第二百三十五話
ドル・ドナ騎士団は僕達の周囲を一片の慢心も無く固めている。《竜牙の塔》から派遣された魔道士達も、常に気を張り巡らせていた筈だ。
その彼らよりも先んじて、森が発する違和感に気付いたサーシャ。警戒に満ちた彼女の声に導かれるように、僕は違和感の発信源を見た。
「あれは……!?」
およそ三十メートルくらい先の、一際太いカラニレの幹。そこに寄り添うように、白い髪の人間が立っていた。
「メルエットさん!」
コバと歓談中のメルエットさんに声を飛ばしながら、僕はその人物を注意深く観察した。
雪のような白い髪は長く伸び、足首にまで達している。長い髪に遮られて人相は分からないが、着ている襤褸のような薄いドレスに浮かび上がる肩の線は丸みを帯びているような感じがする。女性だろうか?
「ナオル殿、どうしたの!?」
僕の声に気付いたメルエットさんが隣にやって来る。僕は白い髪の女性から目を離さず、そちらを指差した。
「……なるほど、確かに不審ね。対応を講じるよう、殿下か公爵閣下に上申してくるわ」
メルエットさんは機敏に動いてくれる。指揮官への通達は彼女に任せ、僕はじっと白い髪の女性を注視した。何か妙な行動を起こそうとすれば、即座に対処しなければならない。
「――、――……」
離れている為に分かりづらいが、白い髪の女性の口元が微かに動いたように見えた。此処から見える彼女の佇まいは、随分と貧相で痩せている。それでも、髪に隠れた目からは得も言われぬ重圧を感じた。
『かつての屈辱……同胞を守り切れなかった無念……さぞ、お嘆きは深いことでしょう……』
「サーシャ、彼女が何を言っているのか分かるの?」
電波状況の悪い無線から声を拾うようにサーシャが呟くのを聴いて、僕は期待を寄せる。果たして彼女は言った。
『うん、あの一点に感覚を研ぎ澄ませれば空気の動きから音は拾えるよ。……待ってて、まだ何か言ってる』
そうしてサーシャは風の精霊の力を活かして白い髪の女性の言葉を代弁してゆく。
『種族の悲願……雪辱の時……もうすぐ、その時は訪れます……』
どうも彼女は不穏なことを口走っているようだ。サーシャの通訳を聴きながら僕の中で警戒心が高まってゆく。
「止まるな、そのまま進み続けろ! キドニー、ケイン、それからそこの魔道士! 其方らであの者の素性を確かめて参れ!」
ラセラン王子の良く通る声が、全体に指示を通達する。彼の命令に従って、二人の騎士とひとりの魔道士が僕達の列から外れて白い髪の女へ近付いていった。
「だ、大丈夫でしょうか……? こんなところにひとりで居るなんて、あの人相当怪しいですよ?」
「ですのでこれから問い質しに行くのでしょう? 分かりきったことを改めて口になさるのは感心しませんよ」
「ひゃんっ!? こ、公爵閣下!?」
いつの間にかイルテナさんが傍まで来て、怯えたことを口走るスーリヤさんにツッコミを入れていた。手庇を作りながら白い髪の女性を透かし見て、彼女は眉をひそめる。
「他に誰かが潜んでいる様子はありませんわね。騎士と魔道士の三人でなら滅多なことは起こらないと思いますが、さて」
イルテナさんの言う通り、白い髪の女が立っている付近はちょっと開けた場所になっており、彼女が寄り添っている一本のカラニレの木を除いて身を隠せそうな場所は無い。そもそもあの木は幹が太いとは言い難く、死角にするには心許ないだろう。それに、たった三人を罠にかけてどうしようというのか。
「そこな女、何者か!? 名前と身分、それから出身地を答えよ!」
二人の騎士の内ひとりが大声で白い髪の女性を誰何する。その傍らではもうひとりの騎士が盾を構えながら油断なく周囲の様子を探っている。二人の後ろでは、魔道士がいつでも魔法を放てるように両手を前で合わせているようだった。
「どうした!? 答えられないのか!?」
白い髪の女性から返答は無く、苛立った騎士が再度の誰何を試みる。盾持ちの相方より一歩前に出て腰を落とし、いつでも剣を抜ける構えに入った。
『まずは小手調べ……忌むべき敵の末裔……王国の使者……』
その間も、白い髪の女性は誰にも届ける気の無い独り言をブツブツと喋っているようだ。微かに空気を震わせるに過ぎないそのか細い音声を、サーシャは一切余さずに掴み取る。
『彼の者共を喰らい、破滅の先触れと為すべし――! ナオルっ!』
「皆気をつけて! あれは敵だ!!」
サーシャの合図と共に僕は叫んだ。ここまで聴けばもう分かる。
あの白い髪の女性は、僕達に敵意を持って此処に居る――!
