第二百三十一話
「ねね、ナオルくん。目的地まではあとどれくらいかな?」
今日は此処で野営という指示が下されて、大勢の人間が動き回っている光景を微妙な気持ちで眺めていたところに、またもや彼女が近付いてきた。長く艶のある金色の髪が尾根に吹く風にたなびき、その隙間から覗くとんがり耳が西日によく映えている。
これで何度目だろうか? 数えるのも億劫になるくらい繰り返された質問を、今またもう一度フィオラさんは言った。
「もう少しです。この山を越えれば、カーレスの森という森林地帯に入ります。そこを抜ければ、バレクタスだそうですよ」
僕は苦笑いと共に、すっかり口に馴染んだ説明を既に消化した行程は省略してまた彼女に教えた。「そっかー!」と内心の高揚を抑え切れない調子で、美しいワイルドエルフが小躍りする。彼女の動きに合わせて、見慣れたロングスカートの裾がふわりと舞い、土が剥き出しになった地面に影の傘が落ちる。
「此処に来るまで既に山越えを二つ、谷渡りを三つ。いやー、こんなに険しい旅路はドワーフ領の【巌の道】以来かも知れないよ! ダナン王国の中央部がおよそ人の立ち入らない秘境だって噂には聴いていたけど、まさかこれ程とはね~。この行程だけでも、詩をひとつ作れそうだよ!」
吟遊詩人としての血が騒ぐのだろう。王都フィンディアを出発してからずっとウキウキしていたフィオラさんだが、日数が経過してもその熱は冷めるどころか益々高まってゆく一方のようだ。こうして一緒に旅をするのも実に数カ月ぶりだと言うのに、彼女の元気さや詩に掛ける情熱は少しも変わっていない。それが嬉しく思えて、何度同じことを訊かれても余り鬱陶しさは感じなかった。
「……ありがとね、ナオルくん」
不意に、それまでひとりでお祭り騒ぎをしていたフィオラさんが突然鳴りを潜め、僕の顔をしみじみと見た。これも、此処までの道中何度も繰り返されたシーンだ。みなまで言われるまでもなく、その態度の意味が分かった僕は何でも無いことのように手を振ってみせた。
「もう良いですって。お礼を言うなら僕よりイルテナさんに、ですよ。ケルピーの秘薬を提供してくれたのは、あの人なんですから」
「うん……。でも、ありがとう」
フィオラさんには、初めての土地へ出向くことに対する喜びの他に、もうひとつ感謝の気持ちを抱く理由があった。ただ生憎ながら、それを向けるべき相手は僕では無い。
「フィオラ殿、こちらにいらっしゃったのですか。ナオル殿と歓談なさるのは結構ですが、これは行楽では無いのです。もう少し気を引き締めた方が良いと思いますよ」
「む~! フィオラさんだけ“渡り人”様とお話しするなんてずるいです! 私にも少しくらいお時間を下さいよ~!」
と、そこへ左右から非難めいた響きのある声が加わった。見るといつの間にか傍まで来ていたメルエットさんとスーリヤさんが、それぞれ不満を顔に浮かべて僕とフィオラさんを見比べている。メルエットさんは以前の旅でも見たように革のジャケットにズボンというラフな出で立ちだが、スーリヤさんの方は少々薄着になったとはいえ相変わらず動きにくそうな法衣に身を包んでいた。《聖還教》の聖女として旅先でもそんな恰好をしなくてはならないらしいが、何とも難儀なことだ。
「あはは、ごめんごめん。別にナオルくんを独り占めする気は無いよ。あたし、ちょっとこの辺を散歩して詩想を掻き立ててくるから、後は若い人だけでごゆっくり!」
さっきまでのしんみりした物腰が嘘だったかのように、フィオラさんは快活に笑ってさっと踵を返した。
「若いって、貴方もまだ齢二十三では……?」
「おっとメルエットちゃん、細かいことは言いっこなしだよ! ではではそういうことでっ!」
ビシッ! と軽やかに手を上げて、フィオラさんは愛用のマンドリンを携えながら跳ねるような足取りで何処かへ出掛けてゆく。野営の支度をしている周りの騎士さん達の間から、「ようフィオラ! 後でまた詩を聴かせてくれよ!」とか、「あまり遠くへは行くなよ~!」などとフレンドリーな言葉が続々と投げかけられ、彼女はにこやかに手を振ってひとつずつそれに応えていた。
「すっかり人気ですね、フィオラさんは」
「ワイルドエルフが珍しいということもあるでしょうけど、それ以上に本人の人柄が為せる業でしょうね」
僕の感想に、メルエットさんが相槌を打つ。その様子を、またもスーリヤさんは不満そうに頬を膨らませながら見ていた。
「“渡り人”様は、ああいう女性の方が好みなんですか?」
「え……!? あ、いや……!」
「それは私も興味がありますね。ナオル殿、良い機会ですので是非お聴かせ願えませんか? 別に私には何ら関わりが無いことですが、ひとつ今後の参考の為に」
ずい、と左右から真剣な眼差しの女の子が迫ってくる。あ、圧が……圧が凄い……!
