第二百三十三話
「こうしてお話し出来る機会を設けられて嬉しく思います。普段は必ず余人の目がありますからね」
イルテナさんの声を間近で聴きながら、僕は改めて幕舎の中を見渡した。
僕とイルテナさんの他には、マンドリンを奏でながら詩を歌うフィオラさん、それにコバとナンジュさんしか居ない。フィオラさんは無心に歌い続けており、二人のゴブリンはすっかりそれに聴き入ってこちらの様子には気付いていないようだ。外には歩哨が立っているが、彼らに聴こえるのもフィオラさんの歌声だけだろう。
「ナンジュなら心配無用、信頼出来る配下です。貴方が伴ったゴブリンも、貴方の友なのでしょう?」
「ええ、それは勿論」
イルテナさんに目を戻して、僕はしっかりと頷いた。話の内容が何であれ、僕からすればコバにもフィオラさんにも聴かれて困ることでは無い。無論、今も僕の隣に居るサーシャにも。
『人払いをする口実の為に皆を呼んで、外に話し声が漏れないようにフィオラさんに歌わせてるってこと? やっぱ食えない人だね~』
サーシャの声には呆れが混じっていたが、彼女が神経を尖らせているのは僕にも分かった。こんな手間をかける以上、少なからず踏み込んだ話になるのは明白だ。彼女が傍で聞き耳を立ててくれているのはありがたい。
「それで、お話とは何ですか?」
「その前に、顔と姿勢はフィオラ殿に向けなさい。並んで彼女の詩歌を鑑賞している風に装うのです」
イルテナさんに顔を戻すと、彼女は既に僕の隣に腰掛けてフィオラさんに向かって笑顔を浮かべている。一見すると、彼女の言う通り詩歌の調べに聴き入っているようにしか見えない。
「分かりました」
そこまでする必要があるのかと思わないでもないが、そこは権謀術数で宮廷政治を生き抜く公爵閣下の仰せだ。素直に従っておこう。
「《聖還教》には、“浮雲派”と“東雲派”という二つの流派があることはご存知?」
イルテナさんに倣って座り直した僕に、彼女はいきなりそんなことを訊いてきた。
「いえ、初耳です」
僕は短く答える。笑顔を作りながら意識を隣の人間との会話に集中させなくてはならないので、中々に神経を使う。
「簡単に説明すると“浮雲派”というのは穏健派、“東雲派”というのが過激派、といったところです」
「はぁ……」
本当に簡単な説明に留めてくれるのは有り難いのだが、話の意図が見えてこずに生返事になる。
「そして、現在の教皇は“浮雲派”から選出された人物です。彼の温和な性格とそれに沿った方針が奏功して、我がダナン王国と《聖還教》は過去類を見ない建設的な協力関係を築いてこられたと申しても過言ではありません。その勢いは、瞬く間に《竜始教》を押し流して人々の信仰を塗り替える程のものでした」
「なるほど、なるほど」
適当に相槌を打ちつつも、頭の中では必死に話の内容を噛み砕こうと奮闘していた。
つまり、元来は《竜始教》が主流だったダナン王国を宗旨変えに導いたのが現在の教皇ということか。ジェイデン司祭の話や、モルン村のホワトル牧師が言っていたことからして、今や《聖還教》はすっかり国教と言っても良いくらい国の隅々まで浸透しているらしいし。聖堂騎士団なんて自前の軍隊を持つことを許されたのも、割と最近の話だったみたいだし。
そこまで考えて、ふと僕は引っ掛かるものを覚えた。
「ん……? 教皇って、穏健派に属する人なんですよね? それなのに、そんな急進的な改革が行われたと言うんですか?」
「そこが、あの男の食えないところです」
イルテナさんの口調に皮肉と嫌悪が混じる。
「口に蜜を溜めながら腹に剣を隠し持つ、とはまさにああいう男を言うのでしょうね。表向きは何処までも柔和で親しみやすい教皇の姿を演じつつ、裏では“東雲派”を操って強引な布教を推し進めていたのです。言うまでもなく、“浮雲派”と“東雲派”は同じ教義を奉じていながら、細かな解釈や見解の相違からそれぞれに異なる方針を掲げる者達です。“浮雲派”から生まれた教皇を、“東雲派”が良く思う筈がありません。あの男――アルンノックスは、対抗勢力が抱くそのような感情を上手く利用しました」
教皇アルンノックス、スーリヤさんの父親だな。僕は適当に頷きつつ、イルテナさんの言葉の続きを待った。
「“東雲派”は自分達の基盤を強固にしようと躍起になり、王国全土で大々的な布教を行おうとしました。教皇は彼らのその活動を認め、尚且つ施政会議でもそれを認めるよう働きかけてついには陛下の勅許を得たのです」
