第二十二話
「な、なんだこれは!? あの竜の鳴き声か!?」
守備隊長の言葉を皮切りに周囲がどよめく。彼の言う通り、今度の咆哮は何らかの感情が込められているような調子で、明らかにこれまでとは違う。兵士達はクロスボウを構えるのも忘れて右往左往し、マルヴァスさんとイーグルアイズ卿も顔を蒼白にしていた。
「ジェイデン! 貴様何をした!?」
「何もしておらぬ! 儀式の用意もまだしておらぬのだぞ!」
「嘘を吐くな! その水晶玉が光を放ったのを、ここに居る全員が目撃しておる!」
「であるからこそ、私も驚いておるのだ! 正式な手順を踏んでおらぬのに、《竜巫石》が反応しようとは……! これも竜の神秘の為せる業かっ!」
「無責任な戯言を申すな! 余計な真似ばかりしおって!」
「いやいや、むしろこれは好機と捉えるべきだ! 竜が応えた……! 我が意志を感じ取って下さったのだ! ははは!」
守備隊長が怒気を顕にしてジェイデン司祭にがなり立てるが、当の本人は逆に気分を高揚させてゆく。愛おしそうに水晶玉を撫でながら、力強く宣言する。
「竜が来る! 我が元に御渡り下さるぞ!!」
――グオオオオオオォォォ!!!
ジェイデン司祭の叫びに応えるかのように、竜が吠える。大きさからして先程よりも近い。同時に強風が巻き起こって砂埃が舞い、松明と篝火の火が揺らぎ、テントがたわむ。
「……っ! 皆の者、配置に戻れ! 武器を構えよ! 決して狼狽えるな!!」
酔いが醒めたように、イーグルアイズ卿が素早く指示を飛ばす。守備隊長は、ジェイデン司祭を忌々しそうに睨み付けながら一度舌打ちをして、兵士達の所へ駆け戻った。マルヴァスさんも背中の弓を取った。
「おい、ナオル」
「……えっ!?」
僕はと言うと、急転する事態にどうしたら良いのか分からず、所在無さげにおろおろするばかりだったので、目の前に立ったマルヴァスさんに気付くのが一寸遅れた。
「お前が持っていろ」
彼は昨夜と同じように、《ウィリィロン》を僕に向けて差し出していた。
「マルヴァスさん……!? でも……!」
「でもじゃない。男だろう? これで自分の身を守れ」
「……っ! は、はい……!」
厳しい表情に気圧され、思わずそれを受け取る。再び手に預けられた《ウィリィロン》は、心なしかこれまでよりも重く感じられた。
「お前を守ってやると約束したがな、もしかしたら果たせなくなるかも知れん。……悪いな」
「マルヴァスさん……! そんな……!」
「忘れるな、その剣はお前の『意志』に応える。自分を強く持て。相手が何であろうと決して呑まれるなよ、良いな?」
「でも、僕は……っ!」
さらに言い募ろうとした時、視界の端で黒い塊が横切り、横殴りの突風が吹きすさぶ。
「っ……!?」
「来るぞ!!!」
イーグルアイズ卿の大声に呼応するように、黒い塊が眼前の夜空に大写しになる。正体を視認する暇も無く、『それ』は勢いを保ったまま突き上げるように大きく上昇したかと思うと、今度はまるでジェットコースターみたいに空中で弧を描いて落下の軌道に入る。
「……!!」
誰もが息を呑み、呼吸を忘れたかのように『それ』に釘付けになっていた。
やがて『それ』は上空で身体を反転させて体勢を整えると、大きく羽ばたきながら落下の勢いを殺し、ゆっくりと下降してきた。そして、全員の目がその姿を認識出来るくらいの高さで留まり、滞空する。
黒い鱗に覆われた全身、片方だけで胴体を覆い尽くす巨大な一対の翼、骨太な四肢、身体と同じくらい長い尾。
『それ』は鎌首をもたげ、黒い体躯と対照的な白く濁った目で僕達を見据えた。
「《棕櫚の翼》……!」
マルヴァスさんの呻き声に近い呟きが聴こえた。他の声は上がらない。イーグルアイズ卿も、守備隊長も、兵士達も、きっと目の前の存在が放つ威圧感と必死で戦っているのだろう。
そして、それは僕も同じだ。羽ばたきが発する轟音の中に、自分の荒い息遣いが弱々しく混ざる。
「……!」
竜だ……! 本物の竜だ……! あの顔、間違いない。鋭い牙も、鼻のトゲも、頭の二本の角も、その恐ろしげな風貌全てが水晶玉に映ったのと同じだ……!