『引く手数多だね~、ナオルは。エルフの吟遊詩人に伯爵令嬢に教会の聖女様、さてさてこの女たらし君は一体誰を選ぶのかな~?』
サーシャの愉しげな声が、僕の耳元で弾んだ。黙っていてくれと心で念じながら虚空を睨むが、彼女は余計に煽り立てるようにコロコロと笑うだけだった。
「ごほん! お楽しみ中に申し訳ありませんが御三方、少し宜しくて?」
聞こえよがしな咳払いがして、イルテナさんが僕達の間に割って入ってきた。彼女もまた、メルエットさんと同じように気取った上流貴族のドレスを脱ぎ捨て、身動きの取りやすそうな革の上衣にズボンというスマートな服装になっていた。違いは、メルエットさんの装いは黒茶のような目立たない色彩で整えられているのに対し、イルテナさんのは赤いジャケットに白いズボンという如何にも目立ちそうな色合いになっていることだ。何となく、少女漫画に出てくる女性騎士みたいな感じをしていると僕は思った。
まあ、もっとも今は一括りに纏め上げられているメルエットさんの髪も鮮やかな紅色なので目立つことは目立つのだが。
「いよいよバレクタスが近付いてきました。改めて繰り返しますが、彼の地は王国がシー族に与え給うた封地。魑魅魍魎が跋扈する魔境とさえ言われている領域です。不測の事態が起きる可能性は排除し切れないのですから、くれぐれも気は抜かないようにお願いしますわ」
霜柱でも立ちそうなくらい冷たい眼差しで僕らを一瞥した後、彼女は淡々と注意事項を述べた。
「分かっていますよ、イルテナさん。油断したくても出来ません」
僕は深く頷きながら、未踏の地で待ち受けているであろう困難に思いを巡らせて気を引き締める。
竜穴の地、バレクタス。【竜脈】による魔法のエネルギーが特に集中している土地。ダナン王国の中央部に広がる天険領域、その一角を担うクロックバーン山脈に連なる火山地帯である。
他所の地域と比べて魔力が強く、その影響なのか環境は劣悪で人が暮らすには適さず、凶悪な猛獣が多数生息するという修羅の国めいた地域だ。古の時代より王国はこの過酷な土地をシー族に与えて管理させてきた。ゴブリン族と同じく《原初の民》として被征服民族の十字架を背負わされたシー族に選択の余地は無く、先祖は涙を呑んで彼の地に移住したとフヨウさんからは教わっている。表向きは種族特権として土地を封建された形にはなっているものの、実態は隷属以外の何物でもなく、常に異分子として警戒されつつも国への奉仕を強要されてきたという暗い歴史があった。
……そういう背景がありながら国家公認かつ王家肝入りの王宮魔道師にまで出世したフヨウさんは本当に凄いと思うが、それはさておき――そんな筋金入りのいわくが付き纏う土地に、僕達は王都から派遣された責問使という名目でこれから乗り込むのだ。
《往蘇節》の真っ只中に起きた事件、あの夜公爵邸から奪われた《竜巫石》はバレクタスに持ち去られた可能性が高い――。ブリアンのこの見立てに、イルテナさんを始め老賢ホリンや国王ディアンも同意を示した。そしてその場で御前会議が開かれ、イルテナさんとラセラン王子を国家の代表として同地へ送り込み、真相の把握と事態の処理を図るよう命令が下ったのだ。
随行員として選ばれたのは、“渡り人”である僕、それからメルエットさんとスーリヤさん。それをゲラルドさん率いるドル・ドナ騎士団と、《竜牙の塔》から派遣された選りすぐりの魔道士達が護衛する形となった。総勢三百人を超える大集団だ。
ちなみにそれとは別に、イルテナさんやスーリヤさん、そしてメルエットさんも僕も自前の従者を何人か引き連れてきている。フィオラさんは言わずもがな、フォトラさんもメルエットさんの側仕えとしてこの一行に加わっていて、今は騎士団の面々に混じって野営の準備に手を貸しているところだ。僕は当然コバを伴い、イルテナさんはナンジュさんを始めとするゴブリンの庭師達を同行させてきた。彼らも今はそれぞれの主人の為に一所懸命動き回っている。
僕も何か手伝おうと思っていたのだが、“渡り人”であり正式な責問使の一員として任命されてもいる僕に雑務をさせるわけにはいかないとイルテナさんに却下された。ラセラン王子を差し置き、この一行の中で全権を担っているのは彼女のようで、その決定に面と向かって異を唱えるのは許されない。結局、この旅の間ずっと僕は心苦しい気持ちに蓋をしながら皆の作業を眺めているだけになっている。
だが、それは此処までの道中が平穏無事に過ごせたという証拠でもあるのだ。僕は周囲に哨戒役として配置に着いた騎士さんや魔道士達を見渡しながら、イルテナさんに尋ねた。
「明日にはカーレスの森に足を踏み入れるという予定ですが、この辺りはまだ安全ということで良いんでしょうか?」
「明日以降に比べればまだ危険は少ない、とだけ申しておきますわ。貴方も既に御存知の通り、私達が今進んでいるのはダナン王国の中央部。厳しい環境故に人が暮らすには向かず、長年禁域とされてきた地域です。特にカーレスの森から先は凶暴な原生生物が多数生息しており、迂闊に足を踏み入れればまず生きて帰ることは不可能でしょう。そこから程近いこの場所が、本当に安全だと言えるかどうか、“渡り人”殿もご自分の胸に良くお訊きになれば宜しいのではなくて?」
棘のある言い方には苦笑いを浮かべる他ないが、イルテナさんの言葉は正しいだろう。先程フィオラさんが言っていた通り、此処に至るまでの道中で既に山を二つと谷を三つ踏破してきている。ダナン王国の中央部がどれだけ不便な土地なのかはマルヴァスさんから少しだけ聴いていたが、よもやこれ程までとは思わなかった。
それでも、危険な外敵に襲われなかったというだけ今までは安全だったと言える。だが此処から先はそうもいかない。何が飛び出してきても対処出来るよう、気を抜かずに神経を尖らせておかねばならないだろう。
「“渡り人”殿、ご心配には及ばん。我が麾下が護衛している限り、御身らには指一本触れさせん。第二王子の名に懸けて、それは誓おう」
「ラセランさ……殿下、ありがとうございます」
騎士団や魔道士達を監督していたラセラン王子がいつの間にか戻ってきていた。ドル・ドナ騎士団の元締めでもある彼は、レバレン峡谷で見た時と同様この旅でも武装しており、磨き上げられた黒い鎧が西日を反射して艶艶しく光っている。小脇に抱えている槍も、あの時とは違って新品のようにピカピカだ。
「殿下、張り切るのは結構でございますが、貴方も副使としての任を授かっておられるのですから余り無茶な行動は控えて下さいましね」
「うむ、勿論その務めは忘れてはおらんよ公爵殿。しかし孤は、王子以前に武人でもある。貴公らに迫りくる脅威を退けるのも、孤に課せられた大事な使命なのだ。故に、場合によっては断固とした行動を採る。そこはご理解頂きたい」
イルテナさんが釘を刺すも、ラセラン王子は何処までが本気か分からない返答でやんわりとそれを退ける。イルテナさんも最初から聴き入れてくれるとは思っていなかったのか、僅かに肩を竦めただけでそれ以上は言わなかった。
実際、軍人として数々の実績があるラセラン王子の同行は心強い。国の後継者候補たる王子の片割れを派遣するか否かについては、言い出しっぺのブリアンがメンバーに立候補していたこともあって御前会議でも随分意見が割れたらしいが、蓋を開けてみればラセラン王子に軍配が上がった。彼と、彼の掌握するドル・ドナ騎士団は王国屈指の精鋭と名高い。第二王子という立場でありながら、ラセラン王子が前線に引っ張り出される理由はそういうところにあるようだ。