施政会議なら僕も聴いたことがある。数年に一度、不定期に開かれる国会みたいなものだ。各地の有力な貴族が招かれ、国王の御前で政治についての意見を述べる。国家の意思決定を左右する重大な会議であるとフヨウさんやブリアンからは教わっていた。
「その時点で数多の貴族達から支持を勝ち取っていた《聖還教》の要請を却下することは難しく、陛下も教皇の意志を認めざるを得ませんでした。そして教皇は、使命に燃える“東雲派”が動くに任せつつ、肝心なところで首根っこを抑えつけるという絶妙な制御で瞬く間に《竜始教》を圧倒していきました。元来、人心というのは移ろいやすいもの。変化してゆく生活感情に伴って、《竜始教》が古い教えとされ《聖還教》が馴染んでいくようになったのはある意味では仕方のないことです。加えて十年前の大戦にヒメル山での竜の飛来。世界で起きた様々な事象も彼らにとって追い風となり、今や《聖還教》は貴賤問わず数多の国民から支持を勝ち取り、無視できぬ勢力に成長してしまったのです」
「……イルテナさんは、それが面白くないんですか?」
彼女の、スーリヤさんへの当たりが強い理由が何となく分かった気がする。《聖還教》への警戒心と忌々しさをここまで露骨にされては、どんなに鈍くてもその辺りの機微は読めてくる。イルテナさんは魔道士だ。言うまでもなく魔道士とは魔法の力を行使するもの、そして魔法の力の源流は《竜始教》の教えにある始祖竜だとされている。そうした事情から、魔道士と《聖還教》は元々折り合いが悪いものだとフヨウさんが言っていたことを、僕は思い出した。
「強い危惧を感じていることは、否定しません」
「と、言いますと?」
イルテナさんはすぐには答えず、パチパチと手を叩いて拍手をした。気付くとフィオラさんの詩歌は節目に入っており、彼女はマンドリンを掻き鳴らして間奏を流しているところだった。
やがて曲の調子が変わり、フィオラさんの口が二つ目の詩歌を紡ぎ出したところでイルテナさんはさっきの疑問に答えた。
「現在の教皇が政治手腕に長けた権謀術数の塊であること、それ自体は特段問題でも無いのです。私も宮廷で生き延びて【三環師識】の椅子に座っている身、綺麗事だけで泳いで行ける程甘い世界では無いことは重々承知していますから」
では何故? という意味を込めて視線をイルテナさんの横顔にずらした。相変わらず優雅な微笑みを崩していないが、その瞳の奥に形容しがたい感情が揺れているように思えた。
「……彼らが、王国に対して反旗を翻そうとしているとしたら?」
「えっ――!?」
僕達を包む空気が変わった。イルテナさんは顔に微笑みを貼り付けたまま、あくまでも表面上は淡々とした口調で続けた。
「我が館へ侵入したオークの一味、それからシー族。彼らと、“東雲派”が接触していた痕跡があります」
「……何か、決定的な証拠を抑えたんですか?」
「いいえ。ですが“東雲派”は、かねてから宰相と特に懇意にしているようでしてね」
宰相――。その単語を聴くだけで胃が竦み上がるような感じを覚えた。
なんとか動揺を飲み込もうとしている僕を、イルテナさんはちらりと横目で見た。
「ブリアン殿下より大体のお話は伺っております。私としても、宰相はあまりに謎めいていて信用に足らぬ存在だと常々思っていたのです。彼の者がオークやシー族と繋がり、国家転覆を企てていると聴いても驚きません。ラセラン殿下をやたらと押し立てる意図も腑に落ちるというものです。そして、その観点で宰相の繋がりを見ていけば、関係者達の思惑は一致していると考えてよろしいでしょう。先に申し上げた通り、“東雲派”は現教皇を好ましく思っていない。しかし実態は、彼の支配下に置かれてあると言っても過言ではないのです。宰相がシー族やオークを操っていると言うなら、我が館への襲撃は十中八九彼の者の意によるもの、そしてその手引きをしたのは――」
「“東雲派”を制御している教皇の一派……つまり、あの夜館に招かれた《聖還教》の人々だと?」
【三環師識】のひとりであるイルテナさんが宰相を敵と認識している。それが分かったのは僥倖だったが、彼女の話の趣旨は俄には信じがたいものだった。
「教皇の愛娘、【聖女】などという如何わしい称号を与えられているあの娘なら可能だと思いませんか?」
イルテナさんの問いに、僕は答えることが出来なかった。
あの如何にも裏表の無さそうな、朗らかながらも常にいっぱいいっぱいで余裕が無くミーハー気質まで併せ持った、何処にでも居る普通の女の子のようなスーリヤさんが、そんなことを?