「っ!? 貴様、動くな!」
白い髪の女性が、手のひらを騎士達に向けてかざす。彼女の不審な動きと僕の叫びに状況を察した騎士が剣を抜く。
「……!? な、なんだ!?」
だが次の瞬間、白い髪の女性が見せた変化に彼らは戸惑いの声を上げた。
「ううっ……! ひっく……! えぁ……! おぉぉ……!」
鼻をすする音と、えづく声。それまで蚊の泣くような声で独り言を囁くだけだった白い髪の女性が、突然大きな声で嗚咽を始めたのだ。
そして、髪の間から頬を伝い地面へと落ちる雫。涙――。
「あれ、あの涙……赤い!?」
遠目ではっきりとは分からないが、白い髪の女性が流している涙が、赤く染まっているように見える。白い髪と白い肌に対するコントラストで、それは余計に目立っていた。
「ええ、確かに赤いわね。彼女、泣きながら目から血を流してるみたい」
メルエットさんの声が隣からした。どうやら彼女も戻ってきていたらしい。
視力に優れるメルエットさんが言うなら間違いない。白い髪の女性は、血の涙を流しているのだ。
頬の先から落ちた血が、地面に落ちて黒ずんだ土に吸い込まれてゆく。
「総員停止! 横列を組め! キドニー、彼の者を確保せよ!」
ラセラン王子の指示が飛び、戸惑いを振り切った騎士が剣を振り上げ白い髪の女性に肉薄する。
その瞬間、女性は大きく口を開けた。
「――ァァァァ!!!」
声が――いや、それを声と言ってしまって良いのかも分からない――あたりを聾する程の凄まじい不協和音が、白い髪の女性の喉から迸った。
「っ!? なんだこれ!?」
「あの女の声だと言うの!?」
自分の声も、すぐ隣に居るメルエットさんの声もかき消されてしまいそうなハウリング。耳から脳を揺さぶられるような衝撃に耐えながら、僕は必死に白い髪の女性の方に視線を戻す。
彼女を取り押さえんとしていた三人もまた、耳元を抑えてその場に蹲っていた。そして白い髪の女性は――
「……やばそうだ」
白い髪の女性が立っている辺りに、黒い靄のようなものが吹き上がっている。墨汁を溜め込んだような水たまりが足元に出来て、そこからどんどん瘴気が生まれていく。
そして黒い湖面には、今もなお白い髪の女性の赤い涙が注がれ続けていた。
「バンシー……! 死者を呼ぶ響鳴と、血の涙による魔法効果……!」
イルテナさんが、苦汁を飲み干したような声でそう呟いた。
「総員警戒を! あれは《血精魔法》です!!」
その言葉が終わらない内に、地面の黒い湖面から勢いよく水柱が巻き上がった。
「魔道士! 放て!」
ラセランさんの号令と共に、僕達の背後から無数の火球が弓なりに頭上を飛んでいく。いつの間にか仲間の魔道士達は戦闘態勢を整えていたようだ。赤い火の玉がいくつも黒い瘴気を破り、水柱に激突する。
だが白い髪の女性には届かなかったようだ。火球を尽く飲み込んだ瘴気の泉は、今やすっかり辺りを覆い尽くし彼女の姿をも遮ってしまう。
その代わりに高まる異様な気配。瘴気の靄からボコボコという音が上がり、大気を震わせる。
『ナオル、何か来る! あの黒い靄の中から、すっごく禍々しい何かが出てくるよ!!』
「前方の三名、至急後退せよ!」
僕が口を開く前に、ラセラン王子は突出していた二人の騎士と魔道士に下がるよう命じていた。その三人は目の当たりにした不気味な光景に気を呑まれていたようだったが、主の指示によって我に返り急いでその場を離れようとした。
だがそこへ、三人の動きに反応したかのように黒い靄から大きな影が飛び出す。三人の内、盾を持っていた騎士――恐らくはケインと呼ばれた方――が機敏に二人を庇って前に出た。
靄から出てきた影は、駆け抜けざまに凄まじい勢いで手に持っていた棒状の物をそこへ叩きつける。構えた盾ごとケインと呼ばれた騎士は弾き飛ばされ、背後に居た二人を巻き込みながら地面へと倒れ込んだ。
「そんな……!」
僕は目を見開いて三人を纏めて薙ぎ倒した影を見た。そいつは走る勢いを少しずつ緩めながらカラニレの木々を縫うように旋回し、僕達の前にその姿を晒す。
それは、逞しい漆黒の巨大な狼に跨り、右手に巨大な円柱型の鉄球を付けた長柄の武器を構え、左手にフクロウを思わせる人頭大の生首を抱え込んだ、甲冑姿の首無し騎士だった。