテナさんの下した命令に納得いかない部分がある。だけどあえて、彼女に意図を問い質すことはしなかった。何か考えがあるのだろう。
思いつくことはひとつだった。先日フィオラさんの吟じる詩歌でカムフラージュしながら打ち明けられた、秘密の使命。
すなわちイルテナさんは、スーリヤさんを信用していないが為にこの場で彼女を帰し、尚且つ道中で良からぬ動きを見せるかどうか僕に監視させようとしているのではないか?
僕は改めてスーリヤさんを見た。
僕個人としては、彼女に思うところが無いではない。しかしイルテナさんが危惧しているように、僕達を密かに裏切ってシー族と通じるような腹黒いことをする人にはとてもじゃないが思えない。もっとも、詐欺を働く人というのは得てして善良に見えるよう振る舞っているものだろうが。
果たしてスーリヤさんの正体は何なのか。ちょっと天然で差別意識がこびりついており、それでいて根は優しく見えるこの少女が、実はまったく偽りの姿だったなんてことが有りうるのだろうか?
「ど、どうしたんです? そんなにじっと私を見つめて……」
気付くと、スーリヤさんは顔を真っ赤に染めて僕を見つめ返していた。どうやら無意識に彼女を凝視してしまっていたらしい。
「ああ、いえ、何でもありません」
僕は努めて平静を装った。まさか自分に疑いが向けられていると、僕が監視の目的でこうして手伝いを申し出たのだと、彼女に気付かれるわけにはいかない。
「そ、そうですか? あんまり熱心に見つめられていたので、何か私に仰りたいことがあるのではないかと……」
じっと上目遣いで見つめられる。……あ、なんかその仕草可愛い。
ってそうじゃない! 僕は急いで言葉を探した。
「い、いやー、残念なのは僕も同じだなって言おうかどうか迷ったんですよ。男が愚痴ってるところなんて見苦しいかと思いましてね、ははは」
「見苦しいだなんて、そんなことはありませんよ! むしろ、“渡り人”様も同じ気持ちだったなんて嬉しいです!」
身を乗り出すようにスーリヤさんが力説する。上気した目に、少し元気が戻ったように見えた。
「そ、そうですか? 考えてみれば、スーリヤさんとはなんだかんだでゆっくりお話しする機会がありませんでしたね。帰り道はずっと一緒なんだし、見方を変えればこれはお互いにたくさん話せる良い機会かも知れませんよ」
「……! 言われてみればその通りですね! 私、“渡り人”様にいっぱいお尋ねしたことがあるんです!」
ぱっと花が咲くような笑顔に変わる。さっきまでの気落ちが嘘みたいな変わり様だが、空元気かも知れない。
その時、彼女の手に握られている文書の文面がちらっと僕にも見えた。
――“バレクタス責問に関する報告”。
「スーリヤさん、そう言えば気になっていたんですが、その書類は一体なんですか?」
「え? ああ、すみません!」
彼女は慌てて文書を僕の目から離した。
「……もしかして、中身見ちゃいました?」
「いえ、見えませんでした。僕が見たらまずいものですか?」
しれっと嘘をつく。方便方便。
「い、いえいえ! 決してそんなことはありません! ですがこれは、皆さんの個人的な願いなのであまり外には……」
「願い?」
詰問するような口調にならないよう、注意して追及した。たった今見た文章とそぐわない言葉がスーリヤさんから出てきたことに、否応なく警戒心が高まる。
「はい。これは、皆さんがこの道中で女神様に対して捧げた願文なんです」
傍らに積まれた文書の束を撫でながら、スーリヤさんは慈しむように語る。
「危険を伴う旅路ですからね。道中の安全や任務の成功を女神様に訴願したいって方が多くて、私が願文をお預かりしました。後は雨の日を待って、雲の女神様にこれらを捧げるつもりだったんですが、生憎と今日まで晴れの日が続いちゃいましたからね。ご覧の通り、全部残ったままなんです」
雲の女神パルナ・キアンを象徴するものは、やはり雲である。《聖還教》では曇りや雨の日を、パルナ・キアンが現世に顔を出す日だとして尊んでいる。スーリヤさんはその日を待って、これらの書類を女神に捧げるという体裁を取りつつ密かに処分する気だったのではないだろうか?
本当は願文などではなく、僕達の動向を誰かに教える為の文書だとしたら――。
「さあ、私の方も帰りの支度は整いました。後は空を見て、雲の女神様のご機嫌を伺っておこうかと思います。よろしかったら、“渡り人”もご一緒にどうですか?」
手にした文書をまとめて鞄に詰め込み、スーリヤさんは屈託のない笑顔でそう提案してきた。……やはり、演技をしているようには見えない。
「いいですね、付き合いますよ」
内心の声を仕舞って、僕は軽く頷いてみせた。文書の入った鞄はスーリヤさんの肩から提げられており、彼女が見ていない内にこっそり中身を検めることは出来ない。
僕とコバは、スーリヤさんに続いて幕舎の外に出る。
「ああ、やっぱり夜になっても晴れていますね。残念ですが、今日も最後まで女神様の御慈悲に与ることは出来ないみたいです」
山の天気は変わりやすいというが、バレクタスの天気はここ数日ずっと晴天だった。すっかり暗くなった空には、雲ひとつ無い代わりにたくさんの星が瞬いている。マグ・トレドでも、ネルニアーク山でも見た光景だ。サーシャやメルエットさんと見た夜空を、今はスーリヤさんと一緒に見上げている。
「あれ?」
いくつかの炬火が、揺れながらこちらに近付いてくるのが見えた。影を払って現れたのは、メルエットさんにフィオラさんとフォトラさん、それにナンジュさんといった面々だ。
「我々にも同様の帰還命令が下されました。貴方達を守れという、ブルーナボーナ卿の思し召しですね」
皆を代表してメルエットさんが教えてくれる。彼らの荷造りも既に済んでいるようだ。
「そうなんだ。皆が一緒に来てくれるなら、帰りも心強いよ」
「うむ、任せてくれ。ナオル殿を始め、誰ひとりとして欠けさせず無事に王都まで護衛しよう」
真面目一徹なフォトラさんが、ガシッと手甲を合わせながら力強く宣言する。
「本当なら新しい詩歌の為に此処に留まって、最後まで戦いの様子を見届けたかったんだけどね。ナオル君達の安全には代えられないから」
「主命により、“渡り人”様達のお世話をさせて頂きます。コバ殿がいらっしゃる以上、私めは不要かも知れませんが、何卒意を曲げてお許しくださいませ」
「分かりました。フォトラさん、フィオラさん、ナンジュさんも。道中、よろしくお願いします」
苦笑いを浮かべたフィオラさん、恭しくお辞儀をするナンジュさんの顔を見渡して、僕はしっかりと頷いた。
こうして【回帰主義者】との決戦を目前にして、僕達は王都へとんぼ返りすることとなったのである。