「殿下直々の御差配とは誠にもって恐れ多いことです。ご迷惑をお掛けするかと思いますが、今後とも何卒宜しくお願い致します」
女公爵と第二王子の会話の切れ目を見計らって静かに進み出たメルエットさんが、貴族令嬢らしい優雅な仕草で深々と頭を下げる。すると鷹揚に構えていたラセラン王子に明らかな変化が表れた。
「う、うむ……! メルエット嬢も何ら心配することは無い。無念にも同行が叶わなかった“鉄火”に代わり、孤がこの手で必ずやそなたを護り抜いて進ぜる。どうか安心してほしい」
ラセラン王子の声が上ずっていた。彼の内心を知ってか知らずか、メルエットさんは柔和に微笑んでもう一度頭を下げた。
彼が言ったように、ローリスさんは今回メルエットさんには同行していない。ヴェイグとの戦いで受けた毒はケルピーの秘薬で浄化出来たものの、傷そのものの完治までには至らず体力の消耗も激しかったので、大事を取って現在はイーグルアイズ邸で療養している。無論、本人はこの措置を不服として強硬に復帰を希ったが、例によってメルエットさんの厳命とイザベルさんの圧力によって封殺された。旅立つ前に最後のお見舞いをした際の彼の顔は、心なしかより一層酷くやつれているような気がしたがきっと気の所為だろう、うん。
フォトラさんとフィオラさんが付いて来たのは、そういった事情で参加出来なかったローリスさんの代わりを務める為という側面もある。
「あ、あの……今更なんですが、本当に殿下や閣下が直々にバレクタスまで赴く必要があるのでしょうか? もし何かあったら……」
「あら、立場で言うなら貴女も相当なものじゃありませんか大法官殿。教皇聖下の一人娘ともあろう御方が、このような不毛の大地にわざわざ出向くなんて御大層な勇み足ですこと」
おずおずと疑問を口にしたスーリヤさんを、相変わらず冷やかな嫌味でねちっこく突き回すイルテナさん。前から思っていたが、どうもこの二人は相性が良くないらしい。というより、イルテナさんが一方的にスーリヤさんを嫌っていると言った方が正しいか。
「わ、私にはあの夜大事な式典の進行を務めたという責任があります! 事件と無関係じゃないのに安全なところから高みの見物をするわけにはいきません! それに、これは良い機会でもあるんです! 《聖還教》の聖女として、未だに女神様の愛が届かない地域に希望を繋ぎたいと思ったから同行を願ったんです! お父さ……じゃなかった、教皇の娘かどうかなんてことは関係ありませんよ!」
いつもなら萎縮してしまうスーリヤさんだが、今度ばかりは頭に血が上ったのか敢然とイルテナさんに食ってかかった。イルテナさんも負けじと睨み返す。
「未開の地に女神の恩寵を、ですか。如何にも《聖還教》の方々が仰りそうなお考えですわね。《竜始教》の遺芳が香る大地を己の教義に染め替えようと日夜躍起になっているその御勇姿、誠に感銘を受ける限りですわ」
「ありがとうございます! ケルピーなんていう危ない精霊を使役して大活躍なさっている閣下に言われると光栄ですねっ!」
バチバチバチ、と二人の女性の間に見えない火花が散る。メルエットさんもラセラン王子も、居心地が悪そうな顔でいつ止めに入ろうかと様子を窺っているようだった。
(懸念要素があるとすればここだな。こんな調子で大丈夫かなぁ……?)
女公爵と聖女。相当な高位である筈の二人の女性から感情的なしこりの存在を感じ取った僕は、一抹の不安を禁じ得なかった。
兎にも角にも明日はカーレスの森だ。そこを抜ければ、バレクタスは目と鼻の先にある。
狼男が逃れた先と目され、あのヨルガンの故郷でもあるシー族の本拠地。そこで何が待ち受けていようと進むしか無い。
僕は未だ睨み合いを続けている二人の女性から意識を逸しつつ、ひとり密かに気合いを入れ直すのだった。