彼女が属する“浮雲派”がやったというならまだしも、対立している勢力を彼女が器用に利用している図を、僕にはどうにも想像できない。
「当初、我々の一行にあの娘が加わる予定はありませんでした。当人と、そして教皇たっての頼みということで半ば無理やりねじ込まれた人員です。私は宰相を牽制する為、この調査にかこつけてラセラン王子を王都から一時引き離しておこうと考えましたが、《聖還教》はそこへ【聖女】を送り込んできたのです。これに何の意図も感じないのは、相当の愚者だけでしょうね」
「……宰相と、“東雲派”が懇意にしているというところを、もう少し詳しく教えて頂けますか?」
どんどん話を進めようとするイルテナさんを牽制する意図を込めて、僕は質問を差し挟んだ。
「単純な話です。“東雲派”は自分達の資金源を確保する為に常日頃から勧進を募っていましたが、これに積極的に応じたのが宰相という事実があります。宰相の援助で建てられた教会の数も、ひとつやふたつでは無いのですよ。先程申し上げた教皇による全国布教の許可申請も、宰相が後ろ盾となって施政会議に上げられた議題なのです。まぁもっとも、未だにアルンノックスが教皇の地位に収まり続けていることから考えて、宰相とより結び付きが強いのは彼の方ということになるのでしょうがね」
政治と宗教の癒着か。確かに、有り得そうな構図だった。
「宰相の進言は、陛下と言えども無視出来ぬ力を秘めております。彼の者と《聖還教》が本格的に繋がっているとしたら、その活動を表立って止めることは困難です。動かぬ証拠を掴みでもしない限り」
「…………」
話は核心に近付いている。僕はイルテナさんの言葉を聞き漏らすまいと全神経を集中させた。
「我々が陛下から仰せつかった役目は、事態の把握と《竜巫石》の奪還。私は、この機に国内の膿を残らず出し切ってしまいたいと考えています。そしてそれを為すには、“渡り人”たる貴方の協力が不可欠です」
表情も目も動かさないまま、イルテナさんが低い声で告げた。僕は大きく息を呑み、慎重に彼女に尋ね返した。
「それはつまり、宰相を追い落とそうとしていると解釈して良いので……?」
「加えて、《聖還教》の影響力もです」
イルテナさんは否定もはぐらかしもしなかった。ついに、秘められた彼女の意図が明らかになる。
「スーリヤ・アルンノックスは貴方にご執心です。彼女から目を離さず、その動向に注意を払いなさい。疑わしい点があれば、巨細漏らさず私に報告すること。貴方の活躍如何によっては、一気に目的を達することが出来るかも知れません」
「でも、それなら《竜巫石》と犯人の捜索は?」
「我々が何人でバレクタスに向かっているか、お忘れですか? こちらのことは気にせず、貴方にはスーリヤの相手に専念してもらいたいのです」
要は、イルテナさんは僕にスパイをしろと言っているのだ。スーリヤさんを牽制しつつ、身辺を探ってこれまでの事件に繋がる証拠を見つけ出せと。
これは、今までの戦いとは勝手が違う。そんなことが、僕に出来るのだろうか……?
「宰相は、貴方にとっても許し難い敵。彼の者を追い詰めることは、貴方にとっても悲願ではなくて?」
僕の内心を見透かしたかのようにイルテナさんは言う。相変わらず一切表情を変えないまま、彼女はそこでまたしても拍手をした。
「すぐに決断を、とは申しません。バレクタスに着くまでにどうするか決めておきなさい。賢明な判断を下されるよう、願っておりますわ」
最後にそう言って、イルテナさんは話を締めくくった。彼女はそのまま優雅に腰を上げ、拍手を続けながらフィオラさんの方へと歩いてゆく。
詩歌の調べは、既に終わっていた。