ファンタジーの大物。幻獣達の王。強さの象徴にして畏怖の対象。今目の前で飛んでいるそいつは、紛れもなく正真正銘の竜だった。こうしてその全容を見て、改めて実感が湧く。
「竜よ!!!」
誰もが竜の威容に圧倒され動く事さえ出来ない中、最初にその呪縛を解いたのはやはり彼だった。
「偉大なる《始祖竜》の末裔よ!! 我はそなたを崇め、祈りを奉る者なり!! どうか荒ぶるのを止め、我が声に耳を傾けられよ!!!」
それは聖者の勇気か、それとも狂信者の無謀か。
強風と砂塵の中、例の水晶玉、《竜巫石》を竜に捧げるように両手で掲げ、ジェイデン司祭は高らかに竜に語りかける。
「秘境に住まい、地上を見守る守護者であるそなたが、何故このマグ・トレドにお越しか!!? 一体如何なる理由を以って、慎ましく暮らす善良な民の眠りを妨げるのか!!?」
ひょっとしたら、彼がこの事態を打開してくれるのかも……と心の何処かで期待しているからだろうか、ジェイデン司祭を制止する者は誰も居ない。僕を含む全員が固唾を呑んで、彼と竜を見比べていた。
「我々に非があるのなら、どうかそれを教えてもらいたい!! 罪の中身が分からなければ、悔いる事も改める事も出来まい!! 竜よ!! ヒメル山でのそなたの怒りは皆が心にしかと受け止めておる!! 同じ過ちは二度とすまいぞ!!」
ジェイデン司祭は懸命に訴えかける。《竜始教》司祭の矜持にかけて、竜を鎮めんとしている。
だが、竜は一向に反応を示さない。彼の事を眼中にも入れていないかのように無視している。ただ一点のみを見つめ、じっと空中で留まっているだけだ。
そして、その視線の向かう先とは――
「…………」
僕は、恐る恐る竜と目を合わせた。
夜の闇より尚暗い有り様の中、そこだけが別物のように鈍く光っている黒竜の眼。
《棕櫚の翼》の死神のような瞳が、僕を捉えて放さない。
「あいつ……もしかして、ナオルを見ているのか!?」
マルヴァスさんも気付いたようだ。彼の驚愕を肯定するかのように、黒竜の口が大きく開く。
そして、地上に暮らすどんな猛獣も上げられないであろう、空の王者の雄叫びを上げた。
――ギュオオオオオオオオオオォォォ!!!!!
「――ッ! おのれェェ! トカゲ風情が!!」
守備隊長が、弾かれたように動く。《竜墜》に向かって走り、凍り付いている兵士を押しのけて、レバーを掴む。
「……っ!? 待て! 早まるな!!」
「いかん!!!」
「あのバカ……っ!」
イーグルアイズ卿、ジェイデン司祭、マルヴァスさんの、三者三様の制止も彼には届かなかった。竜の威容に圧倒されながらも兵士達はしっかり務めを果たしていたのか、《竜墜》の照準は既に天空で羽ばたく大いなる標的に向けて定められている。
「この街を、護るべき民を、貴様の良いようにされてたまるかァァァ!!!」
恐怖を払い除けるように、怒りで己を鼓舞するかのように。
使命に燃える守備隊長は、勢いよくレバーを引